1組  木島 利夫

 

 昨年は惜しまれる人が三人もなくなった。
 といっても、このうちの二人は作家であって、別に面識があったわけではなく、私がその作品の愛読者だったというだけの関係である。他の一人は、度々買物に行って話しこんだ画材屋の親父さんであって、この人とのつきあいは長かった。

 三人に共通しているのは、何れも独特の個性、優れた技(ワザ)、それに良い意味での職人気質をもっていることであった。恐らくこういうタイプの人達はもう今後出ないだろうと思うと、残念でならない。

 月光荘主人、橋本兵蔵がなくなったのは、たしか昨年の春先であった。私が月光荘という画材屋を知ったのは昭和二十年代の後半であったが、当時は銀座の泰明小学校の横の方にあったと思う。この月光荘という名前は、大正六年創業の時に、与謝野鉄幹、晶子夫妻につけてもらったという。当時から著名な画かきは勿論、素人画かきの政治家や財界人が出入していたユニークな店であった。この店の画の道具は、絵具からスケッチ箱、キャンバスに至るまで、すべて、この親父さんの独創による手作りであった。品物も掘立小屋のような店に、無雑作につみ上げてあったが、そのどれをとっても、他の店には決してない、使い勝手のよい品ばかりであった。ただ困ったことがひとつあった。店に入って買物をすまして出ようとすると必ず、呼びとめられ、親父さんの御話をひとしきり聞かされ、なかなか帰してもらえない。苦心談あり、絵の話あり、自慢話あり、まあそれなりに面白かった。こんな風変りな店も、昨年、気の毒な詐欺事件にひっかかって店仕舞いし、今は資生堂の裏手のあたりで、細々と営業している。息子が、さる高名のピアニストの母親なる悪い人とかかわり、多額の借財をかかえてしまったからである。その事件の後、間もなく親父さんが不運のうちに世を去った。あのどこか稚拙さの残っている、それでいて気配りのきいた道具類には、もうお目にかかれない。本当に残念だ。

 池波正太郎のなくなったのは、五月の始めであった。この人の小説の面白さについて、ここで私がくどくど書く必要はないと思う。ある人が彼の小説は寝る前に読んではいけない、読めば全篇読み切るまで、つまり明け方まで起きていることになるからといった。藤枝梅安、長谷川平蔵、秋山小兵衛等々の魅力あるキャラクターを創り出した。また、彼の絵もなかなかいい。パリの居酒屋の親父で親友のセトル・ジャンの肖像など実にいい。何よりも自分の体験からきた下町の人情、生活情緒の描写は見事で実感がこもっている。生い立ちは、両親の離婚などで不幸のうちに育って、少年の頃から株屋さんの下働きに出されたりした。いつか随筆の中で書いていた、縁が切れた父親が会いに来た時の小さい頃の思い出は、読む者をホロリとさせる。秋葉原界隈の食堂で、生れて始めて食べさせて貰ったハムエッグの旨さに驚く。父親と一緒に夕暮れの街を歩くが、その時、父親がうたった祇園小唄とさびしげな横顔が、今でも忘れられないと、むすんでいる。

 永井龍男が亡くなったのは十月の中頃であった。文化勲章受賞作家のこの人のことを、今更褒めてもはじまらないが、何でもない題材から珠玉の短篇を生み出す手腕では、この人の右に出る作家は他にそう沢山はいない。文の結構、表現の隅々まで実に神経が行きとどいている。短篇への傾倒は二十代に読んだ北欧の作家、キイランドの作品らしい。「一生のうちにこんな短篇を五つ六つ残すことが出来たらどんなにしあわせだろう」と思う。

 永井氏の作品や随筆は読み終った後で、あるさわやかさが残る。しかし、そこから人生が始まると思わせるようなドキリとした作品も少なくない。この人も生い立ちは不幸だった。高等小学校卒業と同時に取引所の仲買店に奉公に出され、十五才の時に父に死別する。そうした体験から下町や職人を描いた作品には庶民生活の哀歓がにじんでいる。

 面白いことに、というべきか、ここに上げた三人は皆、学歴は小学校しか出ていない。作家の場合は、学歴がないということは、大変なハンディだったと思う。しかし学歴があったからといって、ああした味わいの深い作品が書けたであろうか、答は明らかに、否であろう。

 私の師事した故大久保泰先生が、かつて、こんなことを言っていた。「近頃の独立系の画かきの多くは、腕をみがくことをおろそかにして、頭で画をかいている。困ったことだ。ピカソは変な画をかいているが、あのデッサン力は比類がない。ゴヤにしても、レンブラントにしても西欧の巨匠といわれる人はケタ外れにうまい。芸術というものは錬磨された技(ワザ)の彼方にあるものだ」と。池波、永井両氏ともに作家としてのうまさは並みではなかった。しかし単にうまい作家と、だけではかたづけられない何かをもっていたことも確かである。