7組 磯部 誠 |
喜寿を迎えて 如水会から『寿杖』を贈られた。喜寿の祝いである。次の誕生日まで生きていれば、満七十七歳を迎えるのは、予定というより既定の時間割りなのに、ちょっと大げさに言えば、愕然とした。それに思いを避けていたからであろう。七年前、聶光g君来日復交に際し、その橋渡しをしたということで、如水会館での歓迎宴に招かれた。ちょうどその日が五月十四日で僕の誕生日、古希を迎えた日である。この七年間の『生理的時間』(アレクシス・カレル『人間一その未知なるもの』)は、実にあっけない、あっと言う間であった。 七十七年を回顧して、われながら、ひでえ生涯だったと思う。しかし、「ひでえ」というだけでは、惨め過ぎる。余りぱっとしなかったが、まあまあの人生だったと思い直す。名もなく、力もなく、金もない。紳士録の類いには、「お呼びでない」し、新聞死亡記事の対象にもならないが、とにかくこれだけ長生きしているのは、幸せと言うべきだろう。相当惚けたが痴呆とまでは行っていないようだ。体も満遍なく弱ったが、特別に病気もなく、鈍重ながら一応まともな立ち居振舞いをしているし、飯も当り前に食っている。貯えは無いが、第二の定年後も、年金でなんとか食っているわけだ。陋屋ながら住むに不自由しない。それどころか、「中野に住んでいる」と話すと、若いサラリーマンは、「いいですねえ」と感に堪えたように言う。老妻も同様にぼけたが、健康でちょこちょこと動いており、生来の無精が更にひどくなったじじいの世話をしてくれている。『連れ子の出戻り』という不幸な出来事で、双子の孫と同居するようになってから、更に張り切っているようだ。老夫婦二人のしょんぼりした暮らしと違って、三代同居の生活は底抜けに明るく、笑い声が絶えない。娘はおやじの『行き当たりばったり人生』を見倣って軽率を繰り返したわけではあるまいと、孫のためにも『転禍為福』を願っている。 卒業五十周年、同期の諸兄とは平均四歳年長の私が生き残って喜寿を迎えることができたことは、有難いことと受け留め、よしなしごとを行き当たりばったりに書き綴ることにしよう。 岐路ーーI名誉教授と元非常勤講師 十二月クラブ新年懇親会の翌日、前日の夕刊を見て驚いた。「中央大学名誉教授岩尾裕純氏死去」とある。「死ぬ前に、書債を果たさなくてはならず、原稿執筆に大童(おおわらわ)」という意味の葉書を、ちよっと前に受け取ったばかりなのに、何ということであろう。彼は、五十余年前、ヨルバイト(学費稼ぎの役所夜勤)仲間だった旧友である。 彼の私宅での葬儀に参列した。学校関係の顔見知りが多数来ていた。思いがけなく水田洋君に会って、避けた方が良かったかも知れない故人の思い出話をしてしまった。商大学部の入学試験は岩尾君と一緒に受けた。三日目の論文試験問題がさっぱり出来なかったので、午後の面接と身体検査を受けずに帰ろうとしたら、彼が引き留めてくれたのである。試験の結果は、皮肉にも僕が受かって、彼が不合格だった。彼が止めてくれなかったら、僕の人生は、大分変わったものになったろう。 岩尾君とは、もう一つ奇縁があった。商大卒業前の秋、中央大学専門部商科で経営学を教わった大越禎一という先生に、「相談したいことがある」と、お宅へ呼ばれた。『経営学』担当後継者として同大学の教師にならないかと、熱心な勧誘をいただいたのである。教師になろうなどとは、それまで考えてみたこともなかったのだが、なぜかその勧めに少なからず魅力を感じた。そこで収入について尋ねた処、三、四十円にはなるだろうとのことだった。大学卒の初任給が七十円の時代である。僕が大学を出てまともな会社に就職するのを待ち受けている両親に対しても、お断わりせざるを得なかった。 