「朝の歌」について
萩 原 忠 三(昭和二年学部卒)
大正12年(1932年)9月1日の大震災で一橋の大部分が灰になってしまった時、学園百年の大計として西郊移転の断を下した佐野学長は、自ら国分寺立川間の国鉄ぞいの密林百万坪を歩きまわり、有名なヒゲにクモの巣がからまって真白になる有様だった。
石神井や中野の臨時校舎で姶められた仮授業は、寒く不便なものだったが、しかしセセこましい神田街からまだ大自然の風物がふんだんに残つている武蔵野へ飛び出していったことは、青年学生の生活になにか新鮮な緊張したムードを吹きこんでくれた。特に予科生の間ではゲーテ、カント、ハイネ、ダンテなどが盛んに読まれた。
「朝の歌」は「夜の歌」と共にこうした環境から生まれたもので、応募歌ではない。ニューフロンティアの新しい予科生活へデジケートしようと矢口君と二人で思い立って編んだ二部曲である。
蘆花や独歩の愛した武蔵野の清麗のロマンチシズムが、青年をこんな構想へ誘ってくれたのだと、今でもなつかしく思い出しているのは、独りよがりのお叱りを受けねばならないだろうか。(昭和38年2月20日)