7組 片柳梁太郎 |
去年(一九九〇年)は世界的にも日本国内でも正に激動の年であった。ロシア革命が起ったのは私達が生まれて間もない頃、東西対立が始まってからでもすでに四十五年近い歳月が流れている。長い年月を掛けて営々と築きあげられてきた社会的、経済的秩序がこの一年ほどの間にズタズタに変貌をとげてしまったのだから、この一年は半世紀にも、あるいはそれを上廻る月日を一挙に駈け抜けてしまったようなものだ。 そういえばわれわれが生きてきた時代は押しなべて一年が、十年があるいはそれ以上にも渉るような急激な変化の連続であった時代だったと、つくづく考えさせられる。私達の生きてきた七十年は古代人や中世人の生活の五百年とか七百年に渉る生活を一挙に駈け抜けてきたような時代だったのではなかろうか。 明治維新を経験したわれわれの先祖達にとっても激動の時代であったことは同様であろうが、その密度と速度においては、到底今日の比ではなかったのではないだろうか。ある意味では明治維新から続いてきた時代の流れが昭和という世代になって一気に結末を迎え、変転し、激しく噴きだしたのだともいえよう。 私達が物心がつき出した大正末期はまだまだ時が静かにゆったりと流れていたと思われる。関東大震災の時私はすでに満五才になっていたから、地震のすさまじさも体験したし、屋根の上まで鈴なりになった列車に乗って避難して行く光景や、大八車や馬力に荷物を山と積んで何処かへ向う人々、その後のバラック生活も目の当りにして未だによく覚えているが、何といってもこの災害は自然の脅威と、そこからの脱出という風景であったように思う。子供の遊びも「坊さん坊さんどこ行くの」とか「ここはどこの細道か」とか「かごめかごめ」などという悠長な牧歌的なものであった。小学校に入って習う教科書も忠君愛国とか教育勅語の精神を基調にしてはいたものの、何処となく農村的というか平和的というかゆっくりしたテンポのものだった。赤旗を林立したストライキ風景やメーデーの騒動なども時折は目にすることはあっても、子供の目にとっては遠い他所の世界の出来事としか映らなかった。 世界大恐慌を境にして、左翼の大量検挙とそれにつづく地下運動、一方で右翼の暴発やテロが頻発するようになってきたが、世の中が変ってきたなという実感が感じられるようになったのは、何といっても私達の中学二年生の時、満州事変が勃発して以来の軍国化時代に入ってからのことだった。私の入学したのは商業学校だったが、入学当初は中学校以上に比較的自由な雰囲気の学校で、英語の授業は週七時間もあり、英人講師や中国人講師もいて、国際的な視野を育てるような教育だったが、三年生になった頃、校長と一部の教師の不正事件があって、校長はじめ幹部の先生の更迭が行われ、学校の雰囲気はガラリと変った。いわゆる皇国史観の押付け教育が入り込んできて、練成道場の泊り込み訓練、柔剣道の正科採用、配属将校の発言の強化等、重苦しい空気が支配し始めた。こうした重圧から逃れるようにフリーな雰囲気を残していた先生達の指導の下に盛んに英語会活動や英語劇とか、山登りに熱中した。これらの先生方のことは発育盛りの少年を暖く見守ってくれたという爽やかな印象が今でも強く残っている。時には教会にも盛んに出入りし、バイブルクラスに入って外人牧師に接触し英会話を習う等、世の中や学校の流れに背をそむけるような生活を楽しんだものであった。 私の生家が商家であったため親父が「学問をしても商売は覚えない」という信念で商業学校に入れられたのであったが、四年生になった頃、このような重苦しい雰囲気の中で社会に直行するのは何としても嫌だ、もう少し学生生活を送って時勢を直視する力をつけたいという思いが強くなり、親父と交渉、あと三年間の高等商業に入りたいと私は宣言、親父は落ちたら小僧にやるぞという条件付で自宅からも通学ができる横浜高商を受験、何とか合格することができ、小僧に行かないで済んだ。しかし中学卒業直前に起きた二・二六事件を契機として日本の進路はますます大きく変り、暗い時代に落ち込んで行ったのであった。 