青春時代を青年期という言葉で表現するとすれば、軍隊での生活が私の青春時代に大きなスペースを占めることは間違いない。
私の軍隊生活は、昭和十七年春の、近衛歩兵第二連隊への入隊に始まる。その時、靖国神社を望む田安門の衛兵所は欄漫たる桜花の下にあった。
幹部候補生になるまでの集合教育期間中は、皇居乾(いぬい)門に正対する東の営門近くに位置する通信中隊の内務班に寝起きした。その頃、唯一人の仲間であったのが早大出の本明寛(もとあきひろし)君であった。後に母校教授で高名の心理学者となった同君も、長文の軍人勅諭の暗記は苦手であったらしく、「早く銀座の"ミュンヘン"にでも行って、大ジョッキを空けたいなあ」などと、人懐っこい微笑を見せながらこぼしていたものである。
中隊長のH中尉・中隊付きの1少尉は、ともに、さすがは近衛の青年将校と思わせる気品と凛々しさを漂わせつつ、また良識も温情も備え持つ若者であった。あれからの彼らが如何なる星の下を辿ったかは知る由もない。しかし、その後彼らより好ましい軍人に出会うことは竟になかった。
経理部幹部候補生の前期教育に当たる師団の集合教育が行われた期間は、同じ構内にある近衛歩兵第一連隊に移り、第一中隊に起居した。禁けい守衛を最要の任務とするこの連隊の、殊に「全国部隊の頭号中隊たるの自覚と衿持」をキーワードとする第一中隊での内務班教育は、挙措・言語・服装などの万般に渉り極めて厳格であった。
ある外出の適わぬ晩秋の休日の昼下がり、今は北の丸公園となっている濠の中の樹間から、眼下の九段坂や千鳥ヶ渕に往還する『地方人』の群れを眺めつつ、あらためて「自由と規律」について思索する時間を持ったことである。
小平の陸軍経理学校における疾風怒濤の後期教育を終え、見習士官として旭川の第七師団捜索第七連隊に赴任したのは、昭和十八年の初夏で、北海道が一年のうちで最も輝き立つ季節の中であった。
第七師団はノモンハン事変参戦以降内地に温存され、充分な兵員と装備とを保持して、当時の陸軍においては正に精強を誇るに足る兵団と言うべく、師団長のK中将また北支戦線で活躍した勇将であった。殊に、さきに騎兵連隊から改編された捜索連隊は、乗馬中隊のほかに、機動性増強のため軍用トラックを使用する乗車中隊と、威力捜索にあたる軽戦車の中隊とを持ち、師団の花形連隊として活気に溢れていた。
その夏、始めて旭川の南方、美瑛演習場での捜索訓練に参加した。払暁を過ぎ、朝霧が次第に消えゆくあとに、雄大な緑の原野がやわらかな北の光の下に姿を現し、東方には白雪を頂く大雪山系の山なみが望見できた。私は始めて接する北海道の自然の豊かさに純粋に感動した。
十一月に入ると、早くも雪の訪れが始まる。この年の師団演習は道北・宗谷の山野を舞台に展開された。
連隊は早朝旭川駅を発し、比布(ピップ)・士別・名寄・美深(ビフカ)と宗谷本線を北上し、音威子府(オトイネップ)で下車、各中隊に分れて山中に入り、更に北を目指して索敵と戦闘の演習に入った。
山間いの農家に宿した折、ダルマストーブの上で焼いた馬鈴薯澱粉のやわらかでほの甘い味は今なお舌に名残をとどめているし、また幕舎の土間に敷いた藁の上で、薄い毛布の寒さに震えた風雪の夜も、皮膚に記憶を残している。
終盤に近づいた小雪の朝、愈々高地に踏み入った。ダケカンバと熊笹の密生する文字通り道なき道を分け上ること二、三時間、突然視野が開けて遥かに天塩の町を望見した。午後の日本海にも、それを覆う無限の空にも、重い鉛色を見るばかりで、利尻・礼文の島影は望むべくもなく、ただ小止みなく舞いしきる飛雪を見るばかりであった。
小休止の後、再びの難行軍を経て漸やく天塩の町に下り立ち、部隊は待機していた軍用トラックに分乗した。敵前線からの離脱訓練が開始され、私は連隊本部の指揮官車に乗った。車は天塩-遠別(エンベツ)-羽幌(ハボロ)を経て留萌に至る海岸道路をひた走り南下する。熟練の運転技術を持つ軍曹の前のスピードメーターは常に一〇〇キロを越え振れ動いている。右方には日本海が、そして左方には荒涼たる丘陵がつづき、強風のため殆どが傾き立つ灌木の列が後方に飛び去っていく。人影は全く見えず、鉛色の海からは絶えず粉雪が吹きかかり、砕け散る白波の岩礁に鴉が群れて鋭い叫び声を上げていた。辺りが急速に夕闇に包まれる頃、遠く留萌の灯が見え始め、車は徐々にスピードを落とし、演習は漸く終りを告げた。
昭和十九年夏、戦勢の不利が次第に覆い難くなって来た頃、北方軍よりの下令により、第七師団から第七十七師団(稔兵団)が分離新設され、前者は司令部を帯広に置いて道東・北地区の、また後者の司令部は札幌にあって道西・南地区の、それぞれ防衛を担当することになった。
