七組  兼子 春三

 

 (一) わたくしの生れたところは、北海道空知平野の中央にある滝川市である。昨年開基百年の式典が行われたので、わたくしも出席してきた。屯田兵が開拓した街で、主として一次産業に依存している交通の要衝であった。住民は、本州から移住した者とその子孫で、厳しい自然環境に耐えねばならずフロンティア精神を培っていた。当然、因襲に囚われない進歩性や平等感覚を持ち合わせていた。わたくしの父は、会津出身であるが叔父を頼って渡道した者であり、前夫長井と死別し遺児二人を連れて徳島県より屯田兵の伯父のところに身を寄せていたわたくしの母を娶ったのであった。その後、嫡男、三人の娘と末子のわたくしが誕生した。わたくしを生んだとき父は五十二才、母は四十四才であり、わたくしは、母乳不足で出生直後死に目に遭い、中学三年まで虚弱児であった。前記長井の長男と兼子の嫡子は二十代に肺病を患い夭折した。この看病と生活苦のため母は十七年もリュウマチスに罹った。つまり貧乏で複雑な家庭環境は内向的なわたくしの性格を作った。しかし義兄が小学校の教員であり、教育に理解があり、少年時代兄の蔵書を読んだりして、希望に胸を膨らましていた。

 昭和初期は、第一次大戦の余波から世界的不況の中にあり、銀行の倒産がありルンペンを街に見られた。滝川付近にも赤化思想の者も多く、また、テロ事件が田舎のラヂオを賑わしていた。わたくしが中学に入って、間もなく満州事変が勃発、配属将校の性格もあり、軍国主義が身に迫ってきた。わたくしの家庭は、仏教徒であり、仏壇・神棚を礼拝していた。このことはいまも続いている。わたくしは、東京商大一年の夏、如意団に加わり、一週間、円覚寺で参禅した経験を持っている。

 (二) 昭和十年、東京商科大学附属商業教員養成所を受け合格した。暗い北海道の家庭を離れて東京で生活することになった。月二十円の給費をもらうことができたが、それだけで十分でないので家庭教師を探してこれを補った。中和寮に入る余裕がなく、青春時代十分な教養をつけ人間の幅を拡げなかったことを後悔している。

 しかし、当時の専門部・養成所の講義は、わたくし達をスッカリ魅了したものであった。商大の若手教授が格調高い講義をしてくれたからである。太田可夫先生の論理学、杉本栄一先生の経済原論、上原専禄先生の経済史、鬼頭仁三郎先生の外国為替論(ゼミに入った)、田上穣治先生の法学通論等人気の的であった。英語スピーチに堪能なものあり、講義毎に教授に質問を浴びせるものあり、研究部で既に一流の論陣を張るものあり、田舎出のわたくしにとって、同僚の立派なことに驚嘆したものであった。当時、東京商大の若手教授には、一橋の学問興隆にうつ勃たるものがあり、それが犇々とわたくしたちに伝ってきたのである。それが、杉村教授の博士論文白票事件となってあらわれ、また所属の商業教員養成所に端を発した安藤事件であった。わたくしは、アルバイトを続けながら、本科受験を志した。

 (三) 住込家庭教師を続けることにより学資に安定を得て本科に合格した。その頃ニクラス上の三羽鳥が養成所から本科にすすみ、米谷ゼミに入り、先生主張の官界・法曹界入りを果した。これに刺戟され専門部・養成所出身者のなかでこれに続く者が殖えた。わたくしも同じ想いで、畏友三浦直男君とともに米谷ゼミ、の門を叩いた。わたくしは、三年のとき高文行政科の筆記に合格したのであるが、思想運動、勉強方法の間違い、それに一身上の問題も手伝って口述試験に落ちてしまった。それで留年して再度挑戦したが失敗した。満州国の高文には合格したが、そちらへは行かなかった。

