5組 張 漢卿 |
台湾生まれの寒がりが、卒業以来の月日の大半を、冬の国カナダで、過ごす事になろうとは、思いもよらなかった。停年になった後、ロスかフロリダの様な暖かい所で、冬を送ろうかとも考えたが、治安の事を心配して、実行するに至らなかった。 こうして、窓外の雪明りに、家路を急ぐ人影を見て居ると、冬には冬の美しさがあるものだと思う。その昔、ヴィルヘルム・ミューラーは、「冬の旅」に詩境を求めて、格調の高い一連の詩を作り、同じドイツ・ロマン主義派の後輩に当る、ハイネに多大の感動を与えた。シューベルトは、それらの詩を元にして、あの有名な連歌集を作曲したが、その中で、最も優れた名曲と云われて居る「菩提樹」は、若き日の我々の心を、どれ程掻き乱した事であろう。 永い冬の夜も、書を読み、音楽を聞いて居れば、すぐに時がたつ。テレビでニュースや、文化番組などを見倦きた時は、近くの映画館に行って、スクリーン一面に広がるドラマを楽しんで来る。そう云う映画の筋も、出演者の名前も、屋外の寒い風に吹かれた途端、大抵忘れて仕舞うものだが、最近見た映画に、大変立派なものがあり、年に似合わず、深い感動を受けた。一緒に見に行った家内も、「きっとオスカー賞を沢山貰う事でしょう」と褒めていたが、案の定、先週の授賞会で、それを七つも取ったという実況放送があった。決め手の「ベスト映画」賞は勿論の事ながら、その他に、監督、脚本、編集、撮影、作曲、音響効果などでも、優勝して居るから、映画史上、稀に見る名作だと云えよう。 映画の原名は "Dances With Wolves" と云うから、日本では差し詰め「狼と踊る」というタイトルで、封切りされて居る事であろう。コスナーと云う、凝り性の俳優が、一気に、製作・監督・主演の三役を引き受けた上、北米原住民の歴史、生活習慣、言語、衣裳などに付いて、考証に考証を重ねた作品である。昔の西部劇に出て来るインディアンは、必ず悪党と決まって居て、それが勇敢なカウボーイに、パンパンと撃ち殺されて、ハッピー.エンドになると云うのが常道であった。ところが当時の西部開拓の事実は、この映画が正しいとすれば、そんなものでは全然無かった事になる。 日本で云えば、尊王攘夷と佐幕開港の争いが激化して居た一八六〇年代に、アメリカでは60万人の犠牲者を出して、南北に分かれて、五年に亘る内戦をしていた。所が、南部諸州の奴隷解放を要求して、戦争をして居た筈の北軍は、この映画で見る通り、同時に西部の平原に、兵力を裂いて、原住民達を追い散らし、その土地を強奪して居たのである。内戦が北軍の勝利に終り、全国一斉に横断鉄道が始まった70年代、80年代に至ると、土地の掠奪は益々劇化し、原住民達は、寒冷な不毛の僻地に押し込められて行った。 一方で、アフリカから、人攫いに売られて来た奴隷が自由を回復している時に、他方ではアジア大陸から、一万年以上も前に渡来して来て自由奔放に暮していた黄色人種は、逆に自由を喪失する様になって居るとは、まったく皮肉な対比である。祖先達が誇らかに闊歩した土地を、今他人が、土一升、金一升でボロ儲けして居る時に、子孫達が、生計を維持する土地も技術も無く、僅かな政府の補助金を当てにして暮して居るのは、余りにも不公平である。 こういう不公平に対して、昔から不平を云う声はあったが、アメリカの繁栄を脅す邪説として、黙殺されて居た。アメリカ人の国民思想が、独立以来、強気一点張りであった事は、無理も無い事である。併し、それも一九五〇年代の黄金時代をピークとして、その後は、内向的に傾斜して来た。 絢欄たる統治を期待されたケネディが、原因不明の暗殺に倒れて以来、一種の暗影が国の上下に漂い、更にベトナム戦争、それに続く一連の政治暗殺、ウォーターゲート事件などで、「アメリカ・ナンバー・ワン」の自尊心は、徹底的な打撃を受けた。勿論その間、アメリカ経済に起きた、製造工業の停滞、失業の慢性化、貧富の差の激化などが、民衆をして、一切の権威に対して、尚更批判的にならしめた事も否めない。 これに依って、従来問題なく、アクセプトされていた多くの事象が、一つ一つ、その価値と真実性を問われる事となった。