社会人五十年の断片
4組  金井多喜男

 

  汚れ役者

 今から丁度三年前になる。伊藤忠の社長の強い要請で私は東亜石油鰍ニ関連会社の東亜共石鰍フ社長に就任した。この両社は過剰設備投資と低操業率ならびに過剰タンカー保有の三重苦によって極度の経営不振に陥っていた。借入金合計は両社で二千六百億円を越え、これは両社の売上高よりも多いという大問題を抱えていた。そんな状態なので就任の挨拶廻りでは、社長就任おめでとう、などという社交辞令は殆んどなく、いやー大変だねえーとか、全く御苦労様とか、話が少し弾むと、お気の毒に……というような言葉まで飛び出して来た。

 通産省時代から兄事している新日鉄化学社長(当時)の小室恒夫さんはスクラップブックを提示されて「君が東亜石油の社長をやるという事を聞いてから自分としてもひどく気になるので、凡そ新聞に出ている東亜石油関係の記事は全部切り抜いてこれに纏めておいた。これで見ると本当に大変だ。まあ、君の事だから一寸やそっとで弱音はあげないだろうが元気を出して……」との後輩への思いやりを示され、本当に有難い先輩だとつくづく思った。昭和電工の鈴木治雄社長は副社長の岸本さんと共に態々激励の席を設けられ、次のような汚れ役者の話をされた。

 芝居で主役の汚れ役者を演ずる役者は非常な名優である。舞台ではその汚れ役者は悪代官にいじめられたり、金持商人にうんと馬鹿にされたり、無知な町人衆に笑い者にされたりする。然し芝居が終って楽屋に戻り、衣裳を着替え、白粉を落とすと先刻の代官や金持商人は先程とうって変って一介の役者に戻るが、汚れ役者は大先生に戻り、舞台の芝居とは全然立場が変る。あなたの演ずる東亜石油の社長は失礼乍ら舞台における汚れ役者の立場だ。然し、あなたは決して卑屈になることなく、正々堂々と行動しなさい。汚れ役者は通り一遍の役者では演じられない。自分は選ばれた汚れ役者なのだという誇りを持ちなさい、と。鈴木さんのこの激励には大いに元気づけられたが、さてこれを実行に移すとなると仲々むずかしいものであることが日を重ねるにつれてわかって来た。

 話は変るが、私が東京商科大学の予科の学生の頃は月に一回程度修身の時間があって、学長の上田貞次郎博士が担当された。上田先生は大正から昭和にかけての商業界の泰斗である。ある時、上田先生が訓話されるには、君達はいずれ社会人となり実業界に入ってからは企業なり実業界なりのリーダーとならねばならぬ。然し乍ら企業経営は順調な時もあれば逆境の時もある。その場合経営のリーダーとしては部下なり従業員と苦楽を共にするの精神であらねばならぬが、部下の人達は順風に慣れるとはしゃぎすぎたり、時に傲慢になったりする。ところが逆境に突き当ると意気消沈して悄然となる。これは小人の常である。斯かる場合、長たる者は得意の時は冷然-端然ーと構え、失意の時は泰然たるべし、と教えていただいた。当時の東亜石油の従業員はまさしく失意の状態であったので、先生の教訓と鈴木さんの汚れ役者の体現とは私にとって共に適切な助言であった。処がここに困った矛盾がおきて来た。パーティーなどで財界人に会うと色々と慰めの言葉をかけられる。ここで私は深刻に考えさせられた。何となれば私は元はと云えば役人出身である。泰然とした応答をしていると、「彼は責任観念がないのではないか。役人出身だから経営責任を深刻に考えておらずニコニコしている」ととられはしないか。逆に静かな顔をしていると「意気地がない。上に立つ社長があんな顔をしていては社員の志気は沮喪するだけではないか」と蔭口を叩かれはせぬか。どちらに転んでもこれは問題である。そこである時期からは人目につく場所には顔を出さぬ事にした。いわゆる君子危うきに近寄らざるに如かずという心境に追い込まれて仕舞ったのである。