横浜高商に入って二年の七月には支那事変に突入し世の中の空気はますます重苦しさを増していったが、この学校には未だ未だフリーな空気が残っており、良き師と優れた友人に恵まれた日々であった。印象に残った先生は英語の西村稠(しげし)教授、この先生は大変な碩学で、当時カレントオブザウワールドという雑誌の主筆をされたり、万葉集のすばらしい英訳をされた。授業は一切英語で、質問も英語以外には許されない。日本語を使うのは小さな身体で、大きな透きとおる声で「バカァ」と怒る時だけである。リットン・ストレッチーという人の何という題名だったか、数人の人物伝を書いた本を教科書に使った。なかでもゲーテ、ゴルドン将軍、救世軍のブース大将のことを書いた章が印象に残った。二年、三年の時にはゼミがあって経済史の徳増栄太郎教授から指導を受けた。この先生は上田貞二郎先生の弟子で、マルキシストだったが、なかなかのお金持で瀟洒な豪邸に住み、また私達にマルクスを押付けるようなことは一切されず、学問の原点に遡って自由な研究をするという態度で教えこまれた。 学生生活も商業学校時代と異って、ここでは自由な空気を満喫することができ、友人同志で人生のこと、宗教のこと、学問や文学のことを語り合い、時には横浜の郊外から鎌倉方面を歩き廻ったり、また折にふれて酒を飲みに街へも出た。横浜には当時オデオン座という洋画封切館があって、ここで「商船テナシティ」「にんじん」「会議は踊る」「未完成交響楽」などの名画に酔いしれた。支那事変は日に日に泥沼化してきていたが、まだまだ自由な空気は残っていた時代だった。 さて三年の月日は再びまたたく間に過ぎようとしていたが、ここでまだまだ未成熟な状態で先の見えない時局に飛びだして行くことを躊躇う気持が強く、ここで何としてももう三年学生生活を延長したいという気持がもだし難くなってきた。旧制の学校制度、とくに商業学校、高等商業には一橋出身の先生が主要な位置を占め、一橋を頂点とした一つのヒエラルキーのような雰囲気があったから、私のような道筋を歩いてきた者にとっては、一橋にあこがれるのは当然の成行だったともいえる。(このようなヒエラルキーが崩壊したことが、最近のいわゆる地盤低下問題の一つの原因だと私は考える)。そこで親父と再交渉、親父も商人に育てることはあきらめたと見えて何とか説得に成功した。そこで三年の冬休み頃から俄か仕立てで受験勉強を開始、木村増三家の国府津の別荘に佐藤丈夫と三人で立籠ったが、この経緯については三十周年の記念文集に書いた。 一橋での生活は諸兄と共にした所であるので、省略するが、高商での教育と重複するところは極力敬遠ないし試験だけ受けることとし、つとめてアカデミックな雰囲気の洗礼を受けるように努めたことと、更に優れた友人を数多く持つことができ、楽しい学生生活を送ることができたと今でも思っている。毎年夏休みには信州戸隠山の宮司さんの坊の長屋にご厄介になって山歩きや読書を楽しんできたが、最後の三年の時の滞在中、ここで日本軍の南部仏印進駐のニュースを知ったのは大きなショックであった。日本もとうとう来るところまで来たという実感がひしひしと感じられ、これから先のことを思うと暗澹とした気分になった。(後日談であるが大学卒業後軍隊に入って私が戦地に赴任したのはこの進駐した兵団であった)。 三ヶ月の繰上卒業を前にして、正に昭和十六年十二月八日、徴兵検査を受けて第一乙種合格と決まり、これで軍隊行は確定した。戦地に行けば当然死は覚悟しなければならず、何とか生死を超越できる心境を得たいと思い、在学中湯島の麟祥院(妙心寺派の禅寺)の暁天坐禅会に参じたり、如意団の大接心に加わり、円覚寺に十日間参禅し、何回か老師の相見(公案を貰って禅問答)も受けたが、われわれ凡人には仲々悟ったような心境には遠く元の木阿弥で戻ってきたが、この体験は後日何等かの意味で私の生き様を支えてくれたのかも知れない。 さて十二月末近く慌しく卒業の日を迎えた。どうせ戦争に行くのだからと、深い考えもなく三井鉱山に入社、新年早々三池鉱業所に赴任した。