(一) 私は幼少の頃より我家の先祖に対して何となく憧憬の念を抱いていた。成人してからのちも、この思いが脳裡を去らず、いずれ、機会を見て学んで見ようと思い乍らも、何時の間にやら六十年が過ぎ去った。関東大震災のあった年の春、学校勤めの父啓治が文部省より欧米留学を命ぜられて不在の数年、母以下一家はあげて従来の神戸の住居を離れて、私の生地、三重県四日市の祖父母宅に同居することとなった。祖父の彌十郎は安政三年(一八五六)、石見国(島根県)津和野領(県の南西部)の産、当時七十歳前後、寡黙で威厳のある近付き難い人物であった。彼は毎日、裁判所へ出かけ、夕刻帰宅して、ゆっくり晩酌を楽しむのを日課の一つとしていた。このときは日中と、うって変って相好を崩し、私を側に呼び寄せ聞きとり難い嗄れ声で先祖の来歴や武功などを聞かせて呉れるのであった。毎晩、同じ話を正座で聞くのは子供にとっては苦行であり退屈である。然し乍ら、そのうちに話の内容が判るようになってくる。時々、質問でもすれば、祖父の話に自ら熱意が加わってくると言う按配。『大織冠藤原鎌足公』、『石見の御城主』、『御神本(みかもと)』、『庄屋』などの言葉が祖父の厳しい風貌と共に懐しく思い出される。
(二) 永年の会社生活に適当な時期に別れを告げて、自由に身を置いた私は、予ての念願、先祖調べの課題に早速、取り組む決意を固めた。『三つ子の魂、百まで』と言うところか。『盲、蛇に怖じず』の譬通り、国史の勉強は高商入試の受験勉強で左様ならの私は不逞にも、どうせ先祖を調べるならば家系を知るのみならず千年を超える悠遠の歴史の中で彼等が何を考え、どのような環境の中で過してきたのか、学んでみようと言うものであった。果してこの作業は素人の私にとって大変、骨折り仕事であることが段々、判ってきた。
先祖調べは当然、何は扨措き出来るだけ多岐、詳細に亘って史・資料・文献の類いを集めねばならぬ。ラッシュアワーを避けて早出・遅帰りの国会図書館通いを手始めに神田古書店街や八重州・新宿辺りの大書店を覗き、或いは地方の教育委員会、図書館などへ次々、問い合わせているうちに次第に必要書籍類の見当がついてくる。時には本の著書や地方の研究家に直接伺うこともある。専門書は勿論、一般の史書も大抵、末尾に主要参考文献一覧があるので大変便利である。これを手がかりに、これから、あれへと探し求めていると比較的短期間内に欲しいものが判ってきた。国会図書館通いをつづけて随分多くの事柄をノートしてきたが、到底これだけでは駄目である。図書館通いの時間と本借り出しの待ち時間が惜しくなってきた。いっそ本を買うに然かずである。専門の歴史書の値段は安くはないし、十数巻の辞典、分売を認めぬ多巻の史書など、年金生活の身にとって些か荷が重いことであったが、背に腹は代えられぬ。どれもこれもと思い切って求めることにした。
文献を次々、精読、乱読して行くうちに、祖父より聞かされた先祖の話と符合する個所が方々に出てくる。嬉しくなって力が湧く。当家の始祖は遠く古代の藤原氏の流れを汲む石見の豪族、御神本改め益田氏の末喬、益田作助嘉倶と言い、慶長五年(一六〇〇)総領家の二十代元祥が主筋の毛利輝元下に属して、関ヶ原に敗戦を喫し、輝元と共に長州へ退転したとき、作助嘉倶は刀を捨てて帰農し、姓を岩本と改めて徳川治政下、最初の藩主坂崎出羽守(後述)に従前の如く藩内六ヶ村の支配を命ぜられ、その子孫は時代の推移と共に諸村に分家を生み庄屋を世襲して明治維新を迎えたことが判ってきた。