大越先生は、戦争中あるいは戦争直後、亡くなった由、だいぶん後になって聞いた。岩尾君は、戦中、中国に渡って、満鉄の経済研究所と言ったような所に勤務後、中央大学で教師になったのだが、その担当が奇しくも『経営学』。回り合わせは、面白くもまた恐ろしいものである。 彼の業績は、岩波新書の一冊になった著作のほか、さほど多くはなかったようだが、学術会議会員になったことから一廉の学者だったと察せられる。彼のゼミナールが『旅行ゼミ』を脱し切れないことを自ら嘆く小論を読んだことがあるが、教育の面でも良心的に懸命の努力をしていたようだ。五十年前、もし僕が師の勧めに従って教職を選択したとして、彼ほどの学者にも教育者にもなれなかったであろう。 彼も水田君も、朝日新聞社『知恵蔵』の人名情報に載っており、両君とも名誉教授である。十二月クラブには、名誉教授とその称号を約束されている者が約十名はいるようだ。「名誉とはタダのことである」と井藤半弥先生がおっしゃったことを思い出す。その時は、名誉教授とは偉そうに聞こえるが、恩給も付かないただの元教授のことか、と笑ったが、今はその恰好のいい肩書きが羨ましい。と言うのは、第二の定年後、肩書きの無いことが実に不便だと思い知らされているからである。最近、コメンテーター、イラストレーター、エッセーイスト等々、カタカナ肩書きが流行しているが、物書きをしても、買ってくれなければ、名誉ライターとも言われまい。 僕は図らずも、昨春までの十一年間、大学講師という恰好の悪くない肩書きで、仕事を楽しんできた。しかし、専任であったら、そう気楽にはいかない。西川元彦君によれば、専任教師は、一こま当たりにすれば、非常勤講師の十倍以上の給与を稼いでいるそうだが、教室内の授業だけが仕事ではない。教育者として、研究者として、また組織の一員として、勤めるプロだ。僕のような素人パートタイマーとは大違いである。ましてや、長年にわたって、その職務を果たして、名誉教授になることは、生易しいことではない。どこの大学でも、プロの厳しさを必ずしも必要としない非常勤の人数は、専任より圧倒的に多い。この制度なしには、大学の運営は、事実上不可能だ。非常勤だからこそ、僕にも就任の機会を得て、何とか曲がりなりにも勤まったのだが、たとえ五十年前に教職を選択したとしても、意志薄弱な鈍才の僕は、名誉教授にはなれなかったろう。 終点間近の今日この頃、改めて来し方を顧みて、これまで人生途上で何回か逢着した重大な岐路について思いを致し、感慨なきを得ない。入学試験のような選択権の無い場合は、運命のいたずらのようなものに支配され、選択権のある場合も、根拠薄弱な判断で決めてきたわけだ。いずれにしろ、今更どうしようもないことだが、過去の成行きを是認し、良かったのだと考えることにしている。上述の葬儀の際の水田君との対話の中で、「十二月クラブ」の名付け親が水田君であること話題にした。ここで、備忘のため書き加えておく。 ベルリンの壁 ベルリンの壁の崩壊、それは、実に象徴的な、そして特に我々の年代の者に痛切な感慨を誘う出来事である。テレビの画面で、楽書きで彩られた壁を崩して、西側になだれこんだ男女の若者が、歌い踊りながら大通りを練り歩くのを見た。僕は、二十年ばかり前に、ベルリンを訪ねた折りのことを、思い出した。連れの一行と一緒で、クアフユルステンダムに近い『壁』を見学に行った。壁のあちこちに、花束が供えられているのが目についた。案内人の説明によると、西ベルリンヘ脱出しようと、漸く壁の上部に這い登った途端、監視所からの狙撃で亡くなった人達に、捧げられた弔花だとのこと。気を付けて見れば、壁の所々に、血痕らしき黒ずんだしみが付いている。思わず身震いをして、手を合わせた。 