中村 達夫

 

 一、序 論

 私は昭和五十三年に、はからずも如水会の役員に選出され、理事二年、常務理事二年、監事四年と八年間にわたって各分野での業務を担当し、特に母校学園史編纂事業にも関係したので、大学の教官や事務局内の方達との接触も多く、また如水会の定款により学長は必ず理事に就任することが規定されており、さらに母校教官の一名が理事に就任することが慣例になっているので、歴代の学長や理事教官と個人的に会話を交わす機会に恵まれていたばかりでなく、多数の先輩・同輩・後輩と母校の現状や将来について論議することが屡々であった。   

中村 達夫 私が東京商科大学予科に入学した昭和十一年は、いわゆる「白票事件」で大揺れに揺れていた状況下ではあったが、十年十月に就任された三浦学長の卓抜な手腕により本事件は見事に収拾され、十一年十二月に三浦学長の後を継いだ上田貞次郎学長も十五年五月に急逝されるまでの間、一橋に数々の輝かしい業績を遺された。十指に余る名教授の熱気溢れる講義に聞き惚れ、「大学生になったのだ」ということを実感した。また体育面でも殆どの運動部が一部に所属しており、かつ常に優勝圏を維持し、ホッケー部はロス及びベルリンオリンピックに代表選手を送り、馬術部も全日本学生選手権を獲得、ポート部は第二期の黄金時代を謳歌するなど、十年代当時の一橋は、全ての面で正に「一流中の一流大学」であり、我々学生は胸を張って勉学にスポーツ道に意欲を燃やし充実した毎日を過ごしたことであった。

 我々が教官や先輩から言われ、耳に「たこ」ができる程に残っている言葉は、「一橋のレッテルを貼られた実力のない人間になるな」であった。

 この時代は、富国強兵を国是とする日本国興隆の高潮期にあり、計画経済を担当した一橋の実学は、産業界ばかりでなく、陸海の軍部内においても指導的役割を演じ、大きな貢献をした。

 この時代の日本の中級及び下級管理者の努力に対しては、「軍部指導者の唱える超国家主義やファシズムに協力した」という批判は免れ得ず、反省さるべきものであり、そして敗戦により「大東亜共栄圏確立の理想」は悪夢とともに霧散したとはいえ、終戦後のアジア各国から、十九世紀時代の欧米各国の植民政策の名残りを完全に払拭する効果をもたらしたことは事実であり、さらに戦後の混乱から現在の繁栄を獲得するまでの四十年以上にわたって母国経済界の中核者として渾身の努力をし続けてきた我々の世代の者にとっては、最近二十数年間における母校の一部教官や学生が、あたかも二流、三流の企業になり下がって無気力になってしまった経営者や従業員のように見え、まことに頼りなく思えてしまうのは無理からぬことであると考える。

 私が現在もOB会の副会長をしている端艇部を例にとれば、我々は現役中の六年間に四回も全日本優勝を果たし、かつ、惜しくも優勝を逸したとしても、常に決勝戦に出場し「隅田の王者」の名を冠されたのであるが、昭和四十二年に戦後三度目(通算九回)の全国制覇を果した以後は、予選第一日目で消えてしまうようなことの多い有様で、特に、昭和二十四年以来の伝統ある対東大定期レガッタでは、勝つのはいつも超OB戦ばかりで、対抗エイトの戦績は九勝三十三敗、特に最近の五年間は連敗というていたらくで、対校戦としての体をなしておらない状況であり、東大に対して申し訳なく恥じ入っている次第である。

 大学の現況については、『如水会々報』、十二月クラブの「三月例会」、如水会で五月三十一日に開催した「定例晩餐会」(『これからの一橋大学のあり方を考える』、パートT)で沢山の方々から、懸念すべき問題点が多々指摘があった通りである。このような現状に対してわれわれとして何ができるのだろうかと考え、それ等のうち特に重要な事項につき掘り下げた正確な情報を当クラブの会員諸兄に提供して論じ合い、記録に留めおくことだと思った。

