6組 熊倉 実 |
ゴルフで「パープレイ」といえば、大変な出来事である。我々の年齢も「パープレイ」前後となった。何時の間にか年をとって、遅かれ早かれ、終着駅に近づいていることは確かである。 今年、卒業五十周年を迎え、記念文集を作ることになった。何を書こうか。今更大言壮語も出来ないし、あまり弱気になってもいけない。そこで、最近四〜五年の出来事と、終着駅までの路線をご披露して、その責を果したい。 東京の土地は、四〜五年前の昭和六十一年頃、異常に高騰した。二十数年前に買った我家の土地も、十倍〜十五倍にはね上がった。社会的には大問題になったが、個人にとっては悪い話ではない。一番先に気になったのは、凡人の悲しさ、相続税のことである。銀行などの説明会に出没して、色々話を聞いた。その結果、一次相続は殆ど問題がないこと。但し、二次相続を考えて、一次相続を処理することが肝要、との知恵を授けられた。まずは一安心である。しかし、よくよく考えて見ると、この棚ぼた式含み利益は、偶発的であり、自分の力で獲得したものではない。これを自分一人で独占するのは、身勝手過ぎるのではないか、と思うようになった。何とか少しでも社会に還元し、自分達もそれによって生活出来る方法は無いものか、と思案をめぐらせた。 具体的には、現在の住家を売り払って、地方に土地を買い、ゴルフ練習場でも作り、外周は野外騎乗を楽しむ。小さいながらレジャーランドのようなもので、社会奉仕兼終着駅までの路線が出来ないものかと考えた。 家族とも相談した。我家には家内と二人きり。息子二人は、それぞれ結婚して別世帯。都合六名である。(遅まきながら両方に孫が出来て、現在は八名)。 移住構想には、全員賛成であった。具体案がなくては検討しようがない。 物事は、坦々とは行かないものである。昭和六十三年になって、我家に異変が突発する。 幸いに手術後経過は良好で、四十六日目に退院出来たが、その間、四十五日病院通いをした。ご飯のたき方、味噌汁の作り方、洗濯機の使い方を初めて知った。今まで、家のことは、ほっぽりぱなし。罪の一端を補ったことになる。 胃潰瘍の手術は、何といっても身体の中心、食物の貯蔵タンクであるから、順調に行っても、二〜三年の養生が必要である。やっと通常の生活が出来るようになったのは、昨平成二年頃からであった。とうとう、御前山展開は、断念した。 一年もたつと、又々社会奉仕が首を持ち上げて来る。私は、四十周年記念文集に書いたように、碁が大好きである。最近は病気が移ったのか、家内も囲碁教室に通いだした。彼女の腕前は、十二級で、まだまだ初心の域を脱しない。が少し、碁が分って来たらしい。面白くて仕方がないようである。碁のテレビは必ず見るし、新聞碁は毎日切抜き、NHKの囲碁講座、レッツ碁は毎月取りよせ、単行本はやたらに買って来る。正に碁キチである。碁キチは、男ばかりと思ったら、女性にもあることを発見した。彼女は無駄な努力を、人の二〜三倍やっていると思うが、腕前の進行は、鈍行列車のようである。 嫁さんが、それぞれ妊娠した、との情報が入った。嫁は、二人共スポーツ好きであるが、これもままならないと思い、初心者用の碁の本を送ってやった。長男の嫁は、十三路盤ではあるが、たまに息子に勝つことがあるらしい。そうすると、彼女曰く、旦那様に勝ったから、次は打倒お父さんとか、生意気なことをいっている。 こんな雰囲気から、囲碁教室でも開こうか、との話になった。碁キチの家内は、勿論賛成である。息子どもは、元気なうちに、やりたいことは何でもやった方がいいよ、という。 こんなことを友人にも話をした。面白いな、期待してるよ、との感想も返って来た。十二月クラブの囲碁同好会は、杉浦君が幹事で、十名前後が、毎月第二水曜日と最後の土曜日に、如水会館でパチパチやっている。碁友の島田君は、この二〜三年クラシックな木彫に熱を入れている。彼に、何かほしいと頼んだら、よし、と心よく引受けてくれた。私の考えを聞いて、彼は、碁所にふさわしい彫物を考え出してくれた。 この年齢になって、いささか突拍子かも知れないが、この「クラブ橘中楽」を、親戚に、友人に、近隣の方々に、大いに活用してもらいたいと念願している。 |