 このようにして修養の至らぬ身には折角の貴重な二つの教訓も身につかぬ儘、社長の座にあること二年七ヶ月、親会社の巨額の損失負担のもとに経営権譲渡という格好で今年一月末退任した。汚れ役者の名優は私には高嶺の花に終った。退任後のある日、私は鈴木社長の許に伺い、御支援の御礼を申し上げたあと、例の汚れ役者の精神は今にして思うと鈴木さん御自身への自戒ではなかったのかと質問した。何となれば鈴木さんは昭和電工の阿賀野川汚染等で会社経営の大変な時代に社長を体験されたのである。すると鈴木さんはあの和やかな表情で無言のうちにニコッとされた。鈴木さんの社長としての永年の悪戦苦闘の結果が最近の抜群の好決算と思われる。汚れ役者は誰にでも演じられない。これをこなせる社長は非凡な力量を伴った人でなければならない。
  (「財界」一九八○年八月掲載)

  弱いジャイアンツは消え去れ

 還暦をとっくに過ぎた年寄りが、ばかばかしい限りとは百も承知でありながら永年ジャイアンツファンから訣別することができない。毎年セリーグ開幕の頃は桜の花が咲き出すが桜の花はとてもバラ色に映える。ジャイアンツ優勝への期待があるからだ。ペナントレースの終る頃はコスモスの花が咲き乱れる。しかし、あゝ今年もまた駄目だったかと空しい気持になる。コスモスの花はとても冷たく、そして淋しく私に映るのである。会社の運転手君も私と同じく巨人ファンである。従ってシーズン中は私の乗車中は大抵ジャイアンツの成績に話題が集中する。彼は前夜の負け試合をひどく残念がる。私は彼を慰めて斯う云う言葉で締めくくる。僕は以前ジャイアンツが日本一を九連覇もして呉れたのでファンとしてあの頃は本当に仕合わせだった。だから最近こんなに弱いからと云ってさ程気にならないよ。毎年日本一なんて虫が良すぎる、と。実の処は彼を慰めるのに籍口して自分を慰めているのである。それにしても、ここ数年のジャイアンツの不甲斐なさには全く呆れるし、腹の立つこと夥しい。私の期待するのは常勝巨人軍であり、日本一強い巨人軍である。また特定の巨人軍選手のファンでもない。ジャイアンツの勝利に大きく貢献した選手は好きであり、前年迄大活躍しても今年働きの悪い選手は貶し放題である。

 今年もジャイアンツは阪神に十三ゲームも離されて三位に終った。此の分では来年も駄目、再来年も駄目。或いは今世紀中は駄目かと思う。弱い巨人軍のままではどうも世の中面白くない。そこで来年の再建に向けて私は仕事の合間に真剣に考える。そもそも弱くなったジャイアンツの根本は球団の経営理念に根本的間違いがある。聞くところによると、選手にCM活動を積極的に許すのみか、その出演料の歩合を球団が取っていることだ。この結果選手はタレント化し、グラウンドで泥まみれになって稼ぐことをなおざりにして仕舞っている。江川がノックアウトされ、原が絶好機に三振したりして敗色濃厚になりファンが切歯拒腕している最中に、当人たちがくだらぬ膏薬とか目薬のCMに出てデレデレされて居たのではたまったものでない。須らく来年からはアルバイト活動を禁止して本業で稼ぐ精神を徹底さすべきである。読売の球団は日本一儲けている球団である。西武球団の出来る事位は当然出来る筈である。次には選手が巨人軍という看板の人気に溺れている甘えの構造を叩き直すことだ。今朝の新聞に西武の広岡監督退団の記事が出ているがどんな形でも良い、早速迎え入れる事だ。巨人軍選手の根性を叩き直す事の出来る指導者は古くは川上氏、今は広岡氏しか居らぬと思う。それでも根性の癒りそうもない者は、江川だろうが原だろうがどしどし他球団にトレードする。チーム全体の精神改革なくしては、落合やバースを連れて来てもこの悪疫に蝕まれる丈で、戦力の強化は覚束ないと思われる。この二つの改革が出来ぬようであれば、ジャイアンツは潔く解散する事を強く希望する。