その前日、東ベルリンのウンター・デン・リンデン通り附近のバス観光をしたのだが、検問所でソ連婦人兵にボディタッチのようなことまでやられ、憤慨したのだが、壁の血痕で更に酷い衝撃を受けた。同じ戦敗国であったのに、日本がこのような目に会わなかったのは、幸せというよりも僥倖であったと、しみじみ考えさせられたのである。 『壁』の開放に引き続き、昨秋両独は統一し、東西ヨーロッパのみならず世界は融和の新局面を迎えつつある。我々は、壁の構築と崩壊に、資本主義と社会主義の両体制、また予言者としてのマルクスとスミスの両学説に関して、一応の解答を見ることができるであろう。 ベルリンに隣接するポツダムでの会談とそれに先立つヤルタ会談で、日本の分割占領も、当然議題に上ったであろうに、幸運にも我々は分割を免れた。我国は、海で囲まれて、地を接する国境がない。このことが、独特の日本文化を発達させた。そして、大戦後の驚異的な経済成長も、ベルリンの壁のような国境があったら、実現しなかったであろう。 日本経済の成長と終戦前後の回顧 日本は現在、戦争の相手勝利国アメリカに次ぐ経済大国、そのGNPは米国の約六割、ソ連の三倍以上、西独の二倍半程度、戦中戦後、特に戦争直後の惨状に引き比べて、信じられないほどの変貌である。日本経済の変転過程との係わりの中で、終戦前後数年を振り返ってみよう。 卒業後の就職先を選ぶのに、最大の財閥系で最小規模の軍需産業、という薄弱な根拠で、ゼミの太田哲三先生と相談もせずに、三菱製鋼に決めた。入社後、経理部に配属されて、先ず算盤に苦労し、若い社員が一、二時間でできる事務を、残業しても計算が合わないという有様、辞めようと考えたことも何回かあった。そんな苦渋の最中に、太田先生が軍の委嘱で作成した『原価計算要綱』に従って仕事をすることになって、僕がその指導役に奉られることになって、部内で大分見直されるようになった。先生のお蔭である。 原価計算を担当していて間もなく、たいへんなことに気が付いた。開戦直前に米国から輸入した機械を使ってシリンダi素材を製造すると、平行して稼動中の国産の機械よりも、何倍かの能率性能を持っているということである。これは、とんでもない手強い相手と戦争を始めてしまったものだ、と考えざるを得なかった。その後の戦況の推移や、社用で訪ねた他の鉄鋼工場・製鉄所・造船所での見聞からしても、ますます悲観的な予測をせざるを得なかった。しかし、銃後を支える者の一人として、頻繁な空襲にもかかわらず、僕は一生懸命に働いた。仲間も同様。しかしその努力も空しく、来るべきものが来た。 終戦直後、廃嘘同然の工場の構内で、敗戦日本の今後について、虚脱状態の同僚社員数人と、ぼそぼそと語り合ったことを思い出す。「植民地か属国だね」とか、「産業は百年の後退、復興不可能、いや滅亡だよ」というような悲観的な論議が圧倒的だった。それに対して、僕は、「日本がつぶれてたまるものか。鉄鋼の生産も二十年も経てば、戦前戦中の水準に戻るとも」というようなことを口走って、一笑に付されてしまった。 所が、その後十年を経ずして、鉄鋼生産も昭和十八年のピークを突破してしまった。十数年前、経済評論家の故高橋亀吉さんとの雑談の折に、この話に触れたら、高橋さんは、「日本は実に幸運に恵まれていました。早い話が、日本がソ連に占領されていたら、滅亡したかも知れませんね」と言われた。確かに、戦後の我国経済の成長は、数々の外的要因に支えられた。『奇蹟』を可能ならしめた要因の内、どれ一つを取っても、日本自身の左右できるものはなかった、と言うマルクス経済学者もいる。このような我国の主体的条件を無視した議論に対して、僕は、戦後の国際的情勢が『奇蹟』に大きな寄与したことを認めながらも、反撥を感ぜざるを得ない。