水田  洋

 

 (1)

 だめなのは「母校」だけではない。日本の大学全体、いや日本の教育全体が、だめになっている。ということは、やがて日本の社会全体がだめになり、日本沈没も避けられないだろうということだ。毎年、大学卒業生の就職シーズンがすぎると、会社の人事担当者が、もっと個性のある人がほしいという談話をくりかえす。教育とは、自分の頭でものを考える人間、つまり自分の考えをもった人間をつくりだすことだから、個性喪失人間をつくりだしたとすれば、教育は失敗したといわざるをえない。

 どうしてこうなったのか。原因はいろいろ考えられるだろうが、わかりやすいものを三つあげれば、小・中・高校の管理教育、大学に対する統一入試、全体をつうじてのマス・プロ教育であり、三つともあきらかに教育そのものの本質に反する。管理教育もマス・プロ教育も、手間をかけない安あがりの教育であり、教師が教育者としての責任を放棄することである。管理教育は、地方差があるから、かならずしも直接に文部省の責任ではないかもしれない。しかし、マス・プロ教育(クラスの規模すなわち児童・生徒・学生対教師の比率)は、文部省の権限で処理できる。小・中・高校のクラスの規模を半分にすれば、いわゆる非行も半減するだろう。もちろんそうなれば、教師のひとりひとりの生徒に対する手間は増大するから、力づくでおさえこむことしか知らない無能教師は、管理教育の方がやりやすいというかもしれない。それでは、そういう無能教師をつくりだした教員養成制度についての責任は、どこにあるのか。やはり文部省である。

 学級規模の縮小は、学級数の増大だから、金がかかる。だが、教育はもともと金がかかるものであり、それが日本のように営利事業としてなりたっていることの方が、おかしいのだ。他方で学生は、アルバイトにエネルギーと時間をとられて、勉強どころではなく、かれらの低賃金が、日本経済をささえている。経済大国、防衛大国なのだから、教育に金をまわすことができない筈がない。よくいわれるように、アメリカに買わされる最新型戦闘機用の防衛予算を教育に転用すれば、かなりの効果があるだろう。国防とか愛国心とかいっても、肝心の人間が藁人形ではどうにもなるまい。戦闘機をそろえるよりも、愛するに値する国にすること、値すると判断できる人間をつくりだすことの方が先である。日の丸・君が代の強制で片づくことではない。

 日の丸に言及したついでに、「母校」の弔旗問題にふれておこう。昭和天皇が死んだときか葬式のときかわすれたが、一橋大学は弔旗をあげなかった。このことについて、反響は、ぼくが知るかぎり三つあった。ひとつは文部省であって、その内容はいうまでもないだろう。あとの二つは、如水会々報にでていたもので、その第一は、この事件は大塚金之助の影響だという主張、第二は、この事件が息子を感激させて、「母校」受験を決意させたという報告であった。いまの学生で大塚金之助を知っているものは、ほとんどいないし、教師のなかに直接の弟子はいても、大塚の情熱を継承してはいない。(これは弟子の方の問題だけではなく、大塚の文学少年的空想のせいでもある)。そもそもひとりの教師の影響でそういうことがおこるような状況ではないのだ。それとは逆に、息子が感激したというはなしは、この事件の衝撃が、時流にまきこまれない考えを生みだしたということで、教育的効果の証拠である。

 日の丸・君が代のように、学問的に(国旗・国歌であるかどうか)議論のあるものを、学問思想の自由の府である大学に強制することは(国民個人個人に強制することは、事実上、不可能である)、全体主義的思想統制であるし、弔旗にいたっては、本来各個人の内面の問題である信仰(弔意)について、その表明を強制することであり、国家宗教への道をひらくことである。国立大学も政府機関なのだから、行政上の規律や命令に服すべきことはいうまでもないが、弔意の表明はその枠の外にある。

 ついでにもうひとつ。「母校」には、学長選挙について学生の除斥投票という制度がある。われわれの学生時代に、三浦→上田→高瀬という学長職の継承がどのようにおこなわれたのかは、知らないし、高瀬が上田の遺言をねつ造したといううわさもあるが、戦後の学長は、どこでも教授会の選挙にもとづいて文部省が任命することになった。一橋大学に学生の除斥投票制度ができたのは、戦後まもなく、上原学長のときだったとおもう。それはもちろん、一方では、当時活発だった学生運動の成果であったけれども、他方では、上原学長の大学理念、学生をふくめて研究者の共同体としての大学という考えかたから出たものであった。したがって、この古典的な大学像との学長選挙への学生の参加とのあいだには、なんの矛盾もない。

 問題は、それが現在の大衆化された大学のなかで、どう機能するかということである。いまの大学に、研究者としての学生など見あたらず、エコノミック・アニマルの幼虫がうごめいているだけだというならば、学生の除斥投票権は、気ちがいに刃物ということになるかもしれないが、研究者としての学生とは、かならずしも、将来研究を職業とするようになる学生を意味しない。私企業や公共機関のなかにも、教養人・知識人はいるし、またいなければならないのだから、大学は、いくら大衆化しても、そういう人びとの養成機関としての古典的大学の性格を、放棄するわけにはいかない。そうだとすれば、たとえ少数であってもかれらのために、学長選挙への参加の道は、あけておくべきだろう。

