磯部  誠

 

 はじめに

 最近、母校の現状将来について憂える声を頻りに聞く。早大一橋大ダブル合格者の記事には、世はさかさまになったかと、驚かされた。それが誤報と判ってほっとしたが、逆転はしてないとしても、相対的地位は相当変わったのであろう。
 私は、最近、母校の学生にも若い卒業生にも余り接していないし、学校の現状もよく知らない。知らないのに批判めいたことを含む注文をするのは不謹慎だが、関心を持たざるを得ないので、敢えて、この機会を利用して、一橋大学と学生そして如水会に望むことを述べさせていただく。
 私は商大入学前に、商業学校卒業後一旦就職し、二流と見られる大学の専門部を経た。卒業後、財閥系会社に就職したが、戦後は、中小企業を渡り歩いたサラリーマン生活の後、昨年まで十年余り大学等で経営実務に関する科目担当の非常勤講師を勤めた。このような変わった経歴を持つ一橋人の中の老二流人の感想であるから、多少の特徴があるかも知れない。

 学生の選択と世間の評価

 私は、一流中の一流大学として一橋に入学し、在学し、卒業した。その後現在に至るまで、それを誇りに思っている。二流三流の企業を転々として、勤務先又は肩書きについての劣等感を味わされることは屡あったが、有難いことに、出身校についての引け目を感じることはなかった。東大や京大、慶応や早稲田を出た人達と接触する際、余裕ある親近感を持つのが常であったが、相手は必ずしもそうではなかったかも知れない。

 大学を製造会社になぞらえれば、入試銓衡は原材料の仕入れ、卒業就職は販売である。一般の大学(短大・専門学校も)は今、生残りを賭けて仕入れ販売に必死である。最近、販売面は売手市場で大分楽になったようだが、仕入れ面では、一層困難な情勢を迎えている。学生の父兄や卒業者を通じて全国的に大学のPR活動を展開している歴史の古い大学もある。我が一橋大学については、石弘光教授の提案されるように、如水会員を動員して、その存在を国内国外一般にPRすることが望ましい。「仕入れ」は、大学だけに選択権があるのではない。原材料である高校生に先ず選択権がある。ダブル合格者の選択は、その端的な現れである。受験者一人一人の評価が正当でないにしろ、その選択の態様(偏差値等を含む)は、ある程度の客観性を持った評価であると言える。

 これに反して、「販売」された商品に対する評価は必ずしもそのような客観性を持たない。「商品」が均質でなく、マスプロ大学のように幅は広くなくても、バラツキがあるからである。それにしても、如水会々報で伝えられるような伝統的な定評と懸け離れたマイナス評価には、穏やかならざるものを感じる。大学又は如水会が中立機関に依頼して、最近十・二十年の卒業生の評価について就職先企業へのアンケート調査のような大数観察ができないものか。

 世間一般の大学に対する評価の指標となるものは、新卒業生の能力ばかりではない。出身者の社会での活動状況如何によって、その大学が格付けされる。例えば、出身校別の一流企業の役員の数などである。一人一人の能力や行動が、その出身校の評価につながる場合さえあるのである。

 学生を仕入れ・販売の対象たる材料・商品とすれば、大学は工場である。工場設備に当たる我が母校のキャンパスは、正しく一流中の一流である。商大入学前就職した勤務先の近くの慶応大の図書館を利用し、日吉の新設予科校舎も見に行った。その後、国立の商大キャンバスに行って、その素晴らしさに感動し、この大学に入ると決めてしまった。その頃、官立文科系大学の中で学生一人当たりの学園敷地坪数が日本一だった、と覚えている。

 最近、私は学会出席のため東京近辺の大学を訪ねる。頻繁に行く早稲田大学は、住まいから近くて便利だが、校舎も立て込み学生も群がっていて、魅力があるとは言えない。私が勤めていた成蹊大学でも時々学会が催されるが、出席の教授連中から、「便利な所なのに、広くて緑の多いキャンパスですね」と満更お世辞ばかりでなく言われることがある。学生時代、私にとって、国立のキャンパスが家から遠いことが、言わば玉に傷であったが、現在その立地は、この約三十年間に都区外に新設された大学学園に比べて、交通の便が遙かに良く、成蹊大と比べても殆ど変わらない。しかも校庭には武蔵野の面影を残し、校舎には適当に寂(さび)もついている。