因に藤原鎌足十七代の末孫定通(定兼・定道ともあり)は永久年中(一一一三〜一七)、石見国々庁の高官として同国(島根県浜田市)に下向し、任期到来の後も帰京せず土着して武士となり姓は地名を冠して御神本国兼と称し、曽孫兼高に至る四代七十余年のうちに同国随一の豪族に成長した。兼高はその後、一段の発展を期して、地の利を得た益田庄(島根県益田市)へ居館を移して益田姓を称した。源平の合戦に当っては山陰の武将の大半が平家に味方したにも拘わらず兼高は源氏に協力して大功をたて鎌倉の頼朝を驚喜させて所領の安堵を得た。爾来、益田氏は栄枯盛衰、治乱興亡、弱肉強食の五百年の星霜を逞しく生き抜いて江戸時代に至り、現在の当主は三十九代になっている。
(三) このように判ってくると一層、興味が湧いてきて更に多くの文献を探し求めて手に入れる。これらを片端から読破して特に人名などは力ードを作って整理する。これは案外、楽しいものだ。これと前後して私は不図、大事なことを思い出した。それは私の商業学校在学中、遠戚の岩本喜一氏が先祖の系図を小冊子にまとめ、ガリ版刷りにしたものを父が頂戴したことである。曾て我家にも長持入りの古文書の束が相当多く所蔵されていたが、凡て戦災で焼失しているので、この小冊子は何としても見たいものだ。そこで直ちに電話帳を利用して著者か御遺族を探し出す。幸い御住所は世田谷方面と記憶していたし、親のお名前に似た、又は関係ありそうな名前を、多くの岩本姓から選んで壽一氏を見付け出して電話する。電話一発で的中。同氏は喜一氏の御長男、喜一氏は既に亡くなられていたが、右の家系の著書と共に同家伝来の古文書は戦災に遭うことなく揃っているとのこと。戦火で近所の家は凡て焼けたが、同家は懸命の防火と風向きの急変によって火難を免れた由。
これを伺って、とるものもとりあえず同家に参上する。一見すれば、いずれも垂涎おく能わざるものばかり、『渡りに船』とは正にこのことを言うのであろう。同氏の御快諾を得て早速、翌日コピーをとりに出かける。新しい文書でも百年、古いものでは三百年を経た貴重なものである。何分、和綴で皺の多い古い紙、一枚毎に皺を伸して破損せぬよう丁寧に複写する。優に四時間近くかけた作業である。B4版サイズにして百三、四十枚に相当する量である。
扨、『いよいよ本番開始だ』と張りきってコピーの束と対峙する。ところが、これがさっぱり、いけない。全く情ないことには楷書は兎に角、江戸期と明治の異字・略字・俗字の類は手許の大字典にも出ていないし、況や行書と草書の羅列とあっては歯が立たぬ。このままでは宝の山に入って、みすみす引き返すこととなる。今迄の努力が画竜点晴を欠くことになってしまうのだ。
因に壽一氏方の古文書の大半は、私の曽祖父傳三郎の兄芳輔の筆書きで、芳輔は始祖から数えて十三代目に当り、文政五年(一八二二)津和野領美濃郡青原村(同郡日原町)の産、明治二十七年(一八九四)没。若くして庄屋役を仰せつけられ、領内諸村の庄屋を歴任し、明治維新後は新制度の戸長に選ばれ、幕末の動乱、明治初年の疾風怒濤、諸制度朝令暮改の時代を通して永年、村政に尽瘁する傍、家運の興隆に心を砕いた人物であり、壽一氏は芳輔の曽孫のお一人だ。私は芳輔を評して『士魂農才の人』とし、多くの貴重な文書を後世に遺して呉れたことを感謝している。
(四) 扨又、この古文書の束を如何にして自家薬籠中のものとなし得るか。思案するより勉強するのが早道と考えていたところ偶、新聞広告で『朝日カルチャーセンター』の講座の一つに林英夫先生の近世古文書の講義があるのを知った。先生は立大名誉教授・文博で歴史学の泰斗、多くの著述あり、古文書教育の草分け的な学者であられる。私は直ちに週に一回、毎月曜日午后一時から三時迄の部に受講させて頂くこととした。そして先生の名講義とお人柄、御熱意に魅せられて、いつの間にか丸五ヶ年間、御指導を仰ぐこととなった。講義は古文書の読み方、筆の運び方などを中心とされるのは言う迄もないが、先生が『又々、脱線した』と言われる江戸期庶民の思想、生活慣習、哀歓、娯楽そのほか幕藩体制の基本的史実の解説は先祖研究を志す私にとっては、打ってつけの指針となったのである。