ここでの生活は一ヶ月弱で坑内外の実習に終始したが、入所した独身寮は三井系の各社合同の寮だったので、学友も数名おり、学生生活の延長のような気分で、夜な夜な遊び廻った。学生出身で陸軍に行くものは十七年二月一日入営と決まり、一月末早々に東京に引返してきた。帰途名古屋で途中下車、太田一雄君と名古屋の鳥屋で昼食を共にしたが、これが彼との永久の別れとなった。 十七年二月一日には学生服を着て東部第六部隊(近歩三連隊の補充隊)に初年兵として入隊、三ヶ月間新兵としてしぼられた。二月一日に入営したのは繰上卒業による学生出身者ばかりで、中には学友も数名おりお互いに連帯感もあって、人目を忍んで慰め合うこともできたが、それだけにわれわれに対する風当りも強く、年下の古参兵からつまらないことで苛められることもあった。何とか甲種幹部候補生の試験に合格し、五月には前橋陸軍予備士官学校に入学した。前橋といってもここは人里離れた棒名山中腹の火山灰地、相馬ヶ原で夏暑く冬寒く気候心風土も荒い所だった。ここでは初年兵苛めのようなことはなく、一応士官候補生として扱われたが、訓練と規律は厳しく徹底的に鍛えられた。唯一の救いは同じ学生上りの仲間ばかりで、話の通じる者同志の集りだったことだろうか。(学友の中では故渡部祐一、故小林頼男、岸博太郎、松原富士男等の諸兄もいた)。ここでの生活については長くなるので省略するが、同校を卒業する時一同で作った記念文集のコピーを最近偶然の機会に入手し、これに私が載せた短歌数首が残っているので、末尾に転載することとする。 前橋生活六ヶ月の後東京の原隊に復帰し、見習士官となったが、連隊では学生出身の見習士官がゴロゴロいるので扱いに困ったのだろう。初めのうちは愚にもつかない集合教育の焼直しなどやられたりしたが、十八年に入ると、何人宛か戦地へ送られて行った。私も十八年前半までは原隊に残り、初年兵教官をやったり、警報下の宮城守衛や、兵器工場の衛兵勤務についたりしていたが、八月に入ると在スマトラ島の原隊、近歩三連隊に転属を命じられ、補充兵の一団と行を共にして大阪港から輸送船に乗船した。途中門司港に三日程停泊したが、上陸した軍医に伝言を頼んだところ、亡くなった長谷井輝夫君が税関のランチに乗って本船まで来船、ビールや書籍を差入れて慰問にきてくれたのは嬉しかった。 途中敵潜水艦の攻撃も受けたが、何とか無事に南仏印サイゴンに上陸、ここで約一ケ月駐留した後、船でメコン河デルタ地帯を経てカンボジヤのプノンペンに再上陸、ここから貨物列車に乗せられバンコックに到着した。この輸送途中で罹ったデング熱のため私だけ部隊と別れ、ここの兵帖病院の伝染病棟に約半月入院させられ、あとは単身赴任で陸路シンガポールに到着したが、部隊はペナンの対岸ブキットマタジャムという小さな町にいることが分り、再び半島を北上し部隊と合流した。ここでも約半月駐留の後、機帆船に乗ってスマトラ島に上陸したのは十月の末のことであった。(シンガポールでは偶然の機会に故石原善二郎君、出合資文君に会うことができ、語り合う時間を得たが、石原君とはこれが最後となった)。 高原の避暑地に駐屯していた原隊に着任、配属も決ったが、ここにいたのは二ヶ月足らずで、海岸防備のためスマトラ島の北端アチエ州に間もなく移動した。戦局は日に日に悪化の一路を辿っていたが、この島では時々小規模な空襲や潜水艦の砲撃がある程度で、治安も良く、専ら陣地構築や訓練に明け暮れる日々であった。 与えられた字数も既に超過してしまったので詳しいことは再び省略するが、困難な事態はむしろ終戦と共に始まった。 終戦までの間私の部隊はス島北端のアチエ州東海岸の中部地帯に展開、中、小隊毎に陣内兵舎(ニッパ椰子葺きの屋根、側壁とアンペラ敷き)を建てて分屯していたが、八月十五日頃は師団の機動演習に参加して南下していたところ、突然何の説明もないまま演習中止となり、急遽分屯地に引返したところ、町にはすでに中国人の青天白日旗や現地人のインドネシア独立の紅白旗が翻っている有様、それでも擬装のためか陣地構築続行の命令が出て二、三日は溝を掘ったり椰子の防柵を築いたりを続けさせられた。