 この魅力あるキャンパスが、我が一橋大の評価、従って選択に有利な要素であることを認識の上、従来の「植樹会」の寄与活動に倣って、如水会員の協力後援が望まれるのである。私にとってもう一つの魅力だったのは、学費の安いことであった。実は、商大学部に入る前の私立大専門部を選んだ指標の一つは安い学費であった。その頃の学生は貧しく、「苦学」を楽しんでいる者が多かった。最近は一般に裕福になったのは喜ぶべきことだが、学費の負担が楽な家庭ばかりであるまい。如水会として、優秀有望な一橋大学生に対する奨学制度創設を考慮することが期待される。

 実務関係科目についての要望

 工場の製品開発部門に当たる一橋大の研学状況については、世界に誇れるものがあり、教授陣も国際的な水準にあるとの会報記事があり、喜ばしい。私には学者の業績を評価する能力はないが、製造過程に相当する教育内容については、多少の希望意見がある。

 数年前、木村増三君が一橋大を定年退職前に、彼の「証券市場論」の後継者が学内で育たなかったということを聞いた。地田知平君の「海運論」も同様であるとのこと。「商業英語」も専任教師がいないので、木村君が青山学院大の羽田三郎教授に依頼して、非常勤講師として来て貰っている由。この三科目は本学が創設したようなもの、言わば「御家芸」と理解していたので、実に意外であった。羽田さんは、商業英語学会の仲間として多少のお付合いもしており、立派な著書もあり、優秀な方と承知しているが、学外から借りなくてはならないのが問題である。明治初年商法講習所開設以来、本学は我国産業の近代化に必要な人材を育成して来た。そのために経営実務を教えることが、本学の伝統的任務であり特徴であると承知していたが、今や時世は変わり、実務科目は些末な知識(trivialis scientia)として、二次的に扱われているのであろうか。

 現在は、国内も世界も明治期に匹敵する激動の時代であり、本学で教える内容もそれに即応するものでなくてはならぬ。実務関係の変動は特に激しい。私は、四十年近い会社員生活で、経理・総務・貿易等の実務を経験したのであるが、現実が自らの体験と大きく懸け離れてしまったものが多かった。例えば貿易関係では、複合輸送や移転価格である。コンピューターや通信施設関係では、毎月毎年転変進歩していると言っても、甚だしい誇張ではない。私の教師としての経験からしても、自分のよく分からない新しいことは、一応分かったような顔をして、避けて通りたくなるものである。もし学内に変動の激しい部分を避けようという傾向、そして理論的な研究に閉じこもり、実務に近い科目を軽視するという風潮があるのであろうか。

 このような疑問を感じて、当時の学長故種瀬茂さんに、植樹祭の節の写真を送るついでに、実務に密接する科目に関する現状と構想について、お尋ねした。折り返し、実務関係科目について各学部とも充実に努力している旨のご返事を頂いて、当時の商学部長今井賢一教授の現状のリポートが添えられてあった。

 その種瀬さんの手紙に、「……現実的に新しい問題に対応し:…・それを分析し教授する努力が払われている……」とあった。今井商学部長のリポートには、「貿易実務・商業英語に関する授業は、外国貿易各論の三講義で行われており……竹内弘高助教授を専任として迎えております。竹内助教授は、アメリカにおける実学教育の名門ハーバード・ビジネス・スクールの助教授として活躍していた人物...…」とあった。また、証券市場論、交通論もそれぞれ若手の助教授が就任し、「……理論と実学とを結びつけた新分野を開拓しつつあります」とのこと。商業英語以外については、一先ず安心した次第である。

 ハーバード・ビジネス・スクールに言及があったが、私の承知している限りでは、アメリカのビジネス・スクールは、日本では考えられない位に、企業と協力を保っているようだ。上述の通り、我国産業が激変過程にある現在、学内での学際的協力と共に、産学共同の推進が特に緊要になって来た。会報所載の意見にある通り、「日本経営を世界に教授する」ためにも、一橋大が企業との協力を強化し、如水会員がその斡旋に協賛することが期待される。差当り、一九六五年から約十年にわたって行われた「ハーバード多国籍企業プロジェクト」のような「一橋日本多国籍企業プロジェクト」が、進められることを希望する(既に進行中かも知れないが……)。