 つらつら想うに、私は今の弱い巨人軍の為にどれ丈頭を痛めたり、イライラしたり、その揚句不機嫌となって罪なき囲りの人達に迷惑をかけたことだろう。更には自分の仕事の能率を妨げ、延いては会社なり国家なりにもっと貢献出来たこともなおざりにしている。世の中には私のようなジャイアンツファンはたくさん居る。弱いジャイアンツの、これらのファンに与える精神公害を考えると、ジャイアンツがむしろ地上から消えて仕舞えば、世の中は一層平和となり、職場の生産性は目に見えて向上すると思う。
  (「通産ジャーナル」一九八五年十二月掲載)

  三井の森とゴルフ

 三井の森の春の訪れは晩い。その頃は私の住む関東平野では桜の季節もとっくに過ぎて、風薫る若葉の季節に移りつつある。高速道路を諏訪インターで降りて東の方三井の森に向うと、鬼場橋を過ぎるあたりから近在の部落には漸く桜の花が咲き出し、ところどころに白い辛夷の花が山里の春を告げている。曲りくねった坂を登って行くにつれて眼前に聳える八ヶ嶽、穏やかな撫で肩の蓼科山、なだらかな起伏の霧ヶ峰、そして遠方に顔を出しているのは南北中央のアルプス連峰。その何れもが山頂に残雪をいただいている。去年の今頃も見せて呉れた同じ姿だ。山荘の庭の落葉松は漸く芽を吹き出した処だが、蝦夷ツツジ、ジンヤ、一薬草、キンバイ草などが主人公の到来を待ち佗びていたかの如く林間に静かに咲いている。さあ、これからこの三井の森の自然に溶け込んで、わが家のカントリーライフが始まるのだと心が弾む。

 カントリーライフの目玉は三井の森ゴルフクラブでのゴルフである。コースには大てい愚妻と共に出掛ける。山荘から歩いて通うには老人には少し大儀なので家内の運転する車を利用すると五分もかからない。そこで家内をゴルフクラブに加入させたのである。もともと彼女はゴルフにあまり魅力を感じていなかったので、極めて不熱心で庭での素振りすらやらない。従って腕前はいつまで経っても上がらず相当なダッファーだ。最近になってもチョロ、スライスの連発でパートナーに迷惑をかける怖れが大きい。亭主は家内のプレーがスムーズに運ぶよう、その打球を拾いに右往左往したり、リプレースしてやったりの大忙しである。事情を知らないキャデーさんには大変な愛妻家に映るらしい。お蔭でこちらは大きな荷物を背負ってプレーしているようなもので、スコアはさっぱりなのも致し方ない。しかし澄み切った高原の青空の下、八ヶ嶽連峰の偉容を望み見ながら、白樺の美しいコースでのプレーは楽しくもあり、気分は自ずと大らかでありカミさんのミスショットもいつとはなしに物の数ではなくなる。パートナーはメンバーの御夫婦と一緒になる場合が多い。家内の未熟なプレーも全く意に介することなく気持の良い人達ばかりだ。有難く思う。ゴルフ場のスタッフの人達の応待も皆丁重で爽やかだ。教育も徹底していてキャデーさんに「……様」と呼ばれるのも優雅でよろしい。斯う呼ばれると、プレーヤーも品格を重んじなければと自戒し、エチケットにも忠実になる。

