1組 新井 隆 |
昭和五十六年、熱海の観光荘で卒業四十周年の総会をしてから早くも十年。十年毎の総会を開いたその観光荘も取壊されて今は無い。十年前の昭和五十六年は私の第三の人生の始まった年でもあった。その年の六月、最後の勤務先の監査役を辞任して、大学卒業以来はじめてフリーの身になった。 それから十年。今この十年を振り返ってみて最も強く印象に残っているのは十二月クラブの諸活動である。それは時に楽しみであり、心の支えであり、活力の源泉でもあった。 十二月クラブを抜きにして、この十年の私の生活は考えられない。 海外旅行同好会 昭和五十六年六月、仕事から離れて自由になったものの、これからどうすべきか心に空洞が出来た感じで迷っていた。丁度その時、十二月クラブの海外旅行が計画されていたので、先ず気分転換をしようと思い、誰に気兼ねすることもなく之に参加、西独、スイスの旅に出た。 現役の時代には商事会社勤務とはいうものの、専ら国内の仕事で、外国に出かけたことは遂に一度もなかった。生まれて初めての海外旅行であった。以後昭和五十七年は娘の結婚式と重なり参加出来なかったが、六十二年まで毎年海外旅行に参加した。 この六回の海外旅行を通して十数ヶ国を歩いた。旅をした国々については書物や新聞からは得られない色々な感触を得られ、其の後の私の物の見方考え方に大きな影響を与えたように思う。 元来語学が下手で英会話もろくに出来なかった私が何度も楽しく海外旅行が出来たのも十二月クラブのお蔭と深く感謝している。特に田中仁栄君には毎回大変お世話になった。 旅行を通して新しい交友関係も始まった。関西の瀬戸山君や恒成君とは全く面識が無かったが、旅行を通して親しくなったし、東京在住の諸君とは家内共々親しくして頂いて親戚にもまさるお付き合いをして頂くようになった。 その中でも最も元気が良く終始リード役を努めてきた戸辺君とは五十八年から三年間、海外旅行で付合ってもらい楽しい旅行をさせてもらったが六十一年七月突然亡くなられたことは大きな衝撃であった。 幹事長を務めて それは思いもかけぬ全く突然の話であった。 そんな或日、嘯風会の昼食会で是非私が次期幹事長を引受ける様にと話が出て有無を云わさず引受けさせられる羽目となった。 当事、酒井幹事長の辞意は固く、後任を探していた。そして一組の幹事に、歴代幹事長は既に各クラスから出ているが、一組だけがまだ幹事長を出していないので、次期幹事長は是非一組から出すよう強力な要請があったとのことであった。 元来一組は十二月クラブの運営について麦倉君在生時代は彼が何かと携わって貢献していたが、彼が亡くなって以降、之を継ぐ者が無く又、例会への出席者も他のクラスに比べて少ないと云う状況であった。そうした中で会計幹事をしていた私は、例会への出席も多く、他クラスの連中との繋がりも多いので、適任と思われるから、曲げて是非幹事長をやってほしいとの要請であった。 当時十二月クラブは会員が第三、又は第四の人生に入る時期で、酒井幹事長の下に「二十一世紀委員会」が設けられ十二月クラブの今後の在り方について盛んに議論されていた。そして十二月クラブの中には積極論、消極論入り乱れて、之を纏めてゆくのは大変な時期であった。 幸いに一組は全員で応援してくれると云うし、家内も応援してくれると云うので、心を決めて幹事長を引き受けることとした。 二十一世紀委員会の結論は結局、月例会や同好会の活動を活発にして二十一世紀に向けて元気で頑張って行こうといった趣旨であった様に思う。この趣旨に沿って月例会、同好会の活性化を計り会員の親睦をより高めることに中心をおいて十二月クラブを動かしてゆくこととした。 又、残念なことであるが年々物故会員が増え現存会員が減るので、会の活性化を計るには将来、物故会員のご夫人方にも準会員として参加して頂く必要があると思った。従って例会、同好会に物故会員夫人を出来るだけお誘いするようにした。 さて今までは会計幹事と云う、どちらかというと受身の後始末的な仕事をしてきた私にとって幹事長の職は全く違った感じのものであった。 