 数年前、兼子春三君から、一橋大との協力のもとに、如水会館を本拠とするビジネス・スクールの開設についての構想を聞いて、共感を覚えたことがある。その後、彼が同構想を如水会々報に発表しようとしたら、断わられたとのこと。それが大学自治の原則に抵触するとされたのかも知れないが(他にも同様な事例を聞くが、個人としての発言が規制を受けるのは理解に苦しむ)、このような提案を再検討することを切望する。

 英語教育について

 最近、学校一般の英語教育について批判の声を頻りに聞く。会話力訓練が不足で、読み書きについては文法偏重だ、というのがその主なものである。私は、大学等で商業英語を教えていて、学生の英会話力については分からないが、読み書きの面から、文法面を含む英語の基本能力の不足が感じられた。海外帰国家族の学生も同様である。そこで、木村増三君に「一橋の学生は英語ができるだろう」と聞いたことがある。彼は英文原書講読の経験で、「余りできねえなあ」と答えた。できるとかできないとか言っても、いろいろ程度があるが、最近の一橋卒の就職先の一部からにしても劣るとの評価があり、在学生からもその比較的低位を認める旨の会報記事もあるので、母校の現在の英語教育に改善の余地があるものと思われる。

 三十年も前のことだが、私は、東京高商を大正九年卒の義父から、自分が書取ったブロックホイスの講義のノートを貰ってしまっていた。そのことを木村君に話したら、当時一橋史編纂委員をなさっておられた細谷千博教授に懇望され、それを同君を通じて、同委員会に贈呈した。そのノートには、仮設商社の貿易取引例についての説明が全部英文で記されてあり、「商業英語」、「貿易実務」に「英文簿記」を加えたような内容であった。当時の商館貿易を反映したものであろう。その後、日本の貿易取引の主体も様相も次第に変転し、ブロックホイスのような外人教師も歴史的な使命を終えて、姿を消していった。

 我国経済が急速に発展し、企業が大規模化するに従って経営内の仕事が分課するのは必然の成行きだ。例えば貿易マンとか経理屋というように分業化し専門化する。ところが最近、社員が早期にジェネラリストたることを要請され、専門だけに閉じこもることを許さない新しい動向が始まっている。企業の海外進出である。我国の対外直接投資は近年急伸して、米英に次ぐ投資残高を持つに至った。若い社員も小規模な現地子会社に出向すれば、経営全般にわたって現地従業員と共に仕事をしなくてはならぬ。本部でも、企業組織内で緊密な国際コミュニケーションを保たなくてはならない。そこで主として使われる言語は英語である。

 このような企業国際化の新事態を学生に認識させ、そこで演ずべき役割を自覚させなくてはならぬ。英語だけについて言えば、上述の会報所載の在学生の、英語の実用性を追求すべし、その必要性を痛感するようなショックを与えるべし、という意見は、私の予て主張している持論と全く一致する。日本人が英語学習に熱心な国民であるにもかかわらず、その実用能力が世界下位に属するとの評価があるのは、西欧人や旧英国植民地人と比べて、生活を賭けたその必要性の実感に欠けているからであろう。

 四年制大学学生の英語能力は、入試の時を頂点として三学年頃から下降線をたどる、という永井道雄氏(だったか?)の説がある。在学中、学力評価と近い目標による強制の効果のある検定試験は、英語力の保持に好適だ。同提言の中にTOFEL・TOEICが挙げられているが、その他に、実用英検一級・準一級や商英検定A・Bクラスも適当だと思う。(経営実務関係科目の学力についても、中小企業診断士及び税理士の検定試験を、学校外評価を得るため受験することを勧める)。