 思想運動とはこうである。日本は国際社会において困難に立向っている。しかし世界に堂々と対抗できる人物が出ない。これは、帝大を中心としての教育、学問の内容・方法がいけないのである。国民精神の統一のうえに、政治・経済・外交に立派な手腕を発揮しうる学問科学を確立すべきというのである。唯物思想、臣道感覚のない観念論はマルキシズムの温床である。日本精神に準拠して、思想批判の運動を展開したのが、一高昭信会から出発した田所広泰を理事長とする日本学生協会の運動であった。日本精神は、ブントの文献文化史的にみれば、紀記万葉から、聖徳太子の信仰思想に仏教の日本的同化がみられ、親鸞の他力信仰心は、天皇につくす随順の思想と一致するという。つぎに儒教の同化について素行の中朝事実にあらわれている。思想運動として、明治天皇の御製拝誦とシキシマの道を厳修することにより、清く・正しく・大君にまめやかに仕えまつる精神を涵養することにある。これは、マルクス・レーニン主義と相容れず、弁証法的発想に生命の反発を覚えるというのである。日本学生協会の菅平における五日間の合宿に三浦君と一緒に参加し、わたくしは、さらに一年間、この思想運動を続けた。学生協会は十九年東条により解散させられた。

 (四) 昭和十六年十二月の就職先は、日本商工会議所であり、そこには、猪谷善一前教授が常務理事で先輩本間幸作氏が部長でいた。僅か一ヶ月の勤めで、北部四部隊へ現役兵にとられてしまった。初年兵の一期は、ガダルカナルで全滅した一木部隊と一緒であったが、幹部候補生として兵科であるが合格したので、仙台の予備士官学校の方へ派遣された。

 昭和十七年十一月山東省の独立歩兵三十大隊に配属され、八路軍に対する治安維持と新兵の教育に当っていた。昭和十九年春、釜山からシンガポールまで兵員輸送の鉄道を敷くため京漢線打通作戦に駆り出され、河南省旧黄河に小隊長として先発させられた。それからX日の二十四時に中牟渡河作戦の尖兵長として夜襲し敵陣に突入した。その後追撃しているうちに、ある日の払暁戦で、部下伍長の戦死に遇い、わたくし自身顳に弾が擦ったが、奇蹟的に助かった。その後、警備大隊が組成され、わたくしは大隊副官となり河南省舞陽の地に駐屯したが、そこで終戦を迎えたのであった。捕虜生活八ヶ月で二十一年四月田辺港に復員した。ポツダム中尉である。所属部隊の主力は北海道のため北友会・中星会という戦友会を作り毎年慰霊祭をしている。わたくしは東京にあるので行ったことがなかった。寄る年波で一度は顔を出すべきかと思って昨年夏この会に出席した。わたくしは、確かに戦争には参加したが、その後四十四年も脇目も振らず復興と育英に尽して来たのだ。その時の挨拶は懺悔のお経を読んだだけだった。

 (五) 復員して日本商工会議所を辞め城東電気株式会社にチョット勤めたことがある。そこで終戦処理の会計(財閥解体のための集中排除法、企業再建整備法)に関心を持ち、当該会社の書類を作成した。これを切っ措けに企業会計に興味を持ち始めた。持前の研究熱心さも手伝って、アメリカのReceivershipやドイツのSanierung等の勉強を始めた。勃然と湧いた向学心、それも実用的な会計学に関心がたかまった。わたくしは、アメリカ文化センターや一橋の図書館へ行って研究した。二十三年から本間先生とともに教育界に転じ、高千穂商科大学の新制発足に携った。高千穂商大は、その後講師として本年三月末日まで四十有余年勤めたことになる。

 大学教師といえ初期には経済的に苦しかった。日の丸煙火貿易の経理をみたり、都立五商の夜学を教えたりしつつ、本務校を移り変え研究条件のよい方へと移籍したのであった。埼玉大学に約十年、国学院大学に五年、そして博士過程のある法政大学経営学部に十九年と古稀まで勤めてきた。その間教えた学生五万人位、ゼミ生三百名、著書十点、大小論文二百点「連結会計の多面的研究」で経済学博士号を法政大学で獲得した。

 この間、わたくしは、思想運動や政治運動には一切携らず、ある意味の民主主義も抵抗なく受け入れてきた。埼玉大学、国学院大学、法政大学と暮しているうち、左翼系のひとも、右翼系のひとも居るが、概ね平穏に教育、研究に従事してきた。しかし何か問題が生ずると意見が岐れるものである。特に大学では学生運動のシンパの持ち方である。全学連における民青と中核・革マルなどがあり、神道の派、キリスト教、創価学会等様々な主張に出遭った。安保闘争華かなときに法政大学で学部長をしたことがある。夜中各部室を廻って凶器を撤去したり、試験実行のため検問、ロック・アウト、それに警察機動隊を要請した経験もある。試験粉砕といって火焔瓶投榔、爆竹、バルサン使用などあったからである。