方針を決め、年間スケジュールを決定し、之を予定に従って推進してゆかなくてはならない。大袈裟に云えば、会の運営は幹事長の考え一つにかかっているといった感じである。 当初はどうしたら良いのか戸惑った。しかしやり出してみて十二月クラブの偉大さが判ってきた。何をやりたいかは幹事長が決めなくては始まらないが、決めて動き出すと後はそれぞれにベテランがいて旨く処理してくれるのである。 下田、田中、一森の三副幹事長は万年副幹事長としてそれぞれの分担役割を地道にこなしてくれたし、企画については名企画委員長の中村達夫君に大変ご厄介になった。又十二月クラブ通信の発行については森田善之助君が情熱を燃やして取り組んでくれた。名簿の発行では、光永八太郎君が面倒な仕事を一生懸命にやってくれた。東西懇談会では企画から実施まで毎回、壷井君、片柳君に大変なご苦労を掛けた。 十二月クラブの多くの会員諸君からも激励、協力を頂いたことは忘れられない。「幹事長ご苦労様」との労いの言葉は多くの方々から頂いた。 クラス幹事の方々は、担当月の行事について積極的に企画、立案され、より楽しい実りのあるものにして頂いた。 私の出身クラスである一組は従来、月例会への出席が悪かったが、私を支援して、かなり多くの方々が出席して盛り立ててくれた。 任期中の昭和六十一年は卒業四十五年に当たった。十年毎の中間の時期ということで特に改まって大きな企画は行わないこととした。その中で記念文集は出さなかったが森田君の努力で十二月クラブ通信の特集号をだした。これは又、一味違った記念号となり良い記念となった。 慰霊祭は坂田君や下田君のご尽力で、従来通りご遺族をお招きして浅草寺で盛大に行った。十二月には箱根の湯本ホテルで総会と懇親会を行った。この総会で次期幹事長候補に渡辺公徳君を挙げ副幹事長に就任して頂いた。 幹事長を務めた最後の年、昭和六十三年は悲しい思い出の年となった。 林君が亡くなった翌八月、入院中だった光永君が亡くなった。光永君は、かねがね奥様に「おれの親戚は十二月クラブだ。万一の事があったら十二月クラブの人に相談してくれ」と言っていた由で、奥様からのご依頼で、葬儀については、片柳君が準備一切の交渉を引受けた。私には葬儀委員長をしてほしいとのご依頼があり、お引受けした。弔辞は二組の折下君が読むこととなっていたが丁度折下君が出張中で、他に引き受ける人が無く、私がすることとなり、急遽、弔辞を作って読んだ。弔辞を読んでいるうちに万感こみ上げてきて、最後には涙がこみ上げてきて絶句してしまった。 続いて九月には入院中の森田善之助君が亡くなった。森田君はその年の春までは元気で十二月クラブ通信の編集に携わっていたが、咳が止まらないとのことで入院、手術を受けたが遂に帰らぬ人となってしまった。 名簿編集委員長とクラブ通信の編集委員長の二人を一両月の内に失って、此等の仕事がどうなるかも、大きな心配であった。しかし幸いなことに名簿については下田君が、又クラブ通信については酒井君がそれぞれに引継いでくれて事無きをえてほっとした。 そして三年務めた幹事長の職をその年の十二月の総会で渡辺君に引継ぎ一安心した。 日本舞踊同好会 馬場君の提唱で昭和四十二年から始めた日本舞踊同好会は、家内が指導を引受けてスタートしたが本年で足掛け二十五年になる。 昭和五十七年九月、新如水会館が完成したが、その折り小唄同好会の片柳君より舞踊同好会をこの機会に如水会の同好会に発展させたらどうか、とアドバイスがあった。丁度良い機会と思い早速「如水若柳舞踊会」の名称で如水会の同好会としてスタートした。その結果、この十年の間に新たに如水会員三名、会員夫人等三名の入会があり、いずれも熱心な会員で、同好会の活動は賑やかに活発になった。 今、この十年を振り返ってみると、私の第三の人生は十二月クラブに支えられて歩んできた感じだ。十二月クラブの諸君に慰められ、励まされ、其処に生き甲斐を感じて歩いてきた。深く感謝申し上げたい。
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