 上述のような企業国際化の新動向が、商科・経営・経済関係の大学一般の研究と教育の現況にどの程度反映しているか、よく分からないが、英語に関して推測を試みよう。私は、英語関係の学会と簿記会計関係の学会の各二、計四学会の会員になっているが、英語・会計両方にまたがって入会しているのは、私だけである。そのことから、大学での会計・英語両科目の学際的結び付きの早急実現は困難であると推測される。しかし他方に於いて、数年前から東京の商業高校には、曾ての「英文簿記」に相当する科目が新設され、専門学校にも同様の科目が増えていると聞く。また、会計士のほか大学教師の英文会計に関する著書が、最近相次いで出版されたことから、その必要が一般に認められて来たものと思われる。私は、会計と英語の再連結を要望して、両学会で粗雑な研究発表をしたが、母校にも、企業の新しい必要に即応して、会計に限らず、経営全般に関するコミュニケーションに必要な英語の教育を期待する。

 私は、教養英語修得の重要性を否定するものではない。国際的産業人にとっては、それも実用英語であると言える。また、在学中に英会話能力を身に付けることが望ましいことは言うまでもない。しかし、海外旅行用程度の会話力で満足し、そのために時間を取られ、読み書き英語の基本がおろそかになるのでは困る。また近頃はやりの「通じる英語」、「英語らしい英語」に憂身をやつすよりも、むしろ現地英語の特殊なイディオムからなるべく開放された日本人式国際英語Englic, Japalishの洗練熟達に心掛けて貰いたいと思う。

 教わり方と教え方

 会報所載の片岡寛教授によれば、試験期になるまで授業に出て来ない学生が多く、出席率三割とのこと。現代の学生は一般に授業に優る魅力を持つ暇潰しの種が多く、また旅行などに要する費用を稼ぐために勉強する暇がないのかも知れない。我々老年の仲間には、学生時代に多かれ少なかれ文学青年だった者が多いのは、その頃小説類が最も安値で手軽な暇潰しの材料だったからであろう。(私の場合、暇潰しどころか徹夜までして、和洋文学を読みあさったものだ。その中には原文の英米小説も多少含まれていたから、予科を経なかった私は「教養語学」の大部分を学校外でやったことになる。「日はまた沈む」のパロディも分からない英文学科の学生が多いことを知って、時代が変わったなあと思う)。

 一昨年、亜細亜大学長衛藤瀋吉氏の「私語追放」学内通達についての新聞報道は、大学等にちょっとした波瀾を巻き起こした。授業中の学生のお喋りに悩まされている教師も、授業の内容又は教え方が悪いとの批判を恐れて黙秘し、学校も外聞をはばかるものだが、その報道以来、私語問題を学内で公然と論議する大学も出てきたようだ。授業中私語を厳しく規制すれば、出席数は少なくなる。出席を厳しく要求すれば、私語が多くなる。出席率と私語の量は正比例の関係があるようだ。一橋大の出席率が三〇%程度だとすれば、私語は少ないであろう。

 学生側から学生による教官の評価制度導入の提案があり、教官側から授業の組織的クォリティ・コントロールの構想があるとのことである。両方とも具体的に如何なる方法を採るのか分からぬが、効果的実行を期待する。学生側も「教わり方」のQCが必要だろう。教官側のQCに、明治以来の黒板と白墨を主体とする授業施設の拡充が含まれるならば、如水会員の協力支援の余地があるかもしれない。

 MIT(マサチューセッツエ科大学)の教師用マニュアルに、教師の資格要件として、その学科の知識と共に、その境界にある他の分野との関連知識について教えなくてはならぬ、という意味のことが記されてある。前述の通り、現実は多種の要素局面が密接に連なって動いている。境界関連知識がないと、隣接分野と話が通じない。国際間でも、大規模企業内でも、隣と満足な交信(コミュニケーション)が不可能である。また専門家から正答を引き出す効果的な質問ができない。(私は、部下社員の弁護士・公認会計士に対する質問で何度か実験した)。教師も学生も、絶えず隣を強く意識の上、それとの相関動向を顧慮することが必要で、そこに広い視野と実行力を持つ人材育成の為の一つの条件が存するものと考える。

 最後にゼミナール制度について一言。私は在学中特にゼミによって現実の見方考え方を学ぶことが大きかったと思う。そしてその後の人生行路で、多数の一橋人のお世話になったが、特にゼミテンの仲間に助けられ支えられることが多かった。心から感謝している。この一橋伝統の小人数ゼミナール制度が存続することを、切望するものである。