4組  一森  明

 

 (1) 学生時代

 私の出身の愛知県第一中学は、一部でマラソン王と言われた有名な日比野校長の指導により、制服はカラーなし(どうせ皆は汚いものしかしなくなるから)、帽子は顎紐なし(外れてもソノママかぶるヤツが出て来るから統制上ナシにした方がよい)、靴は短靴という事になっていた。この出立ちで予科に出校して、早速教練の時間に注意を受けた。

 このような田舎者にとって、新築の小平一橋寮の寮歌募集で第二席に選ばれた『故郷の春』を作詞し、「ユーフラテスやチグリスの河辺に生しバビロンの文化一度散り朽ちて」と詠い上げるような優秀な友のいるようなクラスに入った事は、大いに喜ばしい半面コンプレックスを感じた。このような友達に囲まれてこれに負けまいと、「愛と認識の出発」「出家とその弟子」「善の研究」「芥川全集」等々よく分かりもしないのに懸命に読んだ。読書後の感想を語り合うなかで随分啓発されたものだ。このような環境の中での自分を振り返って見ると平均的な存在ではなかったかと思う。

 入ったばかりの記念祭では先輩に飲まされた僅かのビールで頭がクラクラしていたのが、三年間で酒量も人並以上になった。落第が多かった時代によくドロップせずに三年で予科を済ます事が出来たのは不思議だ。これも私が平凡から外れるのは困ると考えて、それなりの努力をした為と思われる。

 私の中学では全員が必ず何かの運動部に所属していなければならぬという規則になっていたので、予科に入ってもなんとなく水泳部に入った。私の水泳はスピードではなく浮いているだけのものだった。そのうちにマネージャー等の役をなんとなくやるようになり、予科、学部六年間を通じて水泳部に籍を置いた。学部になってからは、好きな先生の講義以外は出席せず、下宿と小平のプールヘの往復と言う日が少なからずあり、消費組合のプリントのお世話になる科目が多かった。

 このような日々の学生時代だったが、忍び寄る戦火の中に先輩の殆どの人達が戦争にかり出され、私の知っているだけでも何人かが生命を失った。

 その中では明治的修身教科書を否定していた私にとって「何のために生きるのか」は最大の問題であった。私の答えは個人としての「自己完成」であった。それ以外にはないと今でも信じている。この言葉は言うは易く行うは難しである。自分で振り返って見ても、余りにも横道、脇道、時には反対方向へさえも逸れたことがある。その意味では慙愧にたえぬ一生であったかも知れない。

 七十才を越えて酒もマージャンも体が受け付けないようになり、いわゆる七十にして規を越えずと言う日々を送るようになった。

 (2) 現状と私的予測

 朝鮮戦争の米軍の特需を契機に日本経済は戦後の復興から立ち直り、神武・岩戸・高天原景気を経てオイルショックを乗り越え、世界が目を見張る程の急成長を成しとげた。然しながら余りにもの成長速度に大きな問題を残したと思う。

 その結果、一九八○年代は日本経済はバブル的な発展と言われた。基礎産業は労働力不足などにより発展速度が鈍化し、一方消費財製造業やサービス産業は異常な伸張を示した。若い人達は辛くて汚れる前者へ行く事をいやがり、後者に人気が流れた。これが続けば世界最高の成長を誇った日本経済の行く先はどうなるか?

 我々が基礎産業に従事することに誇りを持っていたのに比べると、大変な違いだ。このままでは四十年余りにわたり、大多数の日本人が享受した平和と幸福な日々は何時まで続くのであろうか?

 殷鑑遠からず、第一・第二次大戦を勝ち抜いたアメリカが五十年余りに亘り確保して来た世界経済の王座が八十年代になって揺らぎ始めた。アメリカの繁栄を支えたのは、その民族が根底に持っている、ピュウリタニズムに基づくフロンティア精神であると思う。それが何時の間にか若者を中心に瞬間的享楽主義・楽観主義が世論の主流になった(ヴェトナム戦争も一因)。ここに八十年代に顕著になった衰退の原因があるのでは?