前途の四十余年前の僕の『予言』も、悲観論に対する単なる強がりの抗弁反対のためではなく、戦中の苦痛に耐えた日本人の集団活力についての実感が、その根拠であった。戦時中、僕が接した民間人にも少数の軍人にも、軽蔑すべきひでえのがいたのは、事実だ。しかし、多くは純真な愛国心・高水準の知力・不屈の勤勉性を備えた人達であった。このような愛すべき優秀な民族が再起しないはずがない、と信じた、いや信じたかったのである。 話の通じない話 上述の鉄鋼工場は操業休止、丸ノ内の赤煉瓦事務所で数力月働いたが、親戚の会社に誘われて、地方で一年余り勤めた後、東京に戻ってきた。国際的な仕事に就きたいという漠然たる考えで、貿易庁の嘱託として半年間、金井多喜男君のお世話になった後、繊維商社の貿易部に入った。この間の詳細は省略するが、丸ノ内で勤務中、三菱銀行に行かないかという話があったが、幼い時見た銀行員の金勘定の先入観から銀行は勤まらないと、断わったこと、地方勤務の勧誘を受けた際、「食い物に不自由はさせないよ」の殺し文句に相当動かされたこと、貿易庁で、最も下っ端の僕が、社長級の人達にも威張れたことにいい気持ちになったこと、を記して置く。 貿易その他、外国人相手の仕事に転じて、実用英語に不得意な僕は、送受信とも話が通じないのに、恥をかきかき、えらい苦労をした。先ず相手の話す英語が分からない。アメリカ人バイヤーが、商談が一区切りついて、「タープリタを世話してくれ」と言う。何回聞き直しても分からないので、書いで貰った。何のことはない。interpreterだ。香港のバイヤがバイニル・ヒルムが欲しいと言うが、これ又分からんバイで、書かしたら、vynil filmだった。引合いの来信に、P.V.C.とか、sanforizedとあるのが、辞書にもなく通じないので、通産省に訊きに行ったこともある。聞き直しと筆談と一夜漬けの試験勉強のようなことで、なりふり構わず凌ぐより仕方がなかった。 その頃、アメリカの大学出とか称する連中が、貿易関係の企業や団体で、ペラペラ喋っているのを聞いて、感心したものであるが、たまたまそういった人達の書いたメチャクチャの英文を見て、変な安心をしたことが何回かある。 英語その他の外国語を話し聞き、また読み書きだけでは、貿易を始め国際的な仕事で、話は通じない。関連の知識を持たなければ、コミュニケーションは不可能である。そればかりではない。文化や分野の相違を考慮に入れなくてはならないのだ。 前述の通り、日本が古来島国で地続きの国境がないため、独自特異の文化が発達し、戦後も分割占領されなかったことが、奇蹟的な経済復興の大きな要因だった。しかし、この利点が弱点でもある。国際接触に馴れていない為に、国としても個人としても、とかく文化ギャップを忘れて、へまをする。取引相手の米国人に、「考えて置きましょう」と断わったつもりでいたら、一週間ばかり後に、考えた結果は如何と、電話で回答の催促があった。 また、日本人でも、仕事が違う者の間では、相応の心遣いと言葉使いが必要だ。商談中、相手が「サブコン」と言うのでsubject to confirmationのことかと思ったが、話しが通じない。しばらぐして後、漸くsubcontractorと分かった。 政治・外交.経済・技術・学問の諸部面で、変化進展がますます急速に行われている現在、産業界、学会、官界、政界、またその各単位内及び相互の間で、話を通じさせる為に、それぞれの専門に立てこもらず、学際的、部門際的、国際的な協力を密にしなくてはならない、というのが僕の持論なのだが、理屈っぽい独り合点で、話が通じなくなりそうなので、雑談風に戻そう。 ・・よくもカナ語の通じるものかな・・ カタカナ外来語には、その母国からのお客さんも悩まされているようだが、我々自身も大いに悩まされている。