 (2)

 問題は「母校」だけではないと書いたのに、「母校」の問題に足をとどめすぎたようだ。大学全体の問題というのは、大学の大衆化のことだといってもいいだろう。それはまず、大学のレジャーランド化としてあらわれているが、そのかげで進行しているふたつの傾向がある。ひとつは、大学間格差の増大、つまり少数エリート養成大学とレジャーランド大学との分化であり、もうひとつは、おおくの国立大学の没落、スラム化である。一橋大学は、そのなかのどこに位置づけられるのだろうか。

 大学間格差の増大と固定化を促進したのは、一方では金がものをいう受験競争であり、他方ではそれを解消ないし緩和するためと称した共通一次入試である。受験競争は幼稚園からはじまっているといわれるように、いわゆる名門校・受験校にはいって、東大あるいは京大を卒業するまで、とにかく金がかかるのだ。たとえば、家庭教師と予備校。金がかかるだけでなく、身心ともに消耗する。娘の同級生で、そういう受験勉強のあげく、東大法学部に入学したが、入学式の前日に自殺した男がいる。目的は達成したけれど、その先はどうしていいかわからないというわけだ。自殺しないで卒業するエリートたちの心情も、だいたい想像がつく。馬車馬のようにエリート街道を突進してきて、むなしさを感じるやつはまだましで、感じないやつが、日本を支配するということになる。

 共通一次試験は、全国の大学受験生を、単一の系列にくみこんでしまう。だから、これによって同年齢人口の三分の一(大学進学率)のなかで、自分がどのくらいの位置にいるかがわかり、それをみて、このくらいの大学というえらびかたをする。共通一次世代はあきらめがはやいというのは、この序列化の結果である。あきらめを強化するのが、偏差値である。どの大学をえらぶかをきめるのは、共通一次の序列と偏差値(これも一種の序列だ)であって、自分が大学で何をしたいか、卒業して何をしたいかではない。ぼくが、予科にはいったとき、初対面の吉川良秋は、「ぼくは外交官になろうとおもう」といったが、いまどきそんな学生は、少数エリート集団のなかに(しかも例外的に)しかいない。永井道雄は、共通一次が、各大学の独自の入学試験を可能にすることを期待していたそうだが、この制度がはじまったとき、各大学には、それとは別に入試をする予算はなかった。文部大臣というのは、このくらいいいかげんなのである。

 小中高校から上級学校を受験するときの、進路指導なるものも、本人が何をしたいか、何ができるかではなく、はいれそうなところを受験させるということなかれ主義である。こうして大学にはいってくる学生は、自分の意見をもたないし、意見をいって他人と討論する習慣がない。一年のゼミナールは、こういう連中相手だから、お通夜みたいなもので、教師が一方的にしゃべらなければ間がもたないが、一方的にしゃべっては、ますます学生はものをいわなくなってしまう。コンパでも同様、「イッキ、イッキ」しかないのだ。ゼミの教師にむかって、「先生、ぼく本読むのいやだ」というやつもいる。

 教師の後継者は、こういう学生層の上澄みからくる。まさか「本読むのいやだ」とはいわないだろうが、けっして最優秀ではない。立身出世コースとしての大学教授というのは、虚名であって、文字どおり有名無実だから、実状をしっている優秀な学生は、大学院にのこらない。たとえば、いま名古屋大学大学院経済学研究科の学生は、半分以上が外国人である。日本人学生にとって、五年間の大学院コースのあとにくるものは、失業と奨学金の返済だというのが、ふつうなのだ。魅力あるキャリアーではない。

 後継者をえらぶ側にも問題があって、大体、使いやすい、おとなしいのをとる。伝えられているところでは、京大の物理学の教授が、かれは後継者として、財界との接触が上手で、研究資金を導入する能力があるものをえらばざるをえないと、告白したそうである。もうひとつの選定規準は、学者の二代目ということであって、一橋大学には数人、そういう研究者がいる。二代目だからだめだというわけではなく、実際に親をこえている人もいるけれども、逆に、二代目だからいいとは、絶対にいえない。京都大学に、助教授で定年退職した二代目哲学者がいた。親は哲学の京都学派の一人として、かなりの業績があったのだが、二代目は業績ゼロで、教授になれなかったのである。

 おとなしい後継者をえらぶということの、ひとつの結果は、研究者のスケールがちいさくなり、型にはまってしまうことだ。専門ばかといってもいい。ぼく自身、まえの世代と比較して、スケールがちいさくなったなとおもうが、あとの世代はますますちいさくなっている。その意味では、単科の東京商科大学の方が、四学部の一橋大学より、よかったのではないかとおもう。しかし現実には、規模の大きさが大学の格と入学者の質を決定しているようだし、広い教養よりも狭い知識が尊重されているようである。鵜澤君が礼賛した教養課程の自由化などは、大学としては自殺行為にひとしい。われわれだって、スピンクスやタイスリッジの英語や、上田貞次郎の修身を、不必要と考えた時期もあったではないか。