 二、いわゆる『杉江論文』の取扱について

 序論で縷々述べたように、私も母校の現状を憂える者の一人として何かお役に立つことをしたいと思っていたときに、わが十二月クラブの卒業五十周年記念事業の一つとして、『一橋の将来を考える』というテーマでのシンポジュームが三月十二日の二組担当の例会で開催されることになったのであるが、この会合においてパネラーの一人である杉江君から「母校の再生を願って」という、正に当日のテーマに直結する意見書が出席者全員に配布されて、同君から「この提言は、『如水会々報』の如水論壇に掲載すべく事務局に提出したものであるが、『掲載拒否』となった」という発言があった。

 私にとって、『如水会々報』に掲載さるべく提出された真面目な論文が『掲載拒否』となったと聞くことは全くはじめての事柄であり、四月十一日に、金井幹事長、渡辺文集委員長と三名で久我太郎如水会理事・事務局長を訪ね、公式に『不掲載』の理由を質すとともに、『杉江論文』中の問題提起の重要な一つでもある「学長選挙制度改定問題を如水会々報において論ずることが『タブー』なのかどうか?」という二点を質すことにした。

 事前に、如水会々報編集委員長宛の文書を局長に示してあり、また当日付で局長から文書回答も受け、更に当日の会談内容は、本人の諒承を得てすべて録音テープに収めてあるが、それ等を本稿で詳細報告することは目的外であるので、結論のみを記すならば、『杉江論文』の取扱いについては、平成三年二月二十五日開催の理事会において、如水会々報編集委員長から課題として提起され、「会報掲載は当面見合わせる」として諒承されたものであり、『掲載拒否』ではなく、『当面凍結』であるとのこと、また、如水会々報の編集の基本方針として「世の中の風潮から差別表現と解釈されるおそれのあるもの」を除き、『タブー』は一切ないとの回答を得た。

 さらに『杉江論文』に関しては、如水会が、平成三年五月三十一日に開催した定例晩餐会、テーマ『「一橋大学の将来を考える」、パートT』においても杉江君自身から発言があったが、時間の関係と別の配慮もあってか、茂木賢三郎司会者(昭35経)が発言を中途で封じたかたちとなり、パネリストである大学側の片岡寛・石弘光・阿部謹也の三教授からも、如水会々報への問題提起の投稿者である若松茂美君・半田敏雄君及び服部正純君からのコメントも全くないままで終ってしまった。何れにしろ私としては、『杉江論文』の取扱いはまことに不明瞭であると感じていたので、つい最近、久我局長に顔を合わせたときに、「何時になったら『杉江論文』の「凍結」を解くのか?」と質したところ、「十二月クラブの記念文集に掲載されるとのことですから、それでよいのではないですか?」という極めて無責任な回答が返ってきたのには唖然とするばかりであった。

 三、学長選考規則について

 一橋大学の「学長選挙制度」についての問題点については、『杉江論文』中に触れられてあるので、省略するが、私は如水会事務局を通じて関係書類の全文を入手した。

 学長の選出方法についての規定は、『学長選考規則(昭和二十五年十一月十四日制定、改正昭和二十八年六月二十二日・昭和三十五年十二月十二日・昭和五十年一月十七日・昭和五十年五月十二日)』、『学長選考規則第三条第三項、第六条第二項及び昭和五十年一月十七日改正規則付則第二項に関する内規(昭和五十年一月十七日制定、昭和五十年五月十二日・昭和五十五年五月二十一日・昭和六十一年三月十九日改正)』、『学長選考規則第六条第二項に関する内規(昭和四十七年一月二十八日制定、同日旧学長選考規則内規廃止)』という(1.規則)、(2.内規)から成り立っている。

 私は、これ等を熟読し、本稿にその全文を掲載すべきかどうか迷ったが、五十周年記念文集の貴重な頁を使用するに忍びない劣悪な規則・内規であり、よくもまあ、このような規則・内規が国立大学の学長を選考する準拠となっているのかと呆れ返る内容であるので、取り止めることにした。