鈴木知事の留任で思い出したが、一昔も前のこと、朝日新聞の『天声人語』に、「美濃部前知事はシビルミニマムを説き、鈴木知事はマイタウンを訴える。…東京のシンボルとしてシティホールが建ち、…コミュニティ・リーダーが養成され、レクリエーション・ゾーンもできる。…鈴木さんいったいこれは何事ですか。…」とあったので、投書で同感賛成の意を表明するとともに、苦言を呈した。「Uターン、ドキュメンタリー、インタビュー、ローカル色、環境アセス等々、言葉について指導的な役割を持つべき朝日新聞さん、カタカナ語の使い過ぎではありませんか」。ちょっと意外にも、天声人語子から折り返し返事が来た。「おっしゃる通り、新聞が自戒しなければと思います。…しかしとてもとても駄目です」と〈狂瀾を既倒に廻らす〉には力不足だと嘆く文面であった。(狂瀾と言っても、若い人には通じないだろう)。二、三年前、南博先生と東恵美子さんの会で、少し前に「天声人語」で書いていた同窓の辰濃和男氏と会ったので、この遣り取りを話題にしたが、彼もカナ語について、同様な意見を持っていたようである。 ・・旅のことばははじかきの・・ ・・ソーセージ言葉の壁は高かりき・・ その後、ソーセージについて似た話を雑誌で読んだ。ある大学教授が、フランクフルトだかハイデルベルクだかで留学中での失敗談である。ソーセージを買いに肉屋に行った。店番をしている十六、七歳の娘さんに、「ブルストをくれ」と言ったが通じない。そこで、棚のソーセージを指さして、「ブルスト、ブルスト」と繰り返したら、そのメツチェン、顔を真っ赤にして引っ込んでしまった。後からよく考えてみたら、Wurust (sausage)と言ったつもりが、日本式ハチオンで、Brust (breast)と聞こえたらしい、というのである。はち切れんばかりのボインを指さして、「ブルスト、ブルスト」と連呼されたのだから、恥ずかしがるのも無理はない。 ・・駄酒落は文学かはた迷惑か・・ 英詩や漢詩の押韻も、駄洒落と言って悪ければ、洒落である。我国でも、「久方の光のどけき春の日に」から「神田鍛冶町、角の乾物屋」(これも江戸文学)等々に至るまで、酒落の精神は脈々と生き続けている。学校で英語を教えていたのだが、英語もさることながら、和訳の変な日本語に寒心することが屡々あった。紹介と照会の混同、訪門・専問・接渉などの誤字が多い。教室で、「君達の答案は感じ(漢字)が悪いぞ」と言っても反応がない。「今酒落を言ったんだよ」と大声を出したら、最前列の学生二、三人が、無理して笑ってくれた。そこで、「外国人と会話中、相手がpunかjokeらしきことを言ったら、へただと思っても分からなくても、笑ってやるのがお付合いというものだよ」と言ってやったが、通じたかどうか。 雑録一束 だらだら書いているうちに、締切が近付く。思い出したこと、この機会に記録して置きたいことを、どうでもいいことも取り交ぜて、思い付くまま雑談的に書き並べよう。 ・・労働祭老童六人簡保楼・・ 簡保には、僕が勤めていた頃働きながら通学又は入試準備をする者が、少なくなかった。上述の岩尾君も、我がクラブ員の松井利郎君も、その仲間だった。昨年五月一日、この両君は欠席だったが、仲間六人が『ゆうぼうと』に集まって、懐旧談を楽しんだ。その中の一人、天沼彪雄さんは、僕と入れ違いに商大卒業の先輩で、夜勤でお世話になった上、学帽や教科書を頂いた。表題の「労働祭……」は、駄酒落みたいなものだが、季題があるから俳句である。漢字だけの俳句は珍しい、と言われた。 会合の談話の中で、当時の『苦学』仲間の中で、既に亡くなった数名についての話が出た。