先生よりの受け売りだが、幕府体制が堅持されていた時代、公文書は凡て御家流(青蓮院流)と定められていたので解読は容易であるが、幕府が崩壊したのちは、この規制が失われたため、明治初・中期の文字は大変読み難いものとなってしまった。これを解読するには筆者個々人の筆ぐせを会得するのが先決とのこと。幸い私は得難い良師と邂逅することが叶い、先生の懇切な御指導のお蔭で、さしもの古文を解読することが出来たのは有難い限りであった。猶又、島根県御在住の諸先生方よりも何彼と御教示に預っている。
(五) ソロソロ先祖の辿ってきた歴史の全貌が見え始め且亦、家系の大筋が判ってきたので、ここらで机上の研究と原稿書きは、一先ず措いて現地を訪ね、遠祖・先祖に縁故ある寺社と古墓に詣で彼等の息吹きに直に接したいと思い、多くの地図や観光ガイドで調べていた頃、古文書の発見、良師との出会に続いて第三の幸運が舞いこんできた。それは予ねてお世話になっていた現地の図書館御勤務のさるお方から横浜市の高木繁司氏が私同様、岩本の先祖を研究しておられることを知り、更に高木氏の紹介で現地の益田にも岩本家系の研究家浅野哲氏がおられることを知った。以来、両氏と資料の交換その他、いろいろと御厚誼を頂いて今日に至っている。ところが、このお二人の企画によって近々、岩本同族の合同法要を益田の名刹曹洞宗妙義寺で開催する準備をしているので是非出席の上、講演を頼むとのこと。これ又、渡りに船と参加させて頂いた。益田市は本州の南西端に近い日本海に臨む人口約五万四千の静かな地方都市であり、歌聖柿本人麿呂の生誕・終焉の伝説で世に知られている町でもある。高木氏と共にブルートレインと特急を乗り継いで東京駅から片道十六時間余り。決して近くはない距離だが不思議に旅の疲れはない。
昭和六十三年四月九日の朝、総勢三十余名の同族の方々が妙義寺に集い先祖諸霊に対して心からなる供養を営み、終って懇親会が開催せられ、その節、用意の資料をお配りして遠祖・先祖の解説をした。更に当日をはさんで四日間、浅野・高木両氏並びに新たな土地の同族お二人の御案内によって待望の現地見学となったのである。
今は凡て益田市内になっているが、各地に散在している岩本諸家の古墓と歴史豊かな古社寺と史跡などを次々と訪れた。当家の始祖作助嘉倶の墓は去る昭和三十年に再建せられているので真新しいが、その他の古墓は概ね風化して刻字の読めぬもの或いは文字の一部が剥離しているものも多い。中には倒壊して土塊と化しているものも見受けられる。墓所は皆、丘陵の上の平坦地に位置を占めており、その下の庄屋々敷跡は手入れの行き届いた畑地となっている。多くの墓のうち始祖の新墓と芳輔の古墓には格別の感慨を覚え芳輔には貴重な遺文の数々を遺して呉れたことを感謝した。古墓の中にも刻字が良く読みとれるものもあって予て調べておいた江戸期の先祖の戒名・俗名・没年などが、はっきり判って嬉しくなる。恰も墓の主に対面しているかの気分になる。
丘陵の雑木林の所々に楮(こうぞ)の木が顔を出している。この木の枝を削って皮をはぎ、中味を煮つめて繊維を採り、これを天日に晒して石州和紙とし、製品を年貢として上納する。これには相当、苛斂誅求があって代々の農民を苦しめたと史書が語っているが、永遠の眠りについている古墓の中の人々は、もうその苦労から解放されているのだ。始祖の墓に近い所に曹洞宗の小寺院円通寺がある。この寺は芳輔の写した古文によると宝永四年(一七〇七)、山折村の岩本の先祖が建立したとある。島根県では山村に廃寺が続出する昨今、有難いことだ。
