中村大兄
ながらくごぶさたいたしましたが、お元気のようすで何よりです。クラブ通信で「卒業五十周年記念事業準備委員会」委員長の大職をお引受けなされたとのこと読みましたが、いつに変らぬ世話好きな大兄の人柄が如実に伺われ、敬服いたしました。特に小生は過去数十年来色々とお世話になっているので、受益者の立場から申し上げている訳であります。
有意義な事業計画も沢山出て来たことでありましょう。私はもともと懐古癖があって、昔のことを思うと、すぐ古い欧州映画のメロディや、ムーランルージュのショー、エピキュールのコーヒーなど、たわいないことばかりが頭に浮かぶのですが、そういった「想い出ばなし」的な番組では、その場かぎりの賑いにおわることでしょう。やはり大兄が言うように、「……われわれ自身の一生の思い出となるばかりでなく、家族にとっても、又後輩の同期会・如水会・母校等に対しても、それなりの影響を与え得るようなアイディア」を打ち出さなければ意義がうすいことでありましょう。この点について、小生多少の感想を申し上げたいのですが、それも別に独特の創意があったのではなくて、ただ、日頃如水会々報を読んでいる中に、こういう問題こそが会員全般の関心を集めているところではないか、という想定をしたからであります。
@ 問題の焦点
如何にしたら一橋を昔のような一流の大学になし得るか?
A 文 献
如水会々報7月号「如水論壇」若松茂美、また5月号「如水論壇」半田敏雄、参照。(また過去数年にわたり橋畔随想に掲載された母校の将来を憂う文章を参照されよ)
B 私 見
経営学の大家Peter Drucker教授は二十五年前の著書"The Age of Discontinuity"で渋沢栄一氏が一橋の人材養成に尽した功績は、岩崎小弥太氏が、三菱財閥の成立に尽した功績に匹敵できるとほめたたえています。二十五年前、あるいは五十年前の日本ならこれは名言でしょう。今の日本人がそういうことをきいたらキョトンとなる人が多いことでしょう。(日本訳書名「断絶の世代」)
「一橋ルネッサンス」の必要性は、単なるOB連中の懐古癖からではありません。昔から学生一人当り校内面積の最も広いといわれたキャンパスをもち、優秀な学術伝統を誇りながら、そういった長所を十分に発揮できず、二流に近いoutputを輩出している学校になったとしたら、それは日本全体の損失であり、与えられた資源の最適な利用をしていないということになります。「一橋の損失は日本の損失である」という大局的な見方を文部当局にAcceptさせるべきです。
C 十二月クラブがなし得ること
わがクラブの親和力、実行力は如水会内外で定評のあるところです。しかし皆が古稀の齢を超えた今、そんなに沢山のことで華かさを発揮することもないでしょう。ここで「五十周年記念事業」として「一橋ルネッサンス」をテーマとして、まずわれわれが音頭をとり、われわれのエネルギーが弱った後でも、後輩の方々に引き継いでもらって、二十一世紀に花を咲かせたいものだと思います。
一度落目に入ったら、有機体が自力更生で立ちもどるのは仲々困難なことです。したがって無気力になりつつある学校自身に、「お前の欠点を自分でさがして、自分でなおせ」と期待するの無理かも知れません。幸いに一橋には如水会という有力な後援団体があって、その人的ならびに財的資源が、活用の方法如何によって、この際力になると思います。簡単な例を挙げると、前述半田敏雄氏の文の中で提起された「如水会と大学が一体になった審議会」という構想にしても、一旦実現の段階になると「どちらが先にイニシアティブをとるか?」ということで足がスクんだり、「誰が経費の心配をするか?」という細かいことで協同事業が座礁することもありましょう。そういうときに、もしわがクラブが"一橋ルネッサンス協力ファンド"を設立しており、貴兄や韮沢兄のような人望があり、熱心な人たちが居って、先輩・後輩・学校の間をまとめて、潤滑油の機能を発揮すれば、巨大な機械の運転の成功も可能でしょう。
以上の所見は、非在京会員の気儘な考え方で、恐らく今頃は如水会本部に於ても、12月クラブにおいても既に具体的対策ができているのかも知れません。その場合はどうぞ聞き流して下さい。だが万一役に立つようなことがあれば幸甚です。学校時代と違って今は日本国民でもなくなり、又将来子供や孫達を一橋に送ることもないと思うのに、一橋の"ゆくみち"がまだ気にかかるのは、やはり「一樹のかげに宿り、一河の流れを掬む」縁がそうさせるのかも知れません。暑い折柄御体御大切に。
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