 日本の戦後復興を支えたのは、我々の先輩及び十年程後輩に至るまでの明治より受け継がれた「仕事第一」「艱難克服」主義を守る人達であったろう。

 (注) 明治の顕官たちは酒・女に溺れた人も多いが彼等は単なる享楽主義者ではなく、心の中には仕事のためには命をかけると言う根性に裏打ちされていた。これが経済面では二宮尊徳に代表される前記の思想となり我々に受け継がれた。我々とても享楽は楽しい。だがそれが全てではない、仕事というものがあってこその享楽である。

 このような思想の善悪は別として現実はかかる思想を持った人達によって日本経済は世界注視の中で大発展したのである。最近の若い人達に「仕事第一」「艱難克服」などと言っても、とても通じないだろう。このような若者が大部分である社会が今のまま発展を続けて行けるとは思わない。所詮はバブルの四十年余りと言うことになりはしないか。二十一世紀が心配だ。

 (3) 日本とソ連の類似点と将来

 「ソ連」は一九二〇年頃に共産革命を達成し、世界で初めて社会・共産主義国家を実現させた。マルクスの説いた共産主義体制は資本主義の行詰りにより発生するものだと位置づけられた。然るに、当時のロシアは封建的農業国であり、資本主義は殆ど発達しておらず、工場労働者は人口の二%弱の二百万人に過ぎなかった。国民の大部分は貧しい農奴であった。

 従って経済的見地からは共産主義革命の起こる理由は無かった。然しながらロマノフ王朝の無能で腐敗しきった専制的帝王独裁政治は国民を苦しめていた。そこへ第一次世界戦争が起こり国民の間に厭戦気分がはびこり、反乱はいつでも起こる状況にあった。

 このような社会的不安の情勢を背景にして、暴力的革命の必要をレーニンは主張し、多数の人々(特に貧農出身の多数の兵士)の共感を得て革命は成功した。然しながら革命の同志の中には色々の主張があり、革命政府は混乱に陥る事もあった。その中でレーニンは政敵を激しく論難し、この人々を粛正によって蹴落とし、主導権を握って政権を掌握した。

 このようにロシアの共産主義制度は初めから独裁的であった。それにこの国の経済はその理想を実現させるために計画経済であった。これは独裁的指導者があって初めて成り立つものである(日本でも統制経済時代は強力な軍部という独裁機構の下に成立した)。レーニンの没後にスターリンが指導者となり、権力は彼の一身に集まるようになり、彼は反対者・批判者をことごとく抹殺し、完全に絶対的独裁者となった。

 そこにはもはやレーニンの主張した人民のための政治などは何所にも無かった。彼の死後は何人かの主権者を経て、ゴルバチョフに至り計画経済を放棄するに至った。が自由主義経済はアダム・スミスが言うようにインビジブル・ハンドにより動いているのである。計画経済から自由経済への変換は容易ではない。自由経済は個人の独立が達成されている社会でのみ成立するのだから。ソ連でもペレストロイカの前提にグラスノスチが置かれているが、これもあまり進展していない。

 以上ソ連の変遷に対する私なりの見方であるが、これに対して日本はどうであったろうか。

 明治維新は薩摩・長州の軽輩などが天皇を道具として利用し、政治改革を成し遂げた。然しこの改革は結論的に閥の独裁的統制により欧米の模倣を第一とし、資本主義・帝国主義的に国力の発展に努めた。

 然し資本主義は個人の独立という哲学に基づく近代文化の基盤の上にのみ成熟するものであるのに、日本は資本主義のうわべだけを模倣により取り入れ、それなりの発展を遂げた。そして何時しか帝国主義的行動に走った。そして昭和に入ってからは軍部を主とする独裁政治になった。

 これは明治維新が近代的改革に必要な個人の独立を前提とする民主主義を尊重しなかった事に原因がある。

 このため戦後においても表面では民主主義が神文のように唱えられていたにも拘らず、真の意味では育たなかった。日本の民主主義はマックアーサーから与えられたものでその根底になる個人主義・近代文化は成立していなかったからだ。

 日本の経済発展は国民が上に服従するという封建的倫理に支えられているのではなかろうか。そこに個人の独立が達成されておらず、真の近代文化の発達していない所に日本経済の底の浅さがある。ソ連が有人衛星を飛ばしているにも拘らず、経済発展が遅れている理由も同様ではなかろうか。

 二つの国には真の個人主義・民主主義という近代文化の基盤が確立していなかった為に、独裁政治を許す社会的理由があった。今では口に民主主義を言いながら社会としての思想は前近代的である、故にその発展は跛行的であったのではなかろうか。

 以上の理由により、この二つの国の将来は極めて険しいものであろう。