更に車を駆って幕末、第一次長州征伐の直前に長州藩の保守派(幕府への恭順派)と強硬派(反幕派)が抗争して青原村(芳輔の生地で、彼は当時、近くの他村の庄屋であった)へなだれこんで進入し、あわや血戦開始となった折、芳輔は同村庄屋と手わけして両者を説得し、首尾良くお引き取り願ったとある、この村を訪ね、次いで近くの芳輔の兄芳三郎一族の古墓を詣でた。
最終日には益田の北東に当る浜田市へ行く。ここに岩見国分寺と尼寺の遺址があるが、目指すは市内を流れる下府(しもこう)川中流の左岸、伊甘山麓の臨済宗の古刹伊甘山安国寺である。この寺こそは岩本家の源流益田氏の祖、藤原改め御神本国兼が平安時代の末に中興した寺であり、本堂背後の伊甘山の中腹には御神本三代即ち国兼・兼実・兼栄の古墓と供養塔一基が風雪にさらされ今にも倒れそうになって立ち並んでいる。境内の案内板には浜田市・ロータリークラブの連名で立派に『傳御神本三代の墓』として解説し、史家のお墨付きもあると言うのに、これは一体どうしたことか。もっと史跡は大切に願いたいものだ。我に財力あらば、と嘆ずることしきりである。
以上、この現地四日、往復六日間の旅は関係諸氏の絶大な御配慮により滞りなく終了し、私に大きな意欲を湧き立たせて呉れたのである。
(六)このようにして日を重ねているうちに段々、原稿の目方が増えてくる。時には一日、十数枚(四百字詰)、一気にこなして翌日、読み直して見れば、トンダ考え違いに気付いて、これを書き直す。他用で何日も外出し帰宅し、落付いて作業に入れば暫くすると同じ事柄を又書いている。これも勿論、御破算だ。原稿用紙の無駄なきように、最初から文章の順序に大枠を定めて、その線に沿って進めている筈なのにどうもいけない。失敗を重ねつつ牛歩を続け駑馬に鞭打ち走り出す訳だ。何とも効率の良くない次第だが昨日よりは今日の方がゴールに近付いていることだけは確かである。
微速前進を続けているうちに浅野・高木の両氏より続々と資料が到着する。浅野氏よりは大型の家系図と現地調査の墓所の資料が、高木氏よりは分厚い家系図が、更に私が問い合わせている諸方面からの回答が届けられてくる。気分一新、心を弾ませ乍らこれらの資料と取り組む。何分、江戸期の初めから現代迄のものだ。量も甚だ多いのも当然である。あとで数えてみたら諸系図に掲載した人物は古人・現存者合わせて実に延べ九百十九名、墓所十五ヶ所(このうち島根県の分、八ヶ所は、さきの旅行で詣でている)に及んでいることが判った。これらは申す迄もなく岩本家の始祖作助嘉倶の子孫・末商の人と墓所に関する記録である。但し、これは、その全体の一部をなすものに過ぎず時日をかけて調べれば、未だ未だ判明するであろうが、これらの資料は少なくとも江戸初・中期頃迄の先祖の大半を網羅するものと見て大過はないと考えられる。この時代に領民の藩外への転出が殆どなかったからだ。私は数多くの資料に囲まれて詳細な調査をとげられた諸氏の御努力に感嘆すると共に、これらの諸氏に資料を提供せられた諸家が御先祖様大切に、過去帳そのほか家の記録を永年に亘って所持しておられるのには感服させられた。我家の場合は既に述べた如く戦火で家諸共に古文書を焼失したので、私は関係の四ヶ市より除籍謄本を求め、どうやら高祖父(曽祖父の父)の名前迄は判明して、大いに参考となり、あとは芳輔の記録に従うこととした。外国の事情は判らないが我国の戸籍制度には感心するばかりだ。次には家系図と墓所・墓石の記録のとりまとめにかかる。これは凡ての作業のうちで最も骨折り仕事であった。神経を余計に使うからだ。