政治家に対する不信任、大気や水の汚染に対する反撥、戦争に対する反感、弱小民族に対する同情などが、活発に議論され、原住民に対する見方も、大きく変るようになった。この映画は、その潮流を代表する、優秀な作品の一つと云える事であろう。 併し、有識者の間で、同情心が高まっても、一般の世論の原住民に対する偏見は、一朝一夕に消え去るものではない。今後とも、なすべき事は沢山残っている。唯、白人のインテリの間では、かなり以前から、「高度に発達した物質文明の圧力に押し潰されて煩悶する時は、インディアン社会の精神生活に習うべきものが有るのではないのか」という朧気な希望が存在して居た。その良い例は、嘗てスイスの心理学者力ール・ユングが、態々アリゾナ州に出掛けて、プェブロス・インディアンと呼ばれる原住民の宗教生活を調査した事にも見られる。 ユングは回想録の中で、「このインディアン人は、我々の弱点を直撃し、我々の気付かなかった真理を云いあてた」と述懐している。彼は原住民達の心の中には、古代人の原型に近い精神面が有り、そこから何か習う事によって、白人患者の精神分析をする時、役に立つと信じて居たらしい。 ユングは若い頃、フロイド心理学に傾倒し、将来は、その学統の継承者に成って貰いたいと、フロイド自身に嘱望された程だった。だが数年の後には論争をして、フロイドと分かれた。彼に云わせると、フロイドは、人間の心理を悉く最終的には、性欲、食欲、権利欲に帰着するものと見ているが、自分はそれに満足出来ない、世界観の基礎には、宗教的、精神的なものが、無い筈がない、との事だ。どっちが正しいかは、素人の我々には判らぬが、本屋での陳列の仕方や図書館の借り出しの記録で見ると、ユングの方が、明らかにポピュラーであるらしい。 ユングの著作の英語版、全20巻は、プリンストン大学から出て居るが、その第11巻に宗教関係の論文が、東洋、西洋の二部に分けて集められて居る。東洋の部に収録された六篇の中で、特に目立つのは、鈴木大拙の著書の為に書いた序文と、ユングの故友、リッヒヤルト・ヴィルヘルムによる「易経」の独訳が、更に英訳されて、プリンストンから出版された時に書いた、19頁に及ぶ長い「はしがき」である。その「はしがき」の中には、我々の様な、東西両洋の思想に触れて来た者にとって、共鳴する個所が少なくないが、以下の一節は特に印象深い。 西洋の科学では因果律が根本になっているが、今や大きな変化が、この立脚点に起きつつある。カントの純粋理性批判が成し得なかった事を、現代物理学が完成しつつあり、因果律の公理は根底から揺がされている。我々が自然の法則だと考えて居る事も、実は、単に統計上の真理だけであり、必然的に例外を許容すると云う事を、今初めて我々は判って来た。自然法則の変らざる妥当性を証明する為には、厳密な制限を整えた実験室が必要であるという事を、我々は充分に考えて居なかった。物事を自然に任したら、全く違った現象が現れる。即ち、すべての過程に於て、部分的に或いは全面的に、偶然性が干渉をするから、自然なる環境の下で、物事の経過が、完全に特定の法則に従うという事は、寧ろ例外に近い方であろう、と。 ユングが心理学者でありながら、現代物理学の理論に言及しているが、その年は湯川秀樹氏がノーベル賞を授けられた年であり、デンマークの二ールズ・ボール(Niels Bohr)が、一九一三年に原子の構造を理論化して、量子力学をスタートした時から数えて、既に36年もたって居り、現代物理学の重要な理論や発見は、専門家以外の知識人士にも、広く知られて居たようである。 ケンブリッジに留学したボールは、コペンハーゲン大学に理論物理学研究所を創設したが、彼の深奥な学識と、明朗な性格を慕って、世界各国の優秀な物理学者が競って集り、彼の影響を受けて、新物理学の形成に、それぞれ貢献をした。我々の様に、中学時代、古典物理学の初歩しか習わなかった、文科系統の者にとって、新物理学の理論は、どんなに平易に解説をして貰っても、あれよ、あれよと驚くばかりである。 