正式に終戦の発表があったのは十八、九日の頃になってからであった。二十日過ぎになって現地人を主体とした義勇軍は解散、われわれは急遽陣地を撤収し、列車に乗って中部スマトラのゴム園に移動し、ゴム園内の施設や仮小屋に集結した。進駐してきた連合軍は英印軍とオランダ軍であったが、彼等に対しては長年の白人植民地支配に対する反感が強く、これに独立運動の火の手が燃えあがり、治安は急速に悪化して行った。このため進駐軍は上陸地点周辺の限られた地域から一歩も出られないような状況となってきた。そこで残留軍需物資の警備と在留邦人および中立国人の保護という名目で私の属していた一個大隊だけが元のアチエ州に戻って数ヶ所の町に分屯させられることになった。実は現地人に対して手も足も出ない進駐軍の楯代りに配置されたようなものであったが、戻った当初はわれわれに対しては原住民の感情は決して悪くはなく、われわれも何処へでも自由に往き来できたし、時には魚釣をやったり、自転車で部落を走り廻って顔見知りの現地人を訪ねたり、また運動会や野球もやったりという至極のんびりした生活をして、志気阻喪するのを何とか抑えて帰国できる日を待つ積りでいた。所がスカルノがジャワで独立の旗を掲げたのに呼応して、反オランダ、反植民地闘争の火は全土に拡がり、日増しに激化していった。九月の末頃になると目に見えて治安が悪くなり手がつけられないような状況になってきた。当初日本人に対する感情はむしろ良好で、唯一の流通する通貨は日本軍票という情況が続いた程であったが、次第に「独立をわれわれに教えこんだのは日本ではなかったか。それならば戦争が終って不要になった日本軍の武器をわれわれに渡して呉れ。日本軍が渡すのが嫌なら力づくでも奪う」という筋書きで十月に入ると残留邦人や小部隊が人質になったり襲われたりという事態が頻発した。そこでわれわれは極力部隊の引纏め、集約につとめ港町であるロスマウエ(現在のアルンガス田のLNG積出地)に集結することになったが、小部隊の引揚げがなかなか円滑に進まず、これを収容に向う列車やトラックが襲撃され、立往生の末携行兵器を奪われるような事件が相次いで起った。ある時は一個小隊の守備隊が襲われ小隊長以下数名が惨殺されるような悲劇も発生した。このような経緯を経て十一月の末には何とかロスマウエに集結することができたが、同時に原住民によって完全に包囲される態勢となった。わが方の兵力は僅か一個大隊(七百名位)、包囲する土民の数は雲霞のような人海で手に蛮刀、槍、小銃を携え、一晩中篝火を焚き、太鼓を鳴らしコーランを唱えるという不気味な状況が続いたが、兵舎といっても元オランダ兵の警備隊の宿舎と小学校を中心とする海岸べりの平地の住宅地の中で、到底防戦できるような場所ではなかった。食糧も目に見えて底をつき出し、遂には一日二食で水草を入れた粥をすすって過すような有様になってきた。われわれの心情としては独立戦争を闘おうとしている彼等に兵器を与えて、部隊が無傷で脱出できればという気持があったが、一方武器は進駐軍に引渡さねばならず、英蘭軍の命を受けた日本軍司令部からは断乎兵器を守れとの強硬な指令が届くばかりで、何等的確な対策も採られないまま日を過して行った。私達は深いジレンマに陥り、中には単独もしくは小部隊で逃亡するものもでてきたが、戦争が終った以上、一兵でも損ずることなく兵員を無事故国に帰還させることが指揮官としての最大の任務ではないか、その為には武器を彼等に引渡した責任は将校全員で取って最後には自決しても仕方がないという結論に三日二晩を掛けた会議の末ようやく達した。これに基いて十二月に入って早々、ついに自ら武装解除を行い、僅かに無電機一機を残した全兵器を原住民側に引渡すことになった。その間元義勇軍に出仕の将校を中心に現地側と折衝を続け、何とか部隊の安全を保つことはできた。(皮肉にも三八式歩兵銃を持った裸足の現地人衛兵が歩哨に立って警戒を続けたりもした)。