系図と墓石の文字、例えば戒名、俗名などに時折、字書にない奇妙な文字に出会う。これらの異字・俗字は専門の字書を見て確めて現在の文字とする。又、恐らく全くの誤字と考えられる字もあったが、これは窮余の一策として文字の偏と作を分解して表示する手を用いた。墓石と系図の没年月日の食い違いにも出会う。墓石の刻字の二のうちの一が消滅すると一と読める。親と子が同じ名前の場合もあり、間違い易い。諸氏御提供の資料の一部には没年、系図の線引き(繋ぎ線)などに食い違いが見られる場合もある。何分、数百年を経ている現在のことである。何れを是とし何れを否とする極め手がある訳ではない。このような問題に対しては凡て原資料そのまま記述して註記を付けることとした。私は故人に関する記録に誤りがあってはならぬと自戒し、度々、資料を提供された方々に確認を求め乍ら草稿を進めて行った。
(七) 数百枚の原稿を机に置いて最後の読み直しを開始する。これでもう大丈夫と思って前に進むのだがそうはうまく事は運ばない。重複個所・不足個所・前後入れ替え必要の個所・表現不十分の個所等々、続々と出てくるのには辞易させられたが、ここ迄くれば、あとには退けぬ。前進あるのみ、凡て書き直す。序文を作り、目次を作り直す。更に旅行の際にとってきた多くの写真の中から巻頭に掲載するものを選び、地名を解説した略図、数枚を選ぶ。これは楽しい仕事である。この頃、浅野氏より『発刊によせて』と題する過分の紹介文も頂き大いに恐縮する。
いよいよ印刷会社へ原稿を郵送し始めることとなった。適当に枚数をまとめて、更に読み返した上発送すれば七日乃至十日前後の間隔で校正刷りが戻ってくる。あとは、この繰り返しとなるのだが、読み難い文字、滅多にない文字が随所に出てくるのでタイプを叩く人にとって字探しに苦労をかけたことであろうし就中、線引き一杯の系図の作成には骨を折ったことと察せられる。校正の仕事は最低三回、中には四、五回程度も繰り返したが、当方の見落し、その他によって製本後に若干の誤りが発見された。論語に『後世畏る可し』とあるが、正に『校正恐る可し』である。拙い原稿の字が奇麗な活字に化けると不思議に幻惑されてミスを見落とレてしまう。これは気力・眼力、減退の故か。早速、ミスの一部は、これを製本に書き込み、その他は『正誤表』の手配をする。
(八) 平成二年八月初旬、遂に念願なって二百数十冊の先祖の本が届けられた。この仕事にボツボツ、手を付け始めてから丁度、八年、過ぎている。自宅の応接間に山と積まれた本を眺めて感無量である。少年時代に祖父の先祖話を聞かされてから六十七年は経ている。更に追求して解明しなければ、と考えられる事柄も少なくないのだが、一先ず、この辺で妥協しておかねば際限がない。あとは後生の有志に委ねるほかはない、と巻末に主要参考文献を掲げておいた。この仕事を手がけて以来、これと併行させて数種の本を自費出版(何れも故人に関するもの)しているが、異種の作業を同じ時期に進めることが、却って気分を清新ならしめ、能率向上に役立つことは妙であった。
拙編の書名を『石見国郷村における一旧家の歴史』と題し、副題を『津和野藩の庄屋岩本芳輔の遺文を手がかりとして岩本家の先祖を尋ねる』とした。随分、長い書名であるが、名は体を現す可く、やむを得ぬ。本の巻頭に写真七枚と関連の頁に見取り図(地名の案内)五枚と紋章二点を掲げ、所謂フランス表紙A5サイズニ百四十頁の本が出来た。全文を九ヶ章に分けて、先祖・遠祖の歴史について約四割強、芳輔の遺文(古文書の主体)の紹介と解説に約三割弱、あとの約三割は墓所・墓石の解説と諸家の系図にあてる結果となった。これは概ね当初の目論見に沿う配分で嬉しく思う。