 恐らく、学生運動が熾烈な時期に、法律・規則の勉強に未熟な学生の暴力的圧力に屈して、当時の学長もしくは事務当局者が心ならずも制定・改正(?)を承認させられたものであると推測され、充分に論議が尽されたものとは思われず、かつ整合性に欠けるものである。文部省当局から、新学長が任命される都度、本制度の見直しを迫られながら、手をつけられないのは、本規則は事実上改訂不可能な規定になっており、『廃止』以外に処理のしようのないものとなっているからである。

 私は、戦後の各大学の学生自治会の活動意識や、いわゆる大学の自治なるものについて関心を持つ者であるが、このことについては別の機会に述べさせていただくとし、茂木賢三郎君が如水会々報平成三年四月号の如水論壇で『「一橋大学論」をレビューして』と題する論文の最終の章で、特に「ただ一言是非付け加えておきたいのは、我々がいろいろ問題提起をするのは、いま社会の二ーズ、問題意識が奈辺にあるかを率直に伝え、それを参考にして先生方に積極的なアクションを取っていただき、母校が一層充実・発展して「一流中の一流大学」であり続けてほしいという純粋な母校愛からのみなのであって、万が一にもいわゆる大学の自治に対する干渉などではない、ということである。この問題は、直接のプレーヤーである先生方であって如水会ならびに会員は応援団であるに過ぎない。いくら熱狂的に応援しても、応援団はしょせん観覧席に座っている立場なのである。大学にもいくつかの動きが出始めている。これが大きなうねりになることを心から期待しつつペンを置く」と述べていることに関して触れたい。
 私はこの文中の「大学の自治の干渉などではない」という個所にこだわりを感じたのである。この「大学の自治の干渉などではない」という表現は、前後の文意から判断して、「大学の自治の干渉などであってはならない」という意味と読み取れる。

 私は、如水会と一橋大学の関係は、鐘を打ち鳴らし、ラッパや笛を吹き、歓声や野次を飛ばす熱狂的なスポーツの応援団とプレーヤーの関係ではないと思う。私も勿論「大学の自治に干渉する」考えは毛頭ないが、プレーヤーに連繋プレーのミス、配球や選球についての訓練の不足があれば、我々自身が嘗ては学生や教官として「プレーヤー」であった経験を積んでいるのであるから、一般のスポーツ好きの野次馬応援団として、応援席で座してプレーヤーの未熟を嘆いたり、罵声を浴びせたりするのではなく、プレーヤーの自尊心を傷付けたり、やる気を失わせることにならないような「良い意味でのアドヴァイス」をする位の応援者であるべきであり、それは「干渉」には当たらないのではないと思う。

 このことは、学生に対してのみではなく、教官に対しても、事務局を担当する人達に対しても通ずることである。これすらも「干渉」であるとするプレーヤーであるなら、彼等は決して一流のプレーヤーにはなれないし、常に敗者となり、競技場へ出場する機会さえなくなることになるであろう。

 四、結 論

 私は、大学の内部で、昭和二十五年頃から小平校舎の移転問題や一橋講堂跡地の活用について各種の委員会が組織され、真剣な検討・論議が行われてきていることを知っている。しかし、四十年も費やして、なお結論が出ないことが不思議であり、文部省や大蔵省への働き掛け以前の大学としての意思決定方式について、何等かの欠陥(例えば学長の権限の不明確性とか各学部の意思の調整機能の不備)があるのではないかと憂えていたのであるが、ごく最近になって国の財政・行政改革の基本方針、国立大学の存在意義、大学教育の在り方、価値観、国際化等々の外部事情の変化もあってか、これ等が急速に改善され、前記の茂木氏の期待している「大きなうねりが既に出始めた」と私も感じている。国も、積極的に支援してくれるようだ。喜ばしいことである。

 計画の中身がどのようなものになるのかについて大学の中だけでなく、応援団である会員にも情報を積極的に開示されれば、力強い声援、支援が盛り上がることであろう。そして何よりも大切なことは、計画だけでなく、プレーヤーが一流中の一流の美事なプレーを演じてくれることである。これこそOB会員が胸を張って一橋卒業生なりとの誇りと喜びを語り合えることなのである。


    

ホッケー部 昭和14年4月、石老山頂上にて
ホッケー部 昭和14年4月、石老山頂上にて

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