一方、中央部でもいろいろ工作が続けられ、年末ギリギリの某夜午前○時に船舶工兵の大発、小発(上陸用舟艇)五十隻を一斉に達着させ全員収容させるということが決定された。そこで撤収乗船する部隊を妨害なく安全に離陸させるための工作が、現地側実力者との間で極秘裏に進められた。撤収作戦は計画どおり進められ、かくて三年近く駐留した市街や山々のシルエットを万感の想いをいだきながら、舟艇は岸辺を離れ、丸一日余りの航海の末、主力の集結地に近い地点に上陸したのであった。 武装解除の責任を問われた大、中隊長は英軍の手前軍法会議に掛けられ、シンガポールに移されたが、小隊長であった私達は部隊を取纏め、自決の機会も免れて、更に一年近くスマトラに残留後、二十一年十二月漸く内地に帰還することができた。 復員に当っても満足な船がなく、パレンバン、シンガポールに数日宛滞在し、やっと乗船したのは二千トン位の海軍の特務艦であった。途中猛烈な暴風雨に見舞われ、やっと上陸したのが広島県の大竹であった。上陸と同時にニュージーランド兵によるDDTの洗礼を受けて一驚した後、看護婦さんから煙草を二、三本貰い、元海兵団の宿舎に入った。ここで三年半振りに留ったリンゴが歯にしみたこと、現地では薪で走る軽便鉄道に馴れてきた身には近くを走る山陽線の機関車が地響きのするような汽笛を鳴らしてズッシリと過ぎて行くのが印象的だった。 大竹に二泊ほどして復員、屋根のない広島駅で乗りつぎ、夜行で大阪に到着、翌朝再び窓から人の乗降りするボロ汽車の一般列車に乗り換えて肝を抜かし、品川駅に着いたのは夜の十二時頃だった。その晩は行く当てもないまま、駅舎の中に天幕を拡げて寝仕度をしていたところ、腕章をつけた学生が二、三人来て、近くにある引揚者宿泊所(といっても焼け残った古い邸宅だった)に収容してくれた。 翌日駅前の交番で調べてもらったところ、幸いすぐ近くの高輪南町に妹一家の建てた十五坪住宅があり、母もそこに同居していたので一まずここに落着いた。昼間見る東京は焼け跡だらけで、昔遠いと思っていたビルが直ぐ近くに見えるのでまたまた驚いた。焼け残った土蔵や防空壕を利用してバラックを建てて住んでいる人も近くにあり、敗戦の惨めさを改めて膚で実感した。「世の中がすっかり変ってしまったのだから、何も慌しく就職した職場に戻ることはない。よく自分の頭で考えてゼロからスタートすべき」だと忠告してくれる友人もいたが、私は二、三日して初めに就職した三井鉱山に出頭して帰還の挨拶をした。.人事課長は直ぐに三池鉱業所に再赴任しろという。私は余り深くも考えず、一週間ほどしてリュックサックを背負い、超満員の汽車に乗り、京都まで立ち通しで三十余時間かけて大牟田の駅に降り立った。 この町も一面の焼野原で、会社の事務所も鶏小屋のようなバラックが数棟並んで建っているような状況だったが、石炭増産といわゆる傾斜生産政策で人々の生活は貧しいながら活気に溢れていた。ここでの生活は戦後処理やら労働問題やら難問山積みであったが、夢中でよく働きもし、またよく遊びもした。また当時の三井鉱山には人材も多く、得難い先輩、同僚、部下に恵まれ、終生の交友関係を結ぶにいたった人も多く、倖せな日々を送ることができたと思う。与えられた紙数もすでに倍近くも超過し、これから先の生活は諸兄と共にする局面を多く、省略して別の機会に待つこととするが、流動して已まない世界の中で、日本人全体も、そして私自身もよくここまで歩いてきたものとしみじみ思う。そしてこれから先の余生がどう展開して行くのか推測もつかないが、どういう人生になっても、何よりも大切なのは交友関係であり、いつまでもこれを大事にして生きて行きたいと思う。 (付 録) 先日偶然の機会に、前橋時代の校友に会った所、彼が同校の卒業記念にわれわれの区隊で作った小文集を珍しくも保存しており、これをワープロで打直したコピーを呉れた。この中に私が載せた短歌が数首出ており、当時の生活なり心情を偲ぶよすがとなるとも思うので、稚拙なものだが転載する。 (感想に代えて) 我がはだにひたとつきたる夏ジュバン少しく胸をこごめて見たる |