(故竹村吉右衛門氏の追想など) |
7組 佐田 建造 |
昭和十六年十二月から翌十七年二月の三ヶ月間は、十二月クラブ会員諸君と同様に、私にとっても、徴兵検査・繰上卒業・就職・軍隊入営と生涯のうちで最も激動の時期であり、また将来の運命がきまる時期でもあった。 昭和十六年十月緊急勅令にて急遽三ヶ月の繰上卒業がきまった。大あわてで就職口をさがすこととなり、大学の学生課のすすめで安田銀行の採用試験を受けた。安田財閥系企業は安田保全社で採用試験が行われ、希望順によって就職企業がきまることになっていた。保全社の会議室のよった所で、安田財閥の理事などが居ならぶ前で口頭試問を受けた。たしか「コールマネーとは何か」と質問されたのを覚えている。 就職先はきまった。卒業論文を書くために(これは口実)、十一月半ば頃、彦根高商から一緒に商大にきた吉林登喜雄君と共に、箱根強羅に三泊程の旅をした。旅館の窓から見た雨に打たれている紅葉の風情が一しお美しかった。また夜に野犬が大勢騒いでいるのを見たことがある。 東京で徴兵検査を受けるため、高円寺の下宿に寄留する届を区役所に提出した。十二月七日杉並区役所で徴兵検査を受けた。残念乍ら(幸い)第二乙種であった。翌十二月八日の朝、下宿の小父さんが「佐田さん、日本が米英と開戦ですよ」と呼ぶ声で目がさめた。急いでラジオの前へ行き、真珠湾攻撃のニュースや宣戦布告の詔勅を聴いた。その時私は、徴兵検査の結果は第二乙種なので現役ではないが、いずれ軍隊に召集されるという予感がした。十二月二十七日東京商大を卒業して、一時郷里近江八幡へ帰省した。 昭和十七年一月三日上京し、翌一月四日大手町の安田銀行本店に出向いた。私は他の三名と共に小舟町支店に配属された。名前から想像して小さな支店かと思っていたら、百人以上の行員のいる大きな店舗(建物は貧弱であったが)であった。小舟町は安田銀行と旧第三銀行の発祥地で、もと両行の本店があった。大正十二年十一月に十二行大合同の時、本店が大手町に移転し、この地に小舟町支店が発足した由で、東京では本店に次ぐ重要な支店である。 小舟町支店に到着して間もなく、新入行員四名は支店長の前に集められた。支店長は母校の大先輩竹村吉右衛門さんであった。支店長は威厳のある中に温情をたたえた風貌の四十才位の立派な紳士であった。最初に私が呼ばれた。「君は算盤と簿記が出来るか」ときかれた。「商業学校を出ているので算盤は出来ますが、銀行簿記は忘れました」と答えた。兵役は第二乙種なので、いきなり「貸付係荷為替担当」と発令された。他の三名は二月一日現役入営がきまっているので、庶務係か計算係に配属されて、入隊までは算盤とか伝票の書き方などを習う由であった。 荷付為替手形とは貨物証券または株式・債券などを担保として発行された為替手形のことを云い、これを割引いて代金を受取人の当座預金口座に支払い、その手形と担保(株式)とを支払人の取引銀行へ取立てに廻す業務が荷為替割引業務として貸付係の一部門となっていた。当時安田銀行の東京での証券会社との取引は小舟町支店に集中していた。あたかも前月八日開戦以来、日本軍は連戦連勝だったので、軍需産業株は暴騰して株式市場は極めて活況を呈していた。私は新入行員なのに、入行当日から夜勤であった。当時は白紙委任状がないと株式の名義書換が出来ないので、運送保険料を節約するため、担保株式の小包と白紙委任状は別々に発送していた。新入行員の私は主として封筒の宛名書をさせられていた。私の隣の席に一年先輩の田中正三さん(昭16学卒)がおられた。同氏は入行以来約九ヶ月余りであるが、既に荷為替係のベテランで、私に手をとるように仕事を教えて下さった。 