月日が経つのは早いもので、亡夫威が他界して来年はもう七回忌を迎えます。思えぱ昭和五十七年八月、娘の家族達との旅行を楽しみにして、まだ小さかった孫達に「もうすぐ旅行だから病気にならないようにね」と言っていた矢先、本人が倒れて入院。右半身麻癖と失語症という状態になりました。失語症に関しては全然知識が無く随分戸惑いましたが、お陰様でそれは九月に入ると急速に回復しました。しかし麻痺は簡単には治りそうもなく、医者からも「右手の回復を待つより左手で食事をしたり字が書けるよう練習をしましょう」と言われ、それから毎日左手で日記を書き続けました。短い文章ですが、その中から選んで文集に載せて頂く事にしました。
十月八日、金曜日
台風が近づいたせいか朝から雨が降り続いている。主治医が代って湊口、野口の両医師から初めて診察を受けた。あと一ヶ月位たったらリハビリ専門の病院へ転院した方がよいと言われた。
十月十五日、金曜日
今日で十月も半ば。それにも拘わらず体力の回復ははかばかしくない。正午頃教授の回診があった。午後四時過ぎ学友の松田君が見舞に来てくれた。久し振りに会い、一時間程いろいろと話をしてくれて有難かった。一日中よく晴れた秋日和であった。
十月十九日、火曜日
数日振りで雨降りの天気となり気温もぐんと下がった。十一時頃、学友の田中順之助君が見舞ってくれた。松田君から小生の病気の事を聞いて、びっくりしたと言っていた。
十月二十二日、金曜日
朝から検査ずくめで昼食をとったのは一時過ぎ。それからリハビリをすませ、ベットにやっと戻ったのは三時近くですっかり疲れた。
十月二十七日、水曜日
十二時頃、学友の大野君が見舞に来てくれた。彼の話はいつでも明るい話題で、相手の憂うつな気分を吹きとばしてくれる。今日も彼の話を聞いて、私のふさぎかけた気持も大分明るくなった。中村達夫君からも見舞状が届いた。
十月三十日、土曜日
昨夜眠れなかったので昼寝をしようとしたが結局眠れなかった。午後、宏子が子供達を連れて来てくれた。六時近く学友の内山君が見舞に訪れてくれた。
十一月一日、月曜日
とうとう十一月に入った。リハビリの先生が脚部の補助器具を作って下さった。それを付けて、立位の姿勢をとる練習を行った。
十一月五日、金曜日
今日は珍しく雨降り。教授の回診があり、退院の日時等が一応関心事となった。主治医の話では、リハビリの先生の意見もあり、あと一ヶ月位は入院が必要だと言う事である。夕方大学時代の級友が大挙見舞に訪れてくれた。友情に感謝の気持が一杯である。来訪者は松田、大野、高橋、田中、鈴木、仁品の六君である。
十一月九日、火曜日
午前中は整形外科の診察の日であったが、先生がオペの関係で遅くなり病室に戻って見ると、学友の川口君が見舞に来てくれていて驚いた。午後はリハビリ、レントゲン、心電図で日が暮れた。
十一月十二日、金曜日
午前中は教授の回診があった。午後のリハビリでは脚の補足具を付けてはじめて歩行訓練を行った。
十一月二十日、土曜日
補足具付きの歩行訓練でナースセンターの前まで歩いたが、なかなか脚がよくならないので、いらいらする。
十一月二十五日、木曜日
昭和大病院を今日限りで退院する事になった。四ヶ月振りで家に帰ったが、未だ足も回復せず、前途いよいよ多難である。
十二月一日、水曜日
リハビリ専門の多摩丘陵病院から連絡があって、三日に入院する事になった。いつ退院出来るのか全く見当のつかぬ入院である。
十二月三日、金曜日
はじめて多摩丘陵病院に来た。昭和大とは全然雰囲気が違い、その感想はといえば、何とも言い難い。自己に打克つことが最大の至難事である。
十二月五日、日曜日
康子が来てくれた。昨日一日会わなかっただけだが嬉しいものである。昭和大の時のように毎日は無理だと思い一日置きにして貰った。淋しい日もあるが、まあ我慢しなければなるまい。車椅子でトイレに行く自信が出来て、今日は嬉しい限りである。
十二月六日、月曜日
昨夜はよく眠れた。食事はおいしくないけれど、結構食べられた。トイレが他人の介助なしで出来るという事が何より嬉しい。家へはじめて電話をしてみたけれど、通じたのがこれ又嬉しい限りである。
十二月九日、木曜日
康子が折角来てくれたけれど脳波の検査などあって充分な時間がとれなかった。又午前中は四ヶ月振りに入浴させて貰い気持よかった。夜大野君に電話したが生憎留守だった。奥様に宜しく伝えるよう頼んでおいた。
十二月十日、金曜日
リハビリが本格的にはじまった。腰の筋肉がまだまだ不十分な事が分かりがっかりした。
十二月十八日、士曜日
午後、松田、酒井、川口の三君が十二月クラブを代表して、わざわざ遠いこの病院まで来てくれた。友の情今更のように有難く感じる。
十二月二十一日、火曜日
素晴らしい天気だったので、窓外の武蔵野の雑木林におおわれた丘陵をスケッチした。昼過ぎ明子が子供を連れて来てくれた。リハビリは相当充実したものであった。
十二月二十七日、月曜日
朝つまらぬ事で看護婦と口論した。後味はきわめて悪い。もう何も言うまいと思う。いい年をして子供扱いされたのが不愉快に感じた為と思う。
十二月二十九日、水曜日