余り親しくはなかったが、話題に上った深見和夫氏は、その後間もなく九月に、報知新聞社社長現職のまま死亡した旨の新聞記事を見た。寂しいことだ。 ・・出版公害・・ 英語に関する出版物に、誤りが特に多く目につく。翻訳物の中には、原文を見なくても誤訳と分かるものもある。偉そうな事を書いている著者の英文にも明らかな誤りが少なくない。一々これらのミスを気にしているほど暇ではない。しかし、勉学中の若い人達を対象にする図書内容の誤りは、正に公害を巻き散らしているものだ。そのような公憤から、暇があると、出版社や著者に注意を与えることにしている。一流出版社が出している高校生向け叢書(というような表現法では長くなり話しが抽象的になる、はっきり言えば、『岩波ジュニア新書』)の一冊、英語辞書の使い方を教えるタレント教授の著書の中に、おかしな点がある。一つは、'the
both parties…'の語順、もう一つはbook-keepingのハイフンである。手紙で注意したが、返事がないので、電話で催促したら、編集部の女性が「先生はお忙しい方なので」との由、結局一カ月半も待った後、その女性の電話を通じて、bothの語順の件は認めたが、book-keepingはホーンビーのオックスフォード(十年以上前の発行)にハイフンがある、との回答。「いずれ暇を見てお手紙差し上げます」との慇懃無礼なご挨拶で、著者又は編集部からの文書回答を半年も待った後、こちらから岩波社長緑川亨さんにお手紙を差し上げた。「創業者岩波茂男氏の『…希望と忠言を寄せられることは吾人の熱望するところ…』の読者との共同精神に注意を促して、商品としての図書生産者側の執筆者を尊重する余り、消費者たる読者を軽視してはならない。図書の物理的瑕疵については、同氏の率先垂範によって落・乱丁取替え制度が定着しているが、誤植・誤記・誤表現等のような単純な誤り(見える瑕疵)については、補償制度がない。少なくとも、正誤表発表などの制度を貴社が率先して実施して頂きたい」。以上のような意味の僕の手紙に対して、緑川氏からの返信には、陳謝と共に下記の通りの趣旨の回答があった。「貴見には同意。訂正個所の公示には、著者及び流通業者との関係で、種々の問題を内蔵しているが、何らかの積極方策を取るべく目下検討中。近く結論を得て、改めてお便り差し上げる」。しかし、その後、何ら音沙汰がない。 ・・過ちては改むるに揮ることなかれ・・ ついでながら、中山先生と殊の外仲の良かったと言われる東畑精一先生について一言。先生には『農業政策』のノート・プリントを作成するについて、原稿料を頂くほか、お世話になった。先生は拙宅の近くにお住まいだったので、ご挨拶に伺おうと思いながら果たせないうちに、お亡くなりになった。お通夜に参列したら、鈴木元総理や有沢元東大教授などの名士も見えていた。焼香後、成蹊大で顔見知りだった篠原三代平氏と、先生の思い出話しができたのはよかったと思う。その後何年かして、中山先生も亡くなられた。我々はよい先生方に恵まれていた、としみじみ思う。それだけに、悼み一入である。 僕の指摘を快く受け入れてくれた方の話をもう一つ。前の〈出版公害〉の項で引合いに出した新書の別の一冊にwithin this weekの句が記されているので、著者の西田実教授宛てに、「この句は、誤り又は非慣用だという説があるが、如何」と質問状を呈した。この方は実に謙虚な方で、丁重な礼状と共に、他の著書二冊を送って下さった。その後、この句について多少異論もある事が分かったので、商社幹部、大学助教授、英語辞典出版社の編集部員と、一年にわたって書信を交換して検討した結果、この句は非慣用と落着した。商社幹部は、「二十余年間、実務文書や雑誌にこの句を見なかった」とのこと。