前述の吉林君が御母堂と一緒に阿佐ヶ谷に住んでいたが、彼が二月一日入営するので浜松近郊の二俣に引揚げるとのことで、一月二十日頃の日曜日に、その引越を手伝った。その二、三日後に私に召集令状(赤紙)がきた。補充兵の臨時召集で、二月一日伏見の輜重第十六連隊へ出頭することになった。余談であるが、吉林君は喘息のため入隊後直ぐに現役免除となったが、それに対して、第二乙種の私が補充兵で現役の者と一緒に入隊し、結局四年六ヶ月の間軍務に服した。彼とは対照的な運命となった。 召集令状がきた翌日、私に対する壮行会が芝の料亭で催された。十日程前に歓迎会をして貰ったばかりなので恐縮した。その夕は貸付係全員が集まられ、私が中心なので可成り飲まされた。その上二次会につれて行かれて終電車に間に合わなくなったので、荷為替係の主任さんの家に泊めて貰った。その翌夕は荷為替係だけの歓送会があって、また夜おそくなって主任の家に泊った。翌日は日曜日なので朝十時過ぎに三日振りで下宿へ帰った。すると小父さんも小母さんもほっとした顔をして、私が令状がきてから二晩帰らなかったので、今朝、竹村支店長のご自宅へ近所の電話をかりて、私が銀行に毎日出勤していたか問合せたと云った。下宿の小父さんは安田系の東京火災の役員の運転手をしていたので、安田銀行の竹村さんのお名前を知っていたのである。小父さんは直ぐに近所の電話で竹村支店長に、私が無事に帰ってきたことを報告した。支店長は今朝の電話で大変驚き心配されて、副長とか貸付担当役席の自宅へ電話された由。その結果、私が毎日出勤はしていて二晩は主任の家に泊ったことが判り安心されたようである。私自身はそれ程重大に考えていなかったが、支店長や下宿の小父さんは令状がきてから二晩も下宿へ帰らなかったので、万一兵隊に行くのが嫌になり逃亡したのではないかと心配されたのであった。 翌月曜日朝、主任につれられて支店長室へ行き、支店長にお詫びを申し上げたら、支店長は「毎日出勤していたのだな」とおだやかに言われただけで、何のお叱りもなかった。一月二十五日頃、私は応召のため近江八幡へ帰省した。 昭和十七年二月一日、伏見輜重兵第十六連隊に入隊した。自動車中隊に配属された。中隊では初年兵は約五十名余りで、全部繰上卒業の大学・高専の卒業生であった。しかしそのうち補充兵で召集された者は十六名で、他は全部現役である。二月末頃幹部候補生の試験があり、補充兵も無理やりに受験させられた。私も補充兵であったので何の準備もしていない。合格するとは全く予想していなかったが、不思議に甲種幹部候補生に合格した。補充兵で甲幹に合格したのは私一人であった。後に見習士官として原隊に復帰した時、私のような補充兵が何故甲幹に合格したのかと中隊長に尋ねたら、私は声が大きいので指揮能力ありと判定されたとのこと。また准尉は学校教練の成績がよかったからだということである。准尉のいう方が本当であろう。 昭和十七年四月東京の砧にある(現在の東京農大の所在地)陸軍輜重兵学校第二中隊に入隊した。第一中隊は渋谷の大橋にあって、そこには同期の佐治正三君がいた。十月に将校勤務の見習士官となり原隊に復帰。翌十八年九月まで教官をしていた。同年十月、ビルマ派遣第十五軍野戦自動車廠に転属、奈良にて部隊編成が行われ、同月下旬大阪港を出て十一月初めサイゴンに上陸、カンボジヤ・タイ国を経て十二月にビルマに入り陸軍少尉に任官した。その後インパール作戦に参加、印緬(インメン)国境を超えていたが、やがて後退し、後方部隊乍らマンダレー周辺では戦闘もさせられて、多くの部下を戦死・戦病死で失った。