歌 の 旅
依 光 良 馨(よりみつ よしか)(昭和15年学部卒)
東北の白石中学の想い出の一つに寮歌の高唱会がある。
同好の友数名が全国高校の寮歌を次々とノートに書抜いて、
放課後裏の古城の址へ集い合唱するのである。
これには未知の世界への憧憬と難関突破の悲願がこめられていた。
当時われわれのグループは一ツ橋の歌を誰も歌わなかった。
「商科だから良い歌なんかなかんべ」。こう云われると、
兄や先生にすすめられて受験することに決定したものの、
そこはかとなく感ずる物足りなさを私はどうすることもできなかった。
だが、一九三〇年〔昭五)春、石神井の予科へ入学の日、
上級生の合唱する「君よ知れりや」を聞いたとき、
ここに歌あり友ありと、入学の喜びをはじめて味わうことができた。
しかしこの日最後こ合唱された「長煙遠く」からは、
世界の一ツ橋であるという誇らしげな歌詞にも拘わらず
ほとんど何の感動も受けなかった。
寮には数篇の歌があり、皆でよく歌った。
だが 一ツ橋には歌が少ない、
そして若人の心をゆすぷるような歌が殆んどない……
こう感じたのは私だけだったろうか。
当時の深刻な不況下にあって、
流行歌「酒は涙か溜め息か、心のうさの捨てどころ」の方が,
むしろ若い学生の魂をキュッととらえているかのようであった。
石神井三年の後半に、私は、治安維持法違反で一ツ橋を追われ、
間もなく獄につながれた。
四年の後、三浦新七、上田貞次郎、堀潮、阿久津謙二、高島善哉諸先生
の高邁なる識見と温情あふれる保護の下、まだ検察下にあった私が復学を許され、
小平学園内に新設されたばかりの一橋寮へ身をよせたときには、
世界的なファシズムの高潮が
自治と自由の殿堂一ッ橋をヒタヒタと洗い始めていた。
この年寮歌がつのられ、応募三十数篇のうち何のはずみか「紫紺の闇」
が一等に当選した。
これにつき一言いえとのことだが、これほ決して良い歌ではない、
むしろ悪い歌だといいたい。
私とても、良い歌を作りたかった。
だが紫紺の闇のように暗いあの時期に、
たとえ一橋寮にはきら星のょうに多くの知性が光り輝いてはいたにもせよ、
それを心ゆくまでに、歌いあげることは、厳しい制約下におかれていた私にほとても出来ぬことであった。
所詮できぬとあれば、せめて、奴隷の言葉ででもと、
絶対制をオリオン星座になぞらえては、
万物流転の法則にてらしてその動揺をつぷやき、「あおげば凄しかまの月」と、
カマとツチ(東北弁でほ、月はツチ)印の国の躍進にもふれておいた。
しかし一橋寮の道しるベは、六十年の伝統リベラリズムにありと感じ、
最後の一節は高台から飛びおりる想いで書き下した。
果せるかな後日、当局から再三注意され、書き直すょうとまで云われたが、
「すでに社会的産物であるから」とつっばねてそのままになった一節である。
一年の間をおいて作った「離別の悲歌」は、
若き日の悲しい命の旅の日記とでもいおうか、
ささやかながらも試みられる多くの叡知の抵抗が激しい時流にあって
藻屑のように押し流されて行くのを見せつけられもしたし、
俊秀阿久津桂一君の死も手伝って、
私はあの中で、あわい希望の白光を見つめながらも、ほとんど絶望に近い悲鳴をあげてしまった。
山代洋、志水健人などのような最もすぐれた友達の戦死はあれからすぐであった。
私の作った二つの歌は、一九三○年代後半の昏迷の時代の悲しい奴隷の歌である。
現代とても、また別の意味で悲しい、しかし、かってとは比較にならぬ明るさの中にある。
一ツ橋が率直で明るい本当の意味での喜びの良い歌をもつようになるのは何時のことだろう。
(昭和34年10月〕
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