 (六) 法政大学の定年退職を機に、長野県佐久市に経営学科の短期大学を創設する話が持ち上がった。地元に経営関係の先生が居ないので、わたくしの後輩を誘って参加することになった。次代を担う青年を育成する大学を創設することに人生の最後の力を振り絞って留魂したいと思ったからである。既に理事長を三年勤めたが、これから学長として、わたくしの教員生活を締括りたいとおもっている。

 一九一七年二月のロシア革命以来わたくしたちの一生の間東西両陣営の対立に曝されてきたが、その根本が思想に根差す社会体制の違いにあった。ペレストロイカによる冷戦構造からの離脱を機にソ連は「人道的で、民主的な社会主義」を目指す方向に転じた。同じく東欧諸国は政治体制に変革が生じ民主化を進めながらも混迷を続けている。少くとも社会主義経済対自由主義経済の対立に終りを告げたが、三つの複数主義で動いていってよいであろう。すなわち、所有制の複数主義、市場の複数主義、政治システムの複数主義である。所有制の複数主義とは、私企業・集団企業・疑似私企業(各種の請負制やリース制などの混合形態)セクターの拡大を指す。市場の複数主義とは、これまで消費財市場を意味するにすぎなかったものが、資本・労働・土地などすべての生産要素をカバーしようとしている。第三の複数主義は、政治システムのそれである。ここでは、下部構造の変化から社会階層間の利害の対立は複数政治システムで解決しなければならない。他方、資本主義は、市場の「普遍性」が認識されつつあるといっても、さまざまな「市場の失敗」を経験している。それ故、資本主義・社会主義とが、融合し第三の体制が生れるかも知れない。このような過渡期に、どのような思想を持った人を育てたらよいか。

 社会体制の変革よりも、価値観を根本的に修正する必要がある。これまでの物質文明を反省し、欲望.を克服する新しい普遍的な指導原理を確立する必要に迫られている。そこで、わたくしは、道徳経済一体の立場をとり、四聖をはじめその他の聖人が培ってきた最高道徳を内容とした教育によって、個人に高い品性を得さしめ、漸次、家庭・企業・国家に及ぼす。具体的に、信州短期大学の理念として、@創造性に富んだ自由人、A平等感に支えられた組織人、B博愛精神をもった国際人、C科学に基づき能率的に働く活動人、を掲げることにした。

 (七) 以上のような「私の履歴書」を恥を忍んで書いたのは、自分の気持の整理のためであります。わたくしは、一生を通じて、時には無力感や自己嫌悪に陥ったこともありましたが、概ね前向きに澱みなく生きてこられたとおもいます。戦死された方とか、夭折された方に較べれば幸いであったといえるのでないでしょうか。それだけに、丈夫に育ててくれた父母や運命の女神に感謝せずにおれません。また、友への慰霊の気持を忘れてはなりません。

 ところで、人間は、「六道輪廻の間には、ともなう人もなかりけり、独り生れて独り死す、生死の道こそ悲しけれ」(一遍上人語録)であり、「世の中を思えばなべて散る花のわが身をさてもいずちかもせむ」(西行上人集)であります。われわれは余生幾許も無いのですが、神仏のみ心に随順であり、妻・友・師等への憶念のまことをつくすことにあるとおもいます。すなわち、生々(小生の俳号)の思いを短歌に托すものであります。

  慰霊
身をすてし師友のこころ伝えたしわが日の本の続く限りは
  妻
浮き世をば連れ添いきたる妻なればあの世に逝くも放さざらまし
  友
心知る友と語れば心なごみあふるる涙止めかねつも

 そして、毎日毎日「南無阿弥陀仏」をとなえ、死に臨んで般若心経を口づさみ、「掲帝(ぎゃてい) 掲帝 般羅(はら)掲帝 般羅僧(はらそう)掲帝 菩提僧莎訶(ぼじそわか)」(往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ さとりよ 幸あれ)と結びたい。  合掌

 

兼子春三
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