終戦の時はモールメン東方のコーカレーにいたが、その後英軍によってモールメン南方のムドン収容所に入れられた。昭和二十一年七月二十一日、不思議に命ながらえて、大竹に上陸、復員した。 安田銀行小舟町支店へは十月一日から出勤した。支店長は竹村氏から四代目の人であった。田中正三氏は本店審査部におられた。同氏は後に富士銀行取締役業務部長などを歴任され、同行退任後、箱館ドックの常務として入社、後に社長に就任された。折からの造船業界の不況で、会社の建て直しのため心血をそそがれ、人員整理などの対策を実行された。その過労のせいか、不幸にも病魔におかされ、昭和五十八年八月二日、六十六才で他界された。会社の再建途上であったので、さだめしお心残りのことであったと推察する。 竹村吉右衛門氏は安田銀行小舟町支店長から取締役本店営業部長になられ、戦時中に日本貯蓄銀行(後の協和銀行)の専務となられた。同行は安田貯蓄など七貯蓄銀行が合併した銀行で、同氏は安田財閥の代表として行かれた由である。そのため戦後パージで退任された。後にパージが解けて安田生命に社長として迎え入れられた。パージにさえならなければ当然富士銀行の頭取にはなっておられる器の大人物である。また恩義を重んずる方で、終戦時に安田保全社の社長で安田銀行の社長でもあった安田財閥最後の総長・安田一(はじめ)氏を、安田生命の会長に迎え入れられた。他の安田系企業が安田家に対し余り見向きもしないのに、竹村氏なればこそである。後に社長職を水野衛夫氏(昭9学卒)に譲られた時も、安田会長はそのままにして、自らは相談役に退かれた。 安田生命の本社が鎧橋にあった頃、昭和三十七年十一月に、私は富士銀行兜町支店長に赴任した。前任支店長からの業務引継を終えた翌朝、竹村社長が来店された。応接室へお通ししたら、竹村社長は開口一番「お目出度う。俺が安田銀行の小舟町支店長の時の新入行員が支店長になったのでお祝いを言いに来た」とおっしやったのには全く恐縮した。入行当初お世話になり、殊に前述の通り特に応召前ご心配をおかけしたことのお礼とお詫びを申し上げ、その後のご無沙汰を謝した。それにしても同氏の下で私が仕事をしたのは僅か二十日程で、しかも二十年余り経っているのに、当時の新入行員の名前を覚えておられたのには敬服した。同時に私自身、部下行員を温情を以てあつかうことを、無言のうちに教えられた思いがした。 昭和三十八年に安田生命は新宿駅西口前に九階建地下二階のビルを建設し、本社を鎧橋から移転した。当時、新宿駅西口前は未だ開発されず雑然とした状態であって、誰も今日のような発展を予想し得なかった。その時期に、ここに本社ビルを建設する決断をなさった竹村社長の先見の明に深く敬服申し上げる次第である。昭和四十三年八月、私が富士銀行新宿支店長に赴任した時には安田生命本社へ社長をお訪ねしたり、新宿東口地下駐車場(サブナード商店街)の建設などのことで、時々お目にかかった。大成建設にいた頃は、竹村氏は安田生命の相談役に退いておられたが、時々会社へお訪ねし、有力な情報やご助言を頂いた。 竹村氏は在家仏教の主唱者であり、宗派を問わず仏教界のために尽力された。浅草寺の檀家総代をされているほかに、天台宗総本山・比叡山延暦寺横川中堂が、織田信長の襲撃によって焼失したままになっていたのを、同氏が実業界などに募金なされて、再建立に力をそそがれた。同氏は昭和五十九年六月七日八十三才で大往生なされ、葬儀は竹村家の宗派である浄土宗の増上寺本堂でしめやかに行われた。 私が安田銀行入行当初にお世話になった竹村吉右衛門氏は今はなく、卒業五十周年を迎え、そのご恩に深く感謝の意を表すると共に心からご冥福をお祈り申し上げる次第です。 |