年末年始の為外泊の許可を貰って、宏子の家へ泊まる事とした。九時頃三朗君が康子と車で迎えに来てくれた。久し振りに病院の外へ出て町田市内を通過したが。年末の気分が全然わかなかった。宏子の家へ着いてから自分でいろいろリハビリをやって見た。
一月一日、土曜日
昼頃宏子の家を出て一ヶ月振りに家に帰った。国道二四六は元旦にしては割合混んでいた。夜は全員集まって賑やかであったが疲れた。
一月四日、火曜日
絶好の晴天である。一時頃家を出て三時頃病院に着いた。今日から五十八年度の病床生活の第一歩が始まった。
一月八日、土曜日
リハビリは全員が午前中に集中した為、リハビリ室は大混雑であった。いくらか右足に力が入ってきたようだと先生にいわれた。午後は風景画を描いた。
一月三十一日、月曜日
今日で一月は終わり。リハビリの成果はそれなりにあったような気がする。昼食後、同室の岡部氏と裏山の麓のあたりを車椅子で散歩した。
二月十日、木曜日
リハビリの時間に初めて杖を持たされたが、何だかこわくてどうしようもなかった。
二月十九日、土曜日
杖歩行は第一回は調子がよいとほめられたが、二回目からはがたがたとなり全くがっかりしてしまった。午後は裏山の雪景色をスケッチした。
二月二十四日、木曜日
また雪降りの日である。康子が来る予定だったが、雪だから延ばすよう電話で連絡をとった。リハビリは若干進歩したようである。
三月十六日、水曜日
雲の多い天気。室内を内緒で杖で歩いて見たが余りパットしない。結局一人で勝手に歩いたら万一の場合責任がもてないと看護婦に叱られた。
三月二十四日、木曜日
平行棒の往復五回分を先生の直接指導なしでやってのけた。でも総体的になかなか進歩しない。
四月十四日、金曜日
四月も半ばになるが膝の力が一向につかず、気が滅入りがちである。午後松田君が見舞に来てくれて嬉しかった。
五月十三日、金曜日
一寸した事がきっかけで、看護助手とトラブルあり。それがもとでこんな病院に居る必要があるのかと自問自答あり。結局退院の意志を固めた。
五月二十日、金曜日
待ちに待った退院日だ。別れの挨拶をして廻ったが、同室の遠藤さんは固い握手を交わし涙ぐんでいた。注文しておいた四本足の杖が今日間にあってよかった。半年振りで帰った我が家は感慨無量である。
五月二十一日、土曜日
我が家の朝を迎えた。自分の用は大体足りるので、矢張り退院してよかったと思う。買い求めた血圧計で血圧を測ったところ、病院の時と殆ど変わらないので安心した。リハビリのexercise通り康子のhelpで早速毎日の訓練をはじめた。歩行訓練は室内を五往復した。
五月二十七日、木曜日
昨日松田君から贈って貰った水彩式色鉛筆で、早速果物と野菜を描いた。結構楽しかった。
六月十四日、火曜日
午後田中順之助君が見舞に来てくれた。夕方リハビリの先生から電話があって退院後の様子を聞かれた。光雄が会社の帰りに来て泊まった。
六月二十九日、水曜日
朝からよく晴れたので庭の歩行に挑戦した。靴を履いて四本足の杖で芝生を歩いてみたが、割合にうまくいった。二時頃高橋君が見舞ってくれた。
七月六日、水曜日
予報どおり午前中は曇りで午後からは雨となった。ガスターの後藤、深水両氏が訪ねてくれた。病気のせいかガスター時代は遠い過去のような気がする。夜五朗君と光雄がステレオを運んで取付けてくれた。音もいいし外観も立派である。二人共泊まった。
八月二十日、土曜日
退院後三ヶ月になるがいくらか良くなったかどうか。よくなったに違いないと思う事にする。八月三十一日水曜日今日は余り照りつけなくて昨日より凌ぎやすかった。八月も今日で終わり。リハビリの成果としては普通の杖で初めて庭を歩いてみた。
九月三十日、金曜日
今日で九月もとうとう終わりとなった。その割に治り方はまだまだといった感じで、果してどこまで治るのか考えてみると極めて心細い。
十月二日、日曜日
二時頃松田、高橋両君が訪ねてくれた。度々見舞に訪れてくれる友情がうれしい。
十月七日、金曜日
今日も穏やかな天気であった。でも足はなかなかよくならず、つい落ちこんでしまう。田中順之助君から見舞の電話を貰った。
十月十三日、木曜日
普通の杖で庭を歩いたがとても歩きづらい。一周で止めて矢張り四本足の杖にした。まだまだ足はよくならない。我慢々々である。
十一月六日、日曜日
一日中雨なので家の中で歩行練習をする。室内では普通の杖でも、こわくなくなってきた。何だか手も足もよくなる兆しが見えてきたようで嬉しくなってきた。
このように毎日書き続けた日記も十一月十一日で終わりとなってしまいました。少しでも回復するようにと退院後一日も休まず続けたリハビリの体操、そして晴の日は庭で雨の日は室内での歩行訓練と、周りの者が心配する程一生懸命努力しました。それなのに再度脳出血で倒れ、以後ペンを持つことは勿論、好きだった絵も描けないどころか両手両足の自由を奪われ、話す事も食べる事も思うに任せず、つらいつらい闘病生活が続きました。はじめに倒れてから足掛け五年。その間皆様から頂いた励ましの寄せ書きやお便り、そして度々のお見舞と本当に有難うございました。改めて厚く御礼申し上げます。
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