既に前年主計少尉に任官していた私は後者師団傘下の捜索第七十七連隊勤務を命ぜられ、連隊は日高の浦河(ウラカワ)に駐屯した。浦河は、苫小牧に発し南端襟裳岬への入口様似(サマニ)駅に至る海岸鉄道日高線の終り近くに位置する町で、新冠(ニイカップ)・静内(シズナイ)など競争馬の産地の中心として夙に有名であり、以前から騎兵隊の演習地としての廠舎や馬房が設置されていて、直ちに勤務に就くのに何等の支障もなかった。ひととせ
浦河で送り迎えた一年の四季には、最も叙情的な風景が満ちている。
夏の盛りは短かく、海流の接点に当たるためか霧の立ち込めることの多かった砂浜に、独りよく馬を走らせたものである。その休息に倚る丘の辺に、健気に紫桃色の花を咲かせているハマナスの姿が何とも愛おしかった。
薄日の射す初冬の一日、司令部の施設担当の中尉と共に、小型四輪駆動車を駆って、様似・幌泉を経て襟裳岬に至った。敵潜水艦監視の任に当たる分哨の三角兵舎を視察するためである。岬の上の草原には絶えず強烈な海風がまともに吹きつけていて、歩行すら困難を感ずるほどである。灯台に上がると、そこは太平洋上に聳え立つ高さであった。視界を遮るもの一つとして無く、空と海とが無限の広さで体に迫り、俯瞰する岩礁には壮大な白波が砕け散っていた。
昭和二十年六月、沖縄の失陥と共に戦雲は愈々急を告げ、兵団は急拠本土防衛の中枢部隊として鹿児島県下に移駐を命ぜられ、県中央の山間部に展開した。その頃鹿児島と宮崎の海岸線は米軍上陸の有力候補地として想定されており、上陸された際は、時を移さず水際防禦部隊の支援戦闘に馳せ参ずるのがわが兵団の主たる任務であった。
米機の空襲は日に夜に激しく、鹿児島市内は一夜にして焼野原と化し、その他の主要都市も次々と焼夷弾の被害から免れることは出来なかった。我々は海岸線に遠からぬ台地上に逐次陣地を構築しつつ移動していった。
七月に入り、連隊は県西部串木野市内を見下ろす丘陵地帯にあった。串木野の南方から弓状に延びる吹上浜は上陸の上位候補地とされていたのである。
ある晴れて暑い日の昼、私はひとり陣地構築の予定箇所を見るため宿舎の農家を離れた。山路は次第に上り坂となり、やがて串木野鉱山の入口にさしかかった。金銀の採掘で知られるこの鉱山も、既に閉鎖されており、樹々は生い茂って辺りは仄暗く、空気は湿り気を含んで青く澱んでいた。更に歩を進めると、日の射さぬ路は草に覆われて一層狭まり、上り坂が続く。小一時間も過ぎたと思われる頃、徐々に明るさが加わり、空気も流れ、やがて樹林のトンネルも終って視界が開け、丘陵の上に出た。南国の目くるめく陽光が私を迎え、私は一瞬眩惑を覚えて立ち疎んだ。
丘は一面の草原で、所々に群れ立つ濃緑の樹々の上には深く蒼く澄んだ空が広がり、日光が垂直に降り注いで来る。微かに風がそよぎ、夏の真昼の明るさが極まっていた。見晴かす串木野港の彼方には甑(コシキ)島の島影が遙かに煙り、北は天草灘から南は東支那海に連なる海原が鈍い銀白色に光っている。この耀く空間の、草原の緑と天穹の蒼とを分つあたりに、名も知れぬ小さな朱色の花々が燃え立つように咲き群れて煙めいていた。私の耳朶に「シェヘラザード」の甘美なシンフォニイが鳴った。
いくばくかの陶酔の時が過ぎた頃、南から微かな爆音が聞え、やがて遙か遥かの蒼穹に敵爆撃機の編隊が現れた。時として目に入る鋭い白銀の反射光が、この世のものならず美しく見える。わが方からの抵抗は全く無く、彼らは悠然と幾何学模様を描きながら薄絹のような飛行機雲を残しつつ、次第に北方に消え去っていった。再び静寂が戻り、深い空しさが私を包んだ。
それから一ヵ月足らずで戦いは終り、昭和二十年十月、兵団は数編成の貨物列車に分乗、肥薩・鹿児島・山陽の各線を経て、日本海沿いに北海道に向う復員の途につき、私は途中、両親の疎開地に赴くため、夕映えの直江津駅のプラットフォームに下り立った。間もなく機関車の動輪が回転を開始し、「私の陸軍」は列車と共に彼方に走り去っていった。最後尾の車掌車の赤い尾灯が見えなくなるまで私は挙手の礼をつづけ、やがて主計中尉の襟章を外した。私の軍隊生活への訣別と、これから始まる残された青春の時への首途の儀式であった。
この数年の間、北海道や鹿児島の曾遊の地を巡ったが、私の青春に再会することはついになかった。五十年にも近い時の流れが、何れの対象も、そして私をも、大きく変えてしまったようである。私が串木野に行くことはもうあるまい。あの耀く緑の丘と、あの蒼い大空と、そしてあの燃え立つ朱い花々とは、私の密やかなる心象風景の中にだけ存在し続けぱよいのである。
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