「見よ七彩の」について
萩 原 忠 三(昭和2年学部卒)
日本で初めての新制官立単料大学として東京商科大学が生まれた時、初代学長 佐野善作博士は、入学式のあいさつに学部新入生を「ジェントルメン」、予科新入生を「ボーイズ」と呼んで区別した。そこで、われらボーイズであるからには、ジェントルメンとは違ったもっと新鮮な若さにあふれた歌を持とうではないかと予科生大会で演説したのが、茂木啓三郎氏だった。なるほどと思ってその晩、神田錦町の下宿で夜明かしをして書き上げたのが「見よ七彩の」で、掲示場には「予科の歌 第一回当選歌詞」としてはり出された。今からふりかえってみると、晩翠や藤村の影響が不消化のままチラついていて、まさに冷汗ものに違いない。しかしマルクスやマーシヤルだけではとても割りきれそうにもない青春の情熱が、こんな形ではけ口を見つけたのは自然なことだったと思う。後年ニューヨークに住んでいた頃、たまたま日本人クラブで予科出身の後輩諸氏が、思いがけなくこの歌を合唱してくれたことがある。恥かしさにテレながら、ふと涙が出た。それは過ぎ去った思い出に酔う、とても甘美な一しずくであった。(昭和38年2月20日)