助教授は、改めて十数人の在日native speakerに当たってくれた。辞典編集部はMerriam Websterの調査によればwithin this month/yearも余り使われないとの資料を送ってくれた。著者とは、今なお郵便のお付き合いをさせて貰っている。 我が唯一の著書の誤りについても、触れて置こう。出版社の社長に礼を厚くして、『英文ビジネスレターの書き方』という題で書いてくれ、と頼まれ躊躇したが、断わり切れず引き受けた。約束の期限より数年遅れたが、何とか八五年に脱稿した。出来上がった初版を見ると、誤謬脱漏が多いので、正誤表を作って贈呈先等に送り、学校では受講生に配付した。その正誤表について、出版社から厳重な抗議を受けたのは、意外だった。 今までにこの著書について、一般読者から手紙を受け取ったのは一回だけ。アラブ首長国連邦のドバイ駐在の日本人社員からの質問だったが、それへの回答の際、気が付いた不適当な英文の訂正を書き添えた。昨年第七版が出たが、各版の都度小改訂を施した。現在急速に変貌中の国際ビジネス情勢に応じて、新たに実務英語に関する本を書きたいと、一応考えてはいるが、どうなることか。 ・・素人教師への道・・ @・兼子春三君に勧められて、NAA(全米会計人協会)東京支部入会。同君ほか大学教師と接触する機会が多くなったこと、七〇年代の初頭だったので、その協会の機関誌掲載記事に多く扱われたアメリカ多国籍企業の生態に興味を持ったこと。 成蹊大については、上のCと@が関係する。九年前、如水会々報に載った実務英語研究会の僕の記事を見て、成城大で商業英語担当講師の楠原正巳(昭二六学)氏から、手紙と著書を送って来た。その直ぐ後、太田会年会の席上で、成蹊大教授新井益太郎(昭二六学)氏との会話中、成城と成蹊を混同して、楠原氏を話題にしたら、「商業英語は適当な教師が見付からないので、今休講にしている」と、そこで話しが中断した。しばらくしてこの事を思い出して、新井氏宛て葉書で楠原氏を推薦した処が、新井氏から教授会と評議員会での審査用に、僕の履歴書・業績資料を出せと言ってきた。尻込みしたが一応書類を出したら、結局意外にも審査を通って、翌年度からそこに勤めるようになった。@の論文のお蔭であろう。成蹊大の知名度は有難かった。初対面の相手にも肩書きの説明が不要であった。 ・・会計と英語・・ 十二月クラブと我が家族 以上、来し方を顧みて、同窓の先輩後輩と共にクラブの諸兄に一方ならぬご厄介になったことに、改めて思いを致し、感謝する。また家族も、クラブの行事に頻繁に参加し、会員の方々にたいへんお世話になっている。 母は、喜寿を迎える直前に福岡で亡くなった。十二月クラブの会合には何回か連れて行った。「皆さん本当に良い方ばっかりだよ」と喜んでいた。先日例会の後、中村君のご長男の聡一郎君と立ち話しをしていて、蓼科の湯宿で聡ちゃんが最年少、亡母が最年長で、記念品が出たことを思い出した。 家内にはかねがね「順序を間違えたら承知しねえぞ」と言い聞かしているが、「今度準会員制度ができたから、俺が行ってしまったら入会しろよ」と申し付けた。今に準会員ばかりになるかも知れないが、ばあちゃん同士仲よくやって行かれることを望む。 娘達も、幼時からクラブの行事参加を楽しんでいた。息子だったらそうもいかなかったろうが、彼等には、「若い内は大いに遊ばなくてはいけない、あんまり勉強するな」と遊び、特に旅行を奨励した。しかし、独り旅は許さず親しい連れとの同行を条件に許した。そのためもあって、両人とも良い学校にも行かなかったので、就職がちょっと心配だった。 長女の希望は銀行だと言うので、一橋祭には、富士銀行の佐治正三君が間違いなく出席するだろうから、彼に頼むつもりで国立に来た。