4組  蘆田 正之

 

 茲に卒業五十周年の記念文集の募集に当り、あの童顔(?)で寮生活、運動部生活、ゼミナール生活をして来て早や五十年、七十二才人生最終コースに入ったかと思うと感慨無量である。その間軍隊生活と会社員生活をやって来たが、お蔭で幸運にめぐまれ、特に生命の危険にさらされたり、嫌な思いで会社を退めようと思うことなく過ごすことができ、、更に近時は十二月クラブの人々との暖い友情に、家内共々厚く感謝している次第である。

 今更語るべきキャリアでもないので最近年をとって来て気がついたことを二、三書いてみる。多分今更何をと一笑にふされると思うが……。

 (1) 親族家系図の作成のすすめ

 今年の五月、毎年行われている親族会で、甥から私の祖父の兄弟姉妹の質問が出たが、その子孫の現況は全然知らないという現状である。私の父は兵庫県丹波山奥の黒井町(福知山市の近隣で現在の春日部町)出身で独り上京して来たため、父の親族は殆ど関西に展開し生計を保っている。従って甥にしてみれば殆ど知る由もなく、せめて私が生きている間にその関係図をつくり教えておく必要があり、早速両親を中心にしての一覧表を作成した。驚いたことに最近の若い父母は仲々凝った名前を付けているので難しく、一覧表にしてみると、いとこ、はとこの関係が良く分かり全員に配った。更に親の出身地の従姉妹の方へ送り、同じ様なものを作って貰う積りである。各家の長男(どうしても長男同士は親しい)は既に歿後となり、早くしないと連絡もとれなくなってしまうと痛感した。父が分家して上京し、戦後でも四十六年を経過し、益々疎遠になり勝ちである。次代への申し送りの義務怠慢を恥ずかしく思っている。

 (2) 墓参り

 右の様な状態であるので東京に墓を造り、そこで全て用が足りるので故郷への墓参を殆どしていない。それでも小生は自分の親の出身地ということで父親をつれていったり、戦後の様子を見にいったりして、二〜三回は訪れているが、家内を始め娘達は全然知っていない現状である。案内しないから当然であるが、最近皆に希望を聞いたら是非ということもあり、足腰の自由な中に是非実現して親の義務を果して置かなければ、それこそ御先祖様から何をしてるかと云われてしまう。便利な世の中になっていながら、つい仕事にかまけたりして人間の原点を忘れ勝ちなことを反省している。

 (3) 墓守り

 先程書いた通り、私の家は遠く故郷を離れて来ているので、お墓は東京で手軽に皆がお参りに行ける所をと考えていた。幸いに弟が出張車中で上野寛永寺の墓地売出しの公告を見て応募し、早々入手した。その後は空地にしておいて父親を第一号とし、次いで母親という具合に入っている。墓碑の建設は弟と二人で行った。各兄弟に当番月を定めて毎月誰かがお参りしている。

 此処で云いたいことは、どの範囲の人が入るか、誰が墓守りをするか、お寺の諸費用は誰が持つか、等々のことを次代、三代、四代、後の人によく話をつけて置く義務が創立時の我々にあることである。私の方は娘二人のため次代は弟の長男に今からよく話しておいてある。然し後代になると親密度が少ない親族が入って来て、経済的負担増加とか核家族による地方分散が始まり、墓も分かれてくると思うが、何にしても墓守り丈はきちんとしてほしいので、創立者が生きてる中に充分打合せをして後々のトラブルを避けておきたいと思う。

 以上今更ということばかり書いたが、今迄手が届かず放置しておいたので遅ればせ乍らこれからやっておきたいと思うことを書いてお茶を濁させて頂く。