我々なりにも判って来た基本的な相違は、旧物理学が、宇宙の大なるものから、分子・原子の小なるもの迄、因果律が適用すると云うのに対し、新物理学は、一旦原子の中に入ったら、確率だけがあって、因果律は無い、と主張している点にあると思う。この確率の概念を受け入れるのに抵抗したのは、我々が門外漢である証拠だが、我々とは全然違うレベルで、アインシュタインも、その学説に抵抗をして居たそうである。 この問題について、彼とボールとが、激しく論争した事は、物理学史上の有名な挿話になって居る。彼がその時云った言葉、「神は骰子を振らない」(God Doed not Play dice)は、その後完全に覆された。今、振り返って見ると、彼がニュートン以後、最大にして、最後の古典物理学者である、と云われた理由が判る。 ボール自身は、光は時と場合によって、粒子で有ったり、周波で有ったりする、という相輔性(complementarity)理論の開拓者であった。「物には総て二面性がある」という考え方は、その後の発見で、電子を始め、凡ての粒子に陰と陽があるという事や、すべてが男女の配偶の如く、フェルミ粒子とボーズ粒子の対になっているという事などで、愈々肯定されて居る。 一九四七年、デンマーク国王は、ボールの功績を認めて、最高の勲位を彼に授与した。その為に、ボールは紋章を設計させたが、それは、真中に陰と陽を組み合わせた太極の図(所謂『二つ巴』)を配置し、その上方に、「相反するものは相輔する」(Contraria sunt complementa)という題銘を付けた、意味深いデザインであった。ボール生誕百年記念論文集に、その紋章の写真と説明が出て居たので、ここに挿絵として借用し、彼の世界観を測り知る助けにしたい。 20世紀初頭に芽ばえた新物理学は、我々の歩んで来た過去70数年の間に、驚くべき生長と発展を遂げた。その影響は、サイアンス・テクノロジーのあらゆる部門に、巨大な変革をもたらし、我々が学生時代に苦労してかじった、18・19世紀の哲学思想までも、根本から再検討を受ける様になった。力ール・ユングが「易経」の神秘に心を引かれ、二ールズ・ボールが、「陰陽」の思想に共鳴したばかりでなく、70年代や80年代に入ってから、若い物理学者達を始めとして、一般のインテリまでが、易経、禅、老子などについて、真剣に探究する気構えを示した。 この半世紀来、東洋社会は必死になって、西洋の物質文明に追いつくべく努力し、今や色々の面で、それを凌駕する迄になった。未曽有の繁栄を謳歌する東洋の若人達が、ともすれば、煙たがる精神文化.を、西洋のヤッピイ達(Young Urban & Professional)が、熱心に勉強して居るのを見ると、これを単に、「英国病症候群」として、片付けられないものが有る様な気がする。 東洋の哲学や宗教に対する興味が増加したばかりでなく、西洋自身の既成教会での礼拝者の数も、永い間停滞乃至は減少して居たのが、最近に至って、急増していること、そして若い人達の増加が特に顕著であることが、注目に値する。更に面白いのは、ソ連や東欧諸国で、教会活動の自由が許された時に、若い人達による参礼と支持が強かったと云う事である。貧しき国、富める国を問わず、欧州ならびに、北アメリカの社会に於て、精神の拠所を捜し求める気風が高まっている。そして民族と国家間の利益の衝突で、卍巴の戦いを繰り返して来た欧州が、世界大戦の悲惨な経験と、核戦争への恐怖から、平和の貴さを身に泌みて感じて居る。 こういう様な時代の背景を以て考察すれば、何故にスターリン式の専制政治が、殆ど無血で、今日の東ヨーロッパに見る様な共産体制の崩壊に迄至ったか、その説明が出来る事であろう。併し、こうして世界的に、人間としての尊厳が広く再確認されている時代に於て、とり残されて居る国々もあるのだ。それ等の国は、第三世界に属するのが多いが、その中でも、中国の例は特に痛ましいものがある。 原始教会の素朴な信徒達は、羅馬帝国の迫害を受けながらも、その清らかな信仰心を失わなかった。