6組故小坂謙四郎長男 小坂 文人 |
この十年ほど食文化についての本をよく読むようになった。そこで印象に残る幾つかの本を紹介してみようと思う。 飽食時代にふさわしく毎年沢山の食に関する本が出版されているが、最近はやや粗製乱造の感がする。平成二年は何冊か良い本が出版されたと思う。鶴見良行の『ナマコの眼』、石毛直道・ケネス・ラドルの『魚醤とナレズシの研究ーーモンスーン・アジアの食事文化』といったどっしりした研究が出版された。前著はナマコという食品を媒介にした東南アジア島嶼に生きる人々の歴史、文化をよく紹介している。後著は日本、朝鮮、中国、ベトナム、タイなど広く東南アジアに分布している魚醤を中心にしてアジアの食事文化の特性を分析した大著である。マンガと軽薄短小的本が主流となった感の強い今日、こうした本格派の本がまだ出版可能なことは喜ばしいことである。 食文化とは広く膨大な領域をカバーしている。よって本も多岐にわたる。料理書のような実践を旨とする本から、レストランガイド、民俗学、文化人類学の分野、歴史考証の世界、などなどから、文学者、詩人、素人まで参加したエッセイまで際限のない広がりを示す。ここではなるべく地味であるがファンダメンタルな、グルメ人間として最低読んでおきたい本をあげてみようと思う。 私達が毎日食べている食物はほぼその過半を栽培植物、馴化された動物で構成されている。野生のものといえば魚類とわずかばかりの山菜キノコ類だけである。植物について更に云えば、約二〇万種以上存在している被子植物の中で人間が食料として利用しているのはわずか三千種ほどだ。そのうち約二〇〇種が栽培化され、その中でイネ科植物を中心とした一〇種前後が人類の食料の中核となっている。驚くべきことはほんのわずかな栽培植物が最近増々単一の品種に収斂していっていることだ。地方品種といわれる在来種がアグリビジネスの支配下で消滅していっている。米国でおこったハイブリッド・コーンの大病害や、古くは十九世紀半ばにアイルランドで起ったジャガイモ飢饉を想起するまでもなく、私達は危険な地点に立っているように思える。政府は遺伝子資源の保存・収集に力を入れようとしているが、未だ国民レベルでその意義についての認識が形成されているとは思われない。「地球にやさしい」ライフスタイルとして植物資源の保存を進めることは、何よりグルマンディーズの実践課題といえる。 さてこうした動植物の栽培化、あるいは農耕の起源という問題ついて論じている本を紹介すると、古くは、ドカンドルの著や、バビロフのものがあるが身近なものは中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)、『栽培植物の世界』(中央公論)である。前著は有名な照葉樹林文化の枠組を、その他の世界の農耕文化すなわち根栽農耕文化・サバンナ農耕文化・地中海農耕文化などと比較しながら提唱したもので私達日本人の食文化のルーツについてはっきりしたイメージを与えてくれるものだ。後著はコメとかムギ、マメ、油料作物、果物といった主要食物個別の解説である。『料理の起源』(NHKブックス)も世界でも類のないユニークな本である。 鵜飼保雄・藤巻宏の『植物改良の原理(上・下)』『改造される植物』『世界を変えた作物』(培風館)三部作は作物改良のわかりやすい入門書である。「育種の重要性を知る人は多いが、実際にどのような方法でおこなわれているかを知っている人は少ない」と著者は述べている。アスパラガスを口に入れる時、これらが葯培養とコルヒチンで作られた雄株なのかと思って食べて欲しいものだ。サラダの背後に巧妙に発見された植物改造の技術が潜んでいる。 コメは私達日本人だけでなく地球上の多数の人々にとって重要なカロリー源である。コメ或は稲作の起源については多くの本がある。稲作にかかわる諸々の問題は昭和二十年代に発行された柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎らの『稲の日本史(上・下)』(筑摩叢書)に詳しい。柳田のイネに対する愛情と参加者の学際的な営みの情熱が伝わってくる本である。 栽培化というより初期農耕の姿についてはよくわからないことが多い。特に我国の場合稲作が中国より伝わったため、受容の状態がどのようなものであったのか様々に議論されている。そのひとつが縄文農耕論である。佐々木高明の『稲作以前』『照葉樹林文化の道』(NHKブックス)、『縄文文化と日本人』(小学館)は、縄文後晩期にいわば「半栽培」された植物が存在していたとする立場からその時代を論じている。さらに『畑作文化の誕生』(NHK)では稲以外の作物の系譜について様々な分野の研究を集めている。狩猟採集の生業から農耕までのプロセスをどうとらえるか。特に縄文時代という世界的にみても珍しい時代を分析することで農耕発生の秘密を解明しようとしている。縄文時代の生業については佐々木の本がよくまとまっているが、より詳しくは次の本が便利である。小山修三『縄文時代』(中公新書)、渡辺誠『縄文時代の知識』(東京美術)、『縄文文化の研究』(雄山閣)。又西田正規の『定住革命』(新曜社)は縄文時代の定住を基にして、まず定住し、その結果農耕が発生したという仮説を提出している。松井健の『セミ・ドメスティケーションーー農耕と遊牧の起源再考』(海鳴社)は「半栽培」という野生から栽培への移行段階の分析を行なった刺激的な本である。人間と動植物のかかわり合いから栽培植物が選択され、家畜が生まれてきたのだが、そのかかわり合いの内容がどうであったのか。