思い起せば、長いように見えて短いこの七十余年、病に斃れず、大怪我もせず、ニューギニアに白骨を晒す羽目にも遭うこともなく又、三度の食事に事も欠かず、火難そのほかの災厄を免れ、結婚後は家内共々、無事息災この日を迎え、加えて卒業五十周年に当る今年、この拙文を綴らせて頂くことが出来たことは正に至幸と申す可く、深く神仏、先祖の御加護に感謝する。更に、この仕事に対して一方ならぬ御協力を下さった諸氏と既知・未知の別なく御懇切な御指導、御示唆を仰いだ諸先生のお蔭あらばこそと思う。更に付け加えるならば碌々、家事の手伝いもせず、相次ぐ支出に対してもクレーム付けぬ家内に内心、大いに感謝せざるを得ぬ。
(九) 次の段階は製本の発送とお届け先よりの反響が待たれることだ。本の訂正個所に洩れ無きや確め或いは本に正誤表と送り状を挟み、分厚い封筒に容れて封を閉じ宛名のシールと切手を貼る作業が毎日、続く。狭い我家は忽ち零細工場の観を呈し始めた。上半身を折り曲げての荷造りや一冊四百五十グラム近い本を家内の買物車に積み込んで郵便局へ何回も持ち込む訳だ。これらの作業は日頃、運動不足の私には汗を流すし結構な体操にもなった。そうして一応、郵送を終える迄に二ヶ月余かかっている。
暫くすると謹呈先の方々より連日、御挨拶状など続々と届けられるし、電話も頂く。郵便受けに音がするたびに門に飛んで行く始末だ。同族の多くの方々より『先祖については昔から話は聞いてはいたが、初めて詳しく学ぶことが叶い、こんな嬉しいことはない』、『ゆっくり読ませて頂いたのち仏壇にお供えして回向した』、『貴重な本を頂いて感謝する。末永く子孫に伝えるつもりだ』等々の趣旨が、こまごまと認められている。全く有難いことだ。仕事の仕甲斐があったのだ。懇意な友人からは愉快な挨拶がある。『君は職業の選択を誤ったナ』と。即ち君は永年、商社マンなど、つまらぬ商売に携ってきたが、この方の仕事が余程、お前に向いているよ、と言う訳だ。言い得て妙か。果して如何、と自問自答する。人生、繰り返しが出来れば、もっと楽しくなる筈であるが。
御教示を頂いた諸先生方よりも次々、御丁寧な読後感など寄せられ、意を強うした。中には『……複雑な家系の流れ、系統を大変わかり易く体系化されたのには感心した。岩本家一統だけではなく『家』というものの持つ社会的意味もよく理解されるので学術的価値も高く興味深く読ませて貰った……』など過分の評価を頂いて恐縮した。盲・蛇に怖じず、言わば猪突猛進の末、出来上がった素人作りの、この本が同族・縁故の方々にお役に立ち且又、専門諸氏より夫々有難いお言葉を恭うしたのは望外の幸いである。
(十) 益田の浅野哲氏より同族の合同法要(岩本会)と出版記念の祝賀会を開催するので是非、出席願いたいとの御連絡と詳しい日程の案内を頂いたのは昨年の秋頃であった。皆さんに迷惑と負担をおかけするのは心苦しいことであるが、思い切ってお受けすることとした。因に岩本会は、これが三回目となる。第一回は昭和十一年十一月、在京の有志十名が故岩本喜一による『岩本家家系』の刊行を祝って東京で催され、亡父も出席している。第二回は上述の通り昭和六十三年四月九日。この第三回目は平成二年十二月二日、前回と同様、益田の妙義寺で法要を営み、終って祝賀会開宴と計画された。
私は前日の夕刻、このたびは新幹線と特急で益田に到着、浅野氏始め、いろいろと協力を下さった方々のお迎えを頂き、山海の珍味の御馳走に与かって一泊。翌二日、早目に旅館を出発して皆さんの御案内により、前回の訪問では時間不足で割愛した史跡数ヶ所を訪ねてのち、妙義寺で回向を営み、終って近くの料亭に向う。総勢二十四名着席し、ここ数年来、親身も及ばぬお力添えを頂いている浅野さんより過分の御挨拶と社用のため欠席された高木さんー同氏より亦、一方ならぬ御協力を頂いているーよりの御懇篤な御祝詞が披露せられ、私よりは今回の企ての動機などについて報告して、心より謝辞を述べた。つづいて別室の大広間で宴が開かれた。順次、自己紹介や感想が述べられる。正面に正座して面映ゆい気持で拝聴する。御年輩のお方で遠地からの参加もあり恐縮の至りである。宴が進むと、そこかしこにグループが出きて、『お宅と私共とは何代前の御先祖が……』とか『お宅と家とが親戚関係であることが初めて判った……』と言うような楽しい会話が交されている。これも御先祖の然らしめるところと心が和む。それにしても司会を勧められる浅野さんが、多くの人々の名前や住所、親戚関係を熟知しておられるのには、全く驚いた。この方のお蔭で出席者に数倍する多数の縁ある人々に拙編の小著を拝呈し得たのは有難いことである。