所がローマ国教として信奉された以後は、官僚化した法皇制の教条によって歪曲され、その貪婪(どんらん)と腐敗による民衆の苦痛の緩和剤として、引き出される事が多かった。しかし、それに似た事が、古代中国にも起った。 『対人関係には道徳を重んぜよ」という孔子の教えは、始皇帝の逆鱗に触れて、焚書、坑儒の暴政を見るに至った。所が漢王朝が成立した後、儒教は国教として奉ぜられ、生殺与奪の絶対権を握る天子に対し、臣民は無条件に服従する義務がある、と云う解釈を付けられて、それ以後二千年、中国政治の理念として、今日に至っている。 西洋では、宗教改革とルネッサンスのお蔭で、幸いにして大きな変化が起り、今日の西欧および北アメリカに見る様な権利の分散と、文化の多様性が齎されたが、中国に於ては、そういう反逆は許されなかった。最後の皇帝が紫禁城から追われて以来、80年近くになるが、天下を掌中に握るという帝王欲は、亡霊の如く、未だに中南海に漂よって居る様に見える。マルクスの正反合の弁証法を信じて、武力革命に成功した中共の老人達が、一方交通の政治を民衆に押し付けながら、それでも反撥は起きないと信じているのは、矢張り耄碌したからであろうか。年寄りなら、年寄りらしく、老子の言葉位は覚えて居るであろう……。「治大国、若烹小鮮」(大国を治むるは、小鮮を烹ずるが若し)と。 雑魚を料理する時は、一々鱗を取ったり、尾鰭を切ったりせずに、鍋にドサッと入れて、水加減と塩加減さえ見ておれば良い。大国を治めるコツも又同じで、ごたごた掻き廻さない事だ、という意味である。毛沢束が躍起になって指揮した「大躍進」も「文化大革命」も、今にして見れば、無意味な過激運動に終ったばかりでなく、中国の近代化を20年も逆戻りさせたことになる。 「老子」の著者は、孔子が教えを乞うた老子であったか、どうか、現代に至るまで片付いて居ない問題であるが、その全書にみなぎる自然主義の思想は、「見えざる手」に導かれて国富は自ら増大するという、スミスの経済論を思わせるものが有る。そしてまた、民意の赴く処に従えば、君は治まると云う近代の民主思想とも、一脈相通ずるものが、有るのでは無かろうか。 伝統の英知を誇る東アジアと、西ヨーロッパでは、"Live and let live"の心構えが、人間社会を住みやすくする生活態度だと信じられて来た。それに基づいて、今アジア・太平洋地域で活発な経済協力が進んで居り、欧州で統合の気運が盛り上がって居る。どちらとも、前途に色々の問題を抱えて居るが、「平和と安定の中にこそ、本当の進歩と繁栄がある」という信念さえあれば、一つ一つ解けてゆくことであろう。 北米大陸でも、そういう気運に刺激されて、89年度からアメリカ・カナダ自由貿易の発足があり、目下メキシコをも入れた三国協定の交渉が進行中である。賃銀水準が米加の何分の一しかないメキシコ製品がなだれ込んだら、どうなるか、皆心配をしているが、ここ迄来たら、騎虎の勢いで、前向きに進むより手はなさそうだ。 カナダでは、フランス系住民で構成されて居るケベック州が、来年迄に、カナダ連邦から脱退して独立すべきかどうか、全民投票の是否を目下議論して居る。ケベックが独立すれば、残った九つの州は、バラバラになって、逐次アメリカ合衆国の一部として吸収され、最終的には、ケベック迄も同じ運命になる事であろう。トロントがアメリカの一都市になる迄、ここに住んで居るかどうかは判らないが、アメリカの治安の事を考えると心配である。カナダの様な住み良い国が、何故、この地上から消えてゆくのか、残念でならない。そういう風に考えて来ると、寒いカナダの冬も、そんなに辛いものではないと、諦めが付く。唯一の慰めは、独立・分裂・合併の様な非常事態が発生しても、暴力の使用は起り得ないという信念を、皆が持って居る事である。我々東洋人が、古来の美徳として誇って居た「和」の精神を、西洋の人達は、「法治」と「民生」を通じて、実行に移して居ると云えないこともない。
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