4組  毛塚由太郎

 

 東京商大を卒業して、早くも五十年の歳月が流れようとしている。第二次世界大戦での敗退と、その後の苦難に満ちた時代から見ると、よくも五十年でここまで復興・発展できたものと感無量の思いである。

 もう一年以上も前になるが、毎月第一水曜日に集まる或るパーティーの席上、畏友M君が、顔を合せるや否や、グラス片手に開口一番、「毛塚君、長生きして良かったネ」と話しかけて来たあの晩のことを思い出す。最初、彼が何を言おうとしているのか分らず、一瞬、戸惑ったが、彼の言わんとするところが「共産主義の結論」を見届けることができたことへの喜びであり、満足であることが分り、大いに同感し、納得した。我々は、学生時代から、マルクス・レーニン主義を標榜する社会主義国家の行方に注目し、その動向を見守って来ただけに、こんなにも早く、その結論が見られるとは思ってもいなかった。人間の自由と自主性を尊重する制度の良さを改めて痛感している。

 確か、予科の人文地理の時間であったと思う。石田竜次郎教授の講義で、ウェゲナーの「大陸移動説」を知り、未だに記憶に残っている。大西洋を挾んだ両側の大陸(南米とアフリカ)の海岸線の出入りが一致するので、この両大陸は、大昔一つの大陸だったに違いない。それが分裂して相互に遠ざかり、その間に海水が入って大西洋となったのではないか。という当時(二十世紀初頭)としては、破天荒な学説であった。「動かざること大地の如し」の讐え通り、大陸が移動するなど考えも及ばなかったが、奇抜なアイデアが気になり、彼の名を忘れることができなかった。ところが、一九六〇年代になると、この両大陸に存在する地質・地磁気・動植物の化石等が共通していることが検証され、ついに大陸移動の事実が実証されるに至ったのである。地球内部からのマントル対流に乗って、大陸(プレート)が移動しているという「プレートテクトニクス」の理論が成立した。そして、移動の原動力となる「大西洋中央海嶺」から噴出するマグマ(溶岩流)の様子を、茶の間のテレビでも見ることができるようになった。

 もう一つの例を挙げるなら、ダーウィンの進化論を裏付ける新しい分子遺伝学の発展である。地球上のあらゆる生物が、単純なウィルスから複雑な人間に至るまで、すべて共通の遺伝暗号を使用している事実を突き止めたのである。

 このように、五十年の歳月は、我々に思いもかけない貴重な体験を味わわせてくれたわけである。世界情勢の変動、科学技術の進歩、どれを取っても興味津々たるものがある。

 話は変るが、クラシック音楽に対する興味と関心も、この五十年の間に変って来た。十年前の「波濤」で、初めてモーツアルトの音楽、特に「ト短調の曲」に魅せられていることに触れた。その後四年間かけて、彼の殆ど全作品を聴くことができた。そのうえ、モーツアルトの音楽を熱愛する多数の仲間にも巡り会えた。我々の学生時代は、べートーヴェンが中心で、「モーツアルトは女・子供の音楽」との印象が強く、軽快さや、愛らしいロココの響きといった側面のみが強調され、彼の音楽の深さに触れた人間は極めて少数に過ぎなかった。小林秀雄はその一人で、彼の有名な「モオツアルト」が世に出たのが、戦後間もない昭和二十一年である。その中で、ト短調の弦楽五重奏を取り上げ、「モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。云々」は、余りにも有名である。彼こそ戦後、モーツアルトの音楽の真髄に眼を開いた先達である。日本のモーツアルト研究の歴史は甚だ浅い。今から三十五年前の生誕二百年の前後に学窓を出た国立音大の海老沢敏学長が、我が国におけるモーツアルト研究の第一人者と言われるのを見ても自ずから明らかである。

 モーツアルトの音楽には、いろいろの聴き方がある。「聴く者が悲しいと思えば悲しく聞こえ、明るいと思えば明るく聞こえる。それは受け取る者の感覚と時代のセンスにより、いかようにでもなる」(O・E・ドイッチュ)ということである。明るく、天真欄漫で、人懐こい彼の性格を反映して、明快な曲が多く、その心地良い響きは、我々の心を慰め、生きる喜びを与えてくれる貴重な音楽である。併し、彼がウィーンで過ごした十年の後半、一七八五年以降の作品群の中にある、激情迸るあのデモーニッシュな曲(二短調・ハ短調のピアノ・コンチェルトほか)ほど胸を締めつけられるものはほかにない。皮肉なことに、その頃からウィーンの聴衆は、彼から次第に離れて行き、予約演奏会の申し込みも激減してしまうのである。当時のウィーンの人々の好みに合わなくなったのか、或いは、彼等の理解の範囲を越える世界にモーツアルトが踏み込んでしまったのか。いずれにしても、そのことが、彼の生活を窮迫させる原因となったことは間違いない。ただ、何故彼の音楽が変って行ったのか、必ずしも明らかではない。従って、推察するほかないが、偶々彼がフリーメイソン(特定の権力は所属しない自由なメイソンー石大工がその原義)に入会したのがその頃(一七八四年暮)で、しかも熱心で忠実な会員となったのである。彼の最後のオペラ「魔笛」は、まさにフリーメイソンの讃歌であり、モーツアルトの心の中の理想の世界を表現している。彼が内省的になって来たもう一つの事実として、常に「死」を見詰め続けて来たことにも関係がありそうである。ザルツブルクにいた父が、死の床についている時(一七八七年)に、父宛に送った手紙に、「死は我々の一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています。云々」と書かれている。これもフリーメイソンの思想に基づくとも言われている。彼の音楽は、短調の作品に限らず、長調でも、フット淋しさがよぎり思わず涙ぐんでしまうことがある、と或るヴァイオリニストが語っていたことがある。モーツアルトの音楽には、我々の心を感動させる何物かがある。特に我々の年齢になって聴くのに最も相応しい音楽ではなかろうか。

 没後二百年を迎え、世界中で凄まじいモーツアルト・ブームである。予想外の出来事ではあるが、モーツアルトが聴かれる機会の多いことは、喜ばしい限りである。また、モーツアルトの研究も今後益々盛んになると思う。謎の多い死因についても、つい昨年英国の医師が新しい所見を発表している。だが、モーツアルトの死因は、今となっては、その遺骨と共に永遠の謎に包まれたままであろう。それのみならず、彼が息を引き取った翌十二月六日、モーツアルトと同じフリーメイソンの会員、ホーフデーメルは、美貌の妻に重傷を負わせ、自らの命を断っている。夫人はモーツアルトの弟子で、師弟は親密な関係にあったという。

 父レオポルトの深慮で、モーツアルトの手紙は、何百通も残されている。膨大な楽譜と共に、モーツアルト研究の第一次資料は極めて豊富である。さらに、没後二百年を記念して、断片をも含めた全作品が、CD(一七八枚)に収められることになった。いろいろな曲を聴きながら、アレコレ想いの翼を広げる楽しみも尽きない。物理学者のアインシュタインは、「死とはモーツアルトを聴けなくなることだ」と言ったそうだが、この世にある限り、天上の音楽に耳を傾けたいものである。