「君よ知れりや」について
              
                  本田 実 (昭和2年学部卒)
 
 この歌ほ大正十二年予科三年の時に作った。その頃は「予科の歌」を毎年一つずつこしらえることになっていて、私は第三年目にこれを作った訳であるが、第一年目には萩原忠三君の歌詞が当選、第二年目には矢口孝次郎君の歌詞が当選した。
 私の作詞動機といえば、野暮ったい熊本の中学から東京に出て来て数年は経っているというものゝ、当時はやり出しのモガ・モポ風潮に反発を感ずる気持が強かったので、つい「あゝいつまでの泰平ぞ、あらしよ雨よ吹きすさべ」などと叫びたくなったょうである。しかし「起たば暗冥はらうべく、しばしば広野に苦を嘗めん」などと歌ったのは、何か第二次大戦後のことを予言したような気がするが、自惚れだろうか。第八節の中に使った「梨園」と云う字は作歌当時も大変気こなる宇であった。というのはこれは演劇界あるいは劇壇語だからである。しかし、石神井原の梨の花だけはどうしても謳いたかった。それで仕方なしに梨園を使ったのであるが、園を苑とでも書き直して繕っておくとしよう。
 この歌詞がほかのいくつかの歌詞とともに予科の廊下の壁に貼り出されて皆に検討されながら投票を待っていた時、私は自分の歌詞の前に立って、も一度それを読みかえしていたが、誰かが横の方で「何だかミニヨソの歌(註1)みたいじやないか」というので、なるほどと思い且つハッと思ってそちらを向くと、それが同年叔の正田英三郎氏(註2)であったことを、今でも覚えている。
 一橋を出たのち、神戸の高等商業学校につとめていて山岳部長を仰せつかり、部員達と一緒に穂高へ登り、帰りに上高地でキャンプを張って疲れをいやしていた夜のこと、小梨平を散策していると、”君よ知れりやひんがしの−-と”若い合唱が近づいてきたので、見ると商大予科の若者達であった。私はその時、ロングフェロ-「矢とうた」の詩(註3)を思いうかべてほろりとしたことだった。                                                     (昭和三八年二月一二日〕

(註1)「ミニヨンの歌」はゲ−テ著「ヴィルヘルム・マイスタ−の徒弟時代」第3巻。イタリヤ讃歌。
     フランスのトマ作曲、歌劇「ミニヨン」のメロディ−は有名。(詩には沢山の邦訳がある。)

君よ知るや南の国
レモンの花咲き
緑濃き葉陰には、こがねのオレンジたわわに実り
青き空より、やわらかき南の風
ミュルテは静かに、ロルベ−ルは高くそびえる。
君よ知るや、かの南の国。
かなたへ、君とともにゆかまし。愛しきひとよ。

Kennst du das Land, wo die Zitronen blueh'n,
Im dunklen Laub die Gold-Orangen glueh'n,
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht,
kennst du es wohl ?
Dahin! Dahin!
Moech't ich mit dir, o mein Geliebter,zieh'n.

(註2)正田英三郎氏は美智子皇后陛下のご実父。温厚な紳士。

(註3)Henry Wadsworth Longfellow(1807-82)アメリカの詩人。詩集「夜の声」、物語詩「エバンジェリン」など。
(「矢とうた」の詩)をお持ちの方はお寄せ下さい。)