田中 林蔵

 

 母校一橋大学の現状について、最近如水会々報にいろいろと意見や批判が寄せられているが、問題となっている事柄は主として学校の経営に関連したものである。そして経営ということになると企業経営も学校経営も基本的にはそれ程大きな違いがあるとも思えないが、さりとて全く同じような考え方で対処して差し支えないということでもないように思う。

 嘗て三菱商事の大社長と言われた藤野忠次郎氏がよく口にしていたことだが、「この厳しい競争社会で三菱商事がつぶれないという保証は何もない。併し乍らわれわれはつぶれるにしても商社としては最後につぶれる会社であらねばならない」と。

 このように規模の大小に係りなく、企業の経営者が一番恐れ、従って常に頭から離れない問題は、「万が一にも会社をつぶすようなことになってはいけない」ということである。

 併し「つぶれたら大変だ」という危機感は企業に限ったことでもない。私立の学校の経営関係者も「紀元二〇〇〇年には学生、生徒数が減少するから今からいろいろと生き残り策を考えなければいけない」というようなことを言っている。このことは企業経営者の危機感に通ずるものである。

 ところが一橋大学の如く国立大学となると親方日の丸だからつぶれる心配は全くなく、またそれ等国立大学を管理する立場にある文部省も親方日の丸である上に、昔から大学には自治とか学問の自由とかいう考え方がある為、文部省の国立大学に対する管理もそれ程厳しいものではないように思える。

 私は「つぶれたら大変だ」という危機感と、それに関連して生れるであろう「つぶしたら株主や社員に申訳ない」という責任感が経営の原点だと思っているが、国立大学の場合の如く親方日の丸という環境の下では経営責任者に厳しい危機感や旺盛なる責任感が生れて来ないのも無理からぬことであり、従って一橋大学に於ける経営面のいろいろな問題に対する対応の仕方が、われわれのように長年に亘って商売の世界に居た者から見ると如何にもなまぬるく感ぜられる訳であるから、このことから直ちに母校の現状はこの儘放置出来ないとか、駄目だときめつけるのは早計であろうと思う。何故ならば企業の場合ですら、日本では米国と違って、単年度べースで経営者を評価するということがないので、日本の経営者は長期的視野に立って会社を経営することが出来、そのことが現在の日本経済の繁栄をもたらしたのだといわれている。ましていわんや国立大学たる一橋大学はつぶれる心配がないのみならず、日本の社会の中では相当高いレベルの人達の集団であるのだから、経営責任者たる学長を信頼してジックリ見守っていてやれば、何時の日か必ず学校の内部からの盛り上がりによって問題は解決されるであろうと思っている。

 また大学の場合「伝統」とか、その大学の卒業者の「母校愛」というものが、物心両面でその大学の大きな支えになっている。特に一橋大学の場合は人数が比較的少ないという事情もあって大学と卒業生の会である如水会の関係は極めて好ましい姿にあると言える。この両者の関係について如水会としては、「金は出すが口は出さない」ということを基本方針としていると聞き及んでいるが、これこそ将に如水会の一橋大学に対する態度であるべきで、この方針は将来共堅持すべきであろうと痛感された。