皆さんの御厚意により、その席で実に見事な雪州焼の茶器一揃の逸品を恵贈された。身に余る光栄であり、これを家宝とさせて頂くこととする。画聖と称せられる禅僧雪舟等揚は文明年間(一四六九-八六)の一時期に益田の古刹崇観寺(現在、医光寺)の住持となり、益田氏十五代の当主兼尭と親交を結び、国宝の絵画と勝れた庭園を世に遺しており、歌聖柿本人麿呂と共に石見国の歴史とロマンと大きく彩っている。この茶器は雪州の芸術の香りをこめた作品と言われる。御一同と、つきぬ名残りを惜しんで夕刻早目に益田を立って史都津和野に向う。
(十一) 津和野は人口約七千六百、坂崎一代、亀井十一代、二百七十年間、政治の中枢として栄えた町で、それ以前は益田氏と屡、領土を争った吉見氏の拠城津和野城址が山上に眺められる。私は亀井藩々邸跡を始め代々の岩本庄屋達が遠近の各村から威儀を正して出かけてきたであろう道々を巡り歩いて、そぞろ昔を偲ぶことが出来た。私の一番の目標は曹洞宗永明寺である。遠路、態、益田から浅野さん御夫妻と岩本雄三さんのお出かけを頂き、お蔭でゆっくり、楽しくお参りさせて頂くことが出来た。ここに明治の文豪森鴎外と坂崎出羽守の墓がある。本堂につづく特別室に坂崎の大型色彩の画像がある。彼は元和二年(一六一六)、江戸湯島の自邸に兵を集め、家康の孫娘千姫の輿を奪取しようと企だてたが、未然に事が露見し自刃を命ぜられた人物である。生涯に数多くの名を名乗り又、度々、訴訟事件を起した。関ヶ原の役の手柄によって津和野を領することになったが、入封後、直ちに苛斂誅求して吉見氏の旧城津和野城を強化するなどして、大いに領民を苦しめたと伝えられる。画像の役の面貌は険悪そのもの、怒気満面、今にも部下を怒鳴りつけようとするかのようで、戦国生き残りの異色の猛将の面影を巧みに伝えている。岩本家の初代作助嘉倶と、その子二代九郎兵衛嘉久が坂崎の下で庄屋を勤めている。恒例の年頭の挨拶の際には嘸々、緊張したことか、と思わず画像を眺めて苦笑した。因に坂崎の治政は十六年、戒名は一峰玄秀大居士。但し墓石右側面の刻字は元和二白丙辰坂井出羽守とあり、これは幕府を憚ってのことと言う。
御一行、お心づくしの鯉料理の珍味に舌つづみを打って駅で再会を約してお別れしたのが平成二年十二月三日の午后であった。最後に先祖調べの中で得た感想を述べると次の通り。
(イ) 大急ぎで古代から明治初期頃迄の国史の概要を学ぶこととなった。所謂皇国史観などは当然のこと乍ら泡沫の如く消えさり、史実の追求を旨とする客観的な歴史学が中央・地方に盛んに研究されている。特に地方の郷土史家に永年、足を使ってまとめられた真撃な研究の成果が少なくないことには感服させられた。筧老先生のお顔と憲法の講義を思わず思い浮べて再び苦笑。
(ロ) 遠い昔の歴史の中の出来事は決して我身に無縁のものに非ず、直接、間接、何等かの形で今の己に及んでいることを知った。
(ハ) 人々の間には目には見えぬ無限の絆の糸が時空を超えて結ばれていることを如実に学んだ。これを華厳哲学に所謂事事無擬法界(じじむげほっかい)の一相と言うのであろうかと。
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