1組 故市村弘行姉 市村 文子

 

 今年は卒業されてから五十周年を迎えられた由、お目出度うございます。長年のみなさまのご努力によるものと心からお祝い申上げます。その記念の一つとして文集を刊行されるとのこと、係の方から"亡くなられた弟さんの思い出でも"とのおすすめでペンをとらせて頂きましたが、弟の思い出も四十五年も経った今では、幼い頃の思い出などすべて虹のかなたに去り、きびしい昭和の時代の重みにもろもろの感慨をおぼえます。

 亡くなった弟は、結婚して一週間で召集をうけ、そして或日突然帰宅を許されて病床の母を見舞うと直ちに帰隊してゆきました。アッと言う間の別れで心残りでしたが、弟はすでにフィリピンのバタン島に渡り行進中でした。結局この地で全員玉砕(生存者一人が後に判明)となりましたが、この通知を受けた頃すでに下の弟が中国で亡くなったとの正式通知が届いて居り、母もつづいて二人の弟につきそうように亡くなりました。我家に訪れた初めての辛い試練でしたが、明治気質の父は天寿を全うするまでついに何も語らず、親としての父の心情が晩年作った歌集の中で弟達を詠んだものが二、三ありましたので書き添えさせて頂きます。

  • 夢にあらず幻ならむ出で征きし子の影黒く枕辺に立つ
      (比島の長男弘行生死不明なりし頃)
  • 黒枠の通知は来る長男も玉砕組の一人なりしと
      (バタン島にて弘行戦死)
  • 勇ましく征きたし汝は送るなと駅に手をあげ嫁をかへしつ
      (長男の出征)
  • 露おける庭の白梅そっと切り仏となりし妻に捧ぐ

 仏壇の弟の写真は学生服で最後の別れも軍服でしたから、彼の背広姿がどうにも思い出せません。彼の短い社会人生活はどんなだったのでしょう。私は十二月クラブの会報を拝見する度にOBの輪の中に背広姿の弟を見る思いでホッとしているのでございます。みなさまのご健祥をお祈りいたします。