穀類は播種が栽培化に決定的役割を果したとされるが、突然人間が播種を発見したのではないだろう。驚くべきことは、すでに一万年程以前には今日私達が依存している食料の過半が栽培化されており、以後主要な食料となるものは栽培化させなかったことである。二十一世紀の人口と食料のバランスは大きく崩れ飢餓が現実の問題とされている今、穀類の生産性向上だけではなく、新しい栽培種の開発も不可避の課題と思われる。その為にも、長い時間の中でおこった栽培化のより詳細な分析が必要となろう。そして言うまでもないことだが植物の遺伝子資源を一刻も早く保護しなければならない。 最近は仕事で海外に出かけるようになった。そんな折、忙しい中本屋で食に関する本を漁るのが楽しみとなっている。最近読んだ海外の本を紹介しよう。 M. VISSER "MUCH DEPENDS ON DINNER" (MACMIL) は数年前にボストンで見つけたもの。何年かして丸善でペンギン本で出版されていた。著者は文化人類学者で女性である。トウモロコシ・塩・バター・ニワトリ・米・レタス・オリーブ油・レモン・アイスクリームの九食品をとりあげ、起源、神話、禁忌、食品としての問題など多面的に論じている。著者はこの九食品を次のようなメニューに見立てている。 オードブル/塩とバター付トウモロコシ このディナーでは不十分で、パンやチーズ、ワインだビールだ、コーヒーだ、砂糖だ、香辛料だと云われるだろうが、かんべんして欲しいと著者は述べている。この本が我国で翻訳されることと、続編を出版してくれることを心から望んでいる。 R. Schweid "HOT PEPPERS" (TEN SPEED PRESS) はタバスコソースが生まれたアメリカ南部のルイジアナ州イベリアについて、トゥガラシ好きな著者がルポをしたもの。昨年ロンドンで見つけた本だが、今年の春サンフランシスコの本屋で何冊も並んでいた。かねがねトウガラシについて調べてみたかったが適当な本が見当らなかった。そんな折この本を見つけ読みだして感激してしまった。「ナマコの眼」と同様トウガラシを通してアメリカ南部の現状、さらに現代の工業社会と農村の問題をよく描いている。なおトウガラシの概括を知るには、D. De WITT 他の "THE WHOLE CHILE PEPPER BOOK" (LITTLE, BROWN) が面白い。オール・アバウト・ティーほどの博物学的な本ではないが手軽に世界のトウガラシについて知ることができる。 最後に栽培化と農業の起源についての本をあげる。 D. RINDOS "THE ORIGINS of AGRICULTURE" (A CAPEMIC PRESS)。副題に「進化論的展望」とあるように、栽培化は人間と植物の共進化現象であるとした上で、詳細な議論を展開している。後半に数学を用いたモデルがでてくるので素人には頭の痛くなる本だが、教えられることの多い本である。鳥が植物の果実をついばみ結果として種子を散布するという共生の関係が、人間と栽培植物との間にも存在していることから開かれる視点は、今日の私達にとって重要な視点となるだろう。食文化といえば「何をどのようにして食べているのか」という切口から社会について考えてみることにつながっている。今日の私達はあり余る食物に囲まれ世界中の珍味を口に入れている。しかしその背後に農産物の自由化問題を筆頭に、安全性の問題、自給率の問題、南北問題、食料問題、魚資源の問題など様々な深刻な課題をかかえている。農業とはもう日本には不必要な生業なのだろうかという問題は、かなり重要な日本の問題である。毎日毎日口にする様々な食物を時にはちょっと取りあげて調べてみたり、考えてみたりすることが必要ではないだろうか。とはいえ、おいしいものを適度に口にする、そして楽しい話題で酒でもくみ交すという食べる悦びは一生味わっていきたいものである。
小坂文人君は、私と同クラスのボート仲間であった故小坂謙四郎君の長男である。会員名簿によると、昭和23年2月生れとあるから、43才の働き盛りの人。母上に代わって、記念文集原稿が私のところへ送られて来た。内容が父上のことに触れられてないので、私が若干紹介文を書き加えることにした。 謙四郎君が、阿佐ヶ谷の自宅に手を加え、趣味を生かしての碁会所を開いたので、流芳会員でお祝いの碁会を開催したとき、まだ小さな幼児だった文人君が、昭和51年の第2回の合同慰霊祭のときには、立派に成人され、奥さんと赤ちゃんを伴って浅草寺に顔をみせてくれた。彼の幼いころの顔と謙四郎君の面影が重なって、懐かしい思いをした。 送られてきた原稿には、私宛の手紙と共に、彼の名刺が同封されていた。「日経就職ガイド」等、日経関係の諸メディアを取り扱っている「株式会社ディスコ」の「営業第一部長」の肩書きがあった。 私は、仕事の関係で、就職ガイドブック業界については、多少の知識があり、担当者の業務の苛烈さを知っているので、昭和13年に、予科3年であった謙四郎君と私の他の3名は2年生という編成で対校クルーとして出漕したいと申し出、先輩から「一橋のボートの名を汚すなよ」という危惧の言葉を跳ね返し、並みいる強豪大学クルー全てを蹴散らし、その年エイト・フォア、インカレ・全日本完全制覇という偉業を成し遂げたときの謙四郎主将の温厚なのに無類の頑張り屋の顔を想起した。 文人君本人も、「早く引退して、山にでも住もうかと思っているのですが、どうも夢だけで終りそうです」と言っているように、これからも益々創造的な仕事(特に、優秀な外国人を日本企業に採り人れ、かつ上手に使いこなすことに関連しての仕事)を産み出してくれるものと、大いに期待している次第である。 |