 週末には諏訪盆地の茅野市に住む家内の兄夫婦とのプレーが殆どである。夫婦とも腕前が良いので勉強になるし、嫂が家内の面倒を良く見て呉れるので私はとても助かる。高原の陽光を浴び乍ら、親族の屈託のない終日の交歓を楽しめるのも三井の森ゴルフクラブのお蔭というべきであろう。真夏のシーズンになるとコースは避暑客で大賑わいとなる。日頃は多忙の実業界の知己、友人と食堂で、時には浴場で久し振りにパッタリ出合うのも嬉しい。しかし、お盆が過ぎ八月も終りに近づくと、別荘の人達も日一日と姿を消してゆく。コースでふと気がついて見ると赤とんぼが肩にとまっていて、一瞬大地が鎮まり返ったような静けさになるのもその頃だ。秋風が頬をなで、クラブハウスの囲りのドウダンが日増しに赤味を増す頃ともなると、今年の三井の森にもボツボツ別れを告げねばと一抹の感傷に浸るようになる。
  (「三井の森」一九八九年掲載)

 追記
 社会人としての五十年の間には、各種の雑誌等から寄稿を依頼されることが多かった。その中から随筆三編を選んでわが人生におけるウエイトの高い仕事と趣味と老後に分け、夫々一編ずつ再掲しておきたい。

 「汚れ役者」は職場体験の断片である。職場は大きく分けて三分野を体験した。最初の通産省が二十六年九ヶ月、次の伊藤忠が二十一年九ヶ月、この中に東亜石油の二年七ヶ月があった。私が伊藤忠に転じた時は官僚天下り批判が世論を沸かしていた最中なので新聞に大きく取り上げられたりして、揚句の果ては無理矢理TVに引っ張り出されて時の総評議長大田薫氏と生番組で対談させられた。夫々の職場は大変働き甲斐があったが当然乍ら何かと苦労もした。中でも東亜石油の社長は苦難の連続であった。微力にして汚れ役者は全う出来なかったけれども、私はこれらの試練を通じて苦労も一つの財産と考えるようになった。その後の私の職場生活なり人生観には大変役立ったと思われる。

 「弱いジャイアンツは消えされ」は生活の断片である。社会人となって若い時代は麻雀に興じたり、中年になってゴルフを始めた以外は熱中するような趣味もない。しかし以前からプロの野球に関心を持ちジャイアンツの勝敗が大変気にかかるようになった。仕事から解放されると先ずテレビのスイッチを入れて寛ぎ乍ら表情をむき出しにして喜んだり残念がったりする時間は私の私生活で相当なウエイトを占めていたように思われる。日本シリーズで九連覇した頃は巨人ファンとして最高であった。巨人、大鵬、玉子やきと云う言葉があるが、之は子供の共通の好みを風刺したものだが大人と雖も野球に限らず少し度を越したファンは子供のような精神構造である。即ち、良く云えば純情、悪く云えば単純な頭の持主である。省みて自分もそんな程度だと思っている。
 さて今に至るも私は日本一になれなくなった巨人軍には非常な不満を持っている。世に云う可愛さ余って憎さ百倍という処か。

 「三井の森とゴルフ」。わが家族は妻と嫁いだ娘二人の四人である。娘達は夫々伴侶、孫達にも恵まれて、長女は四人、次女は五人の家族である。顧みると我が人生は仕事中心で家族に対してサービスも不足勝ちであった。停年の近づくにつれて、引退後の生活と永年に亘る家族の内助に報いる為に山荘でも持とうということになり、場所は我々夫婦の郷里に近い長野県の蓼科山の麓、高度一千二百米の地に決めた。最近は近村合併で茅野市に属しているが曾ては諏訪郡豊平村東嶽という田舎で三井不動産の開発した処である。土地に多少ゆとりを持たせたので退職金の大部分を投入することになったが之も已むを得まい。

 冬は零下十度以上ということも珍しくないので夏期中心の利用ということになる。学校が夏休みに入り孫達を中心に娘達夫婦も一斉に集まって余暇を楽しむのは私達老夫婦の今後の生き甲斐というべきであろう。私も既に今年で七十二才になった。あと何年生き続けるかは知る由もない。私の今後の人生はこの蓼科での生活が年と共に多くなるだろう。私の祖先もこの地の近くに眠っている。


 1988年秋、12月クラブの友を招待したときの写真を添付する。
 (左から、田中林蔵君、私、韮澤好夫君、新井隆君、山崎坦君)
大写真はここをクリックしてご覧いただきたい。