所が同じテーブルに牧野知久君が座ったので、第一勧業銀行に娘の就職を頼んだ。彼の親切な斡旋で、第一勧銀に入社でき、丸ノ内の本店に配属された。同銀行勤務については、もう一つ記しておきたいことがある。ガールスカウト連盟から内閣総理府主催の『青年の船』参加を推薦された。ニカ月以上の休暇を貰わなくてはならないので、女子行員にはとても無理だと思ったが、一応その願いを出させたのである。所が意外にもそれが許可された。牧野君によれば、元勧銀系の女子行員の出した休暇願いとの振合いで、例外として許可されたらしい。インド・パキスタン・スリランカ・クエートを訪問する旅行で、故魚本藤吉郎君の紹介で、娘が当時のクエート大使高橋正太郎(昭一八学)氏のお世話になった。訪問国の青年も同船の大旅行で、長女は、大きな収穫を得た。しかも、その縁で、『青年の船』の先輩の青年が結婚の相手になったのである。人生航海の方向は、おかしくもまた不可思議な指針によって決められるものではある。 次女は、本田裕治君のお世話で、三菱銀行に就職した。学校では、慶応大との合流で合唱をやっていたので、銀行の合唱団に入って楽しんでいた。仕事も普通に勤めていたようだったので、安心していたが、退職しての結婚に失敗した。『人間万事塞翁が馬』、『過ちては改むるに揮ることなかれ』と励ましている。三菱銀行でパートタイマーとして働いていたが、再雇用の制度が未だなく、給料が安いので辞めて、今は、人材派遣業社を通じて、建築会社で働いている。長女・次女とも男女一人ずつの子供で、計四人の孫。皆クラブの行事に参加している。最年長の女児を連れて東西懇談会の東北旅行に参加したのが、もう八年前、この子は初め大人ばかりの連れなのでおずおずしていたが、みんな良いおじちゃんおばちゃんなので、嬉しくなり大はしゃぎであった。最近、双子をよく連れて行って、特におばちゃんがたにお世話になって、感謝している。 次女が学生のころ、姉と一緒に初めてヨーロッパ旅行して、帰って来て話した第一の感想、「パリのシャンゼリーゼ通りを歩いていたら、すれちがう通行人が私達と触れそうになると、必ずパルドンとかイクスキューズミーとか挨拶するので、驚いてしまった。だって、東京じゃそんなこと余りないもの」。確かに、東京では街路や駅で、ぶつかっても無言の者が多い。よそ見をして突き当たって来る相手にも、思わず「失礼」と言ってしまう。これが「仕付けー躾」で、習慣になって身に付いたものであろう。家庭は躾を学校に期待し、学校はそれを家庭に望む。企業は「・・・躾の場はもはや学校・家庭ではなく職場である」と、社員研修に熱心である。しかし、職場では礼儀正しい優秀な社員も、職場を出れば、吸い殻ポイ棄て、ひとにぶつかっても足を踏んでも、挨拶ができない。 我が娘たちは、祖母を含む三代家族の中で育ったので、ほかのことはともかく、「おはよう」、「いただきます」、「ありがとう」、「ごめんなさい」の日常の挨拶だけは仕付けて、身に付いたようだ。現在同居の孫たちも、そのような挨拶は一応覚えたようだ。そればかりでなく身近かの者の振舞いをなんでも真似をする(学ぶ)こと驚くばかりである。僕は、この四カ月間、毎朝近くの公園に行って体操をしているが、そこに散乱しているごみの始末が日課になった。孫たちを公園に連れて行くと、言われなくても、紙屑などを拾って屑籠に捨てることがある。 日本人は、敗戦の惨状から立ち上がって、奇蹟の復興を成し遂げ、世界有数の富裕な国民になった。有難いことだ。しかし他方、古来培われた優れたこと美しいものが失われようとしていることも見逃せない。その一つが、礼儀作法、公徳心についての躾である。ここにも我々老世代が次代に遺すことがあると考える。 |