1組 倉垣 修 |
ことの初まりは一九八五年の夏になる。日曜日、湘南カントリーでプレーして昼食にカキフライを食し、帰宅入浴し身体を拭いて廊下を歩いて居室へ行こうとして、急に襲ってきた腹部の激痛でひっくり返った。殆ど失神せん程の痛みで嘔吐と腸のねじれる苦痛で這って居間へ行った。日曜日で医者は休みなので、家人が救急車の電話を廻しかけたが、その時、少し息が出来る程に痛みも治って来たので、その日は辛抱し翌日近所の医者へ行った。七十五才位の老医師の診断は中毒であった。完全な誤診であった。カキフライを一緒に食した三人の仲間は中毒していなかった。油で揚げたものに、どうして菌が残っているのか。この時の誤診がなければ、手術をせずにすんだかも知れない。くれぐれも目、耳の悪くなった老人には診て貰わぬ事である。それから一九八六年の入院迄に二回程、胃の痛みがあったが一分程で消えてしまうので特別気にもしなかった。 一九八六年の三月、いわき如水会に出席のための列車の中で第二回目の発作に見舞われた。列車が土浦の辺まで来た時、急に胃の中に鉄の丸い塊が出来たように、胃の辺がカチンカチンになり異様な感覚を生じ他人の腹の如き思いがした。その夜は食事はとれず、翌朝も胃の固さはとれずじまいであった。朝の列車で帰京したが村井君と偶然一緒であった。帰京するや直ぐ近所の医者に駆け込んで、胃の中を徹底的に調べて欲しいとお願いした。幸いにも若い令息の先生であった。翌日バリウムを飲み、レントゲン透視をした処「これは胃液の流れが異状になっており、この症状は私の手に負えない。何処か適当な大病院へ行って欲しい」と云う診断であった。 昭和五十九年の夏、泰地君が他界した時、友人代表で弔文を読んだ縁で令息の泰地秀信氏が慶応大学病院の先生をされている事を知り、泰地君の奥さんと秀信さんにお願いし、慶応大学で胃の中を調べて頂くことになった。 三月八日、寒い日、胃カメラ、バリウムのレントゲン透視を受けた。バリウム透視も、鼻腔より胃に管を入れ圧縮空気で食道と胃を膨張させると云う本格的なもので、三十枚位撮影された。三月十八日に、熊井先生より最終診断を受けるため女房同道で出頭する。随分と待たされた結果は「直径六糎大の胃潰瘍を生じており、生体の細胞顕微鏡検査の結果は癌細胞の疑いあるもの多く、即時入院手術を要する」との事であった。 それ迄自分の健康に自信を持ち、病気になるのは当人の日頃の心得が悪い位に考えていた小生には正に青天の霹靂であった。特に癌の疑いあり、いや殆ど癌であるとの診断は、足がよろけるような不安と心もとない弱気に襲われた。これは自分が今迄得たことのない感覚であった。自我が崩れてゆくが自分の力ではどうしようもない。只、受け入れるより仕方がない。なんと云う事であろうか、死と云うものに心をつかまれた絶望を実体験したと云う事が出来よう。理性、学問、力、本能もすべて無力であり、ただ毎日の時間が薄く透明になった思いであった。早速熊井先生は緊急入院の手続をとって下さったが入院出来たのは四月一日であった。三月十八日の最終診断より四月一日の入院迄の十三日間の心の苦しさつらさは今考えるとよく辛抱したものである。ある時はオロオロと友人に電話をしたりしたが、「そうかね、御大事に」の軽い返事が多かったのも止むを得ない。 この苦痛を少し助けて呉れたものは、偶然に、娘が永平寺へ旅行に行き買って来た「修証義」であった。毎日、声を出して読んだ。「知らず露命いかなる道の草にか落ちん。身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し。無常忽に到るときは、国王大臣親戚従僕妻子珍宝たすくるなし。唯独り黄泉に赴くのみなり。己に随ひ行くは只是善悪のみなり。大凡因果の道理歴然として私なし。造悪の者は堕ち、修善の者は昇る。毫厘もたがはざるなり」。死につき従うは善悪のみと云う言葉が胸に焼きつき、入院した以上は全病棟一の模範患者となり死んで行こうと決心した。 四月一日、桜の七分咲きの中を助看護婦さんに案内されて、六号棟4号室に入った。六人部屋であった。六号棟には大凡そ五十人の肝、胃、乳、動脈瘤等の循環器系統手術を受ける患者がいた。夕方病院内の公衆電話で「こんな身体になってしまって、どうしようもない」と家族に告げながら泣きくずれている中年の婦人。エレベータ前の採光の悪い長椅子に黙然と首を垂れて、何時間も肉親の手術の結果を待っている家族の人影。まことに、人に病気の与える苦悩は一番悲しく苦しくどうしようもないものである。そして入院している間に病院の合理的でない緩やかな時間の流れにも少し馴れてきた。実業社会の時間の如くテキパキ進むより、ゆっくり間違いなく進む方が心の準備も出来て検査の苦しさや不安が減少する思いがした。二日間隔で色々の検査があったが、一番いやなものは血管造影検査であった。手術室が寒いので、二回、しびんを当てて貰って小便を垂れ流した。三時間もかかり股の付根の太い動脈よりカテーテルを胸の辺り迄入れて、造影剤を注入しレントゲンで撮影するのであるが、全裸で長時間の上に造影剤を注入するポンプの音が全くいやな音であった。すむと動脈切開してあるため、六時間は絶対安静で寝返り一つ出来ず時計の動きをみているより外ない。巡回の岡先生にこの検査の必要性を質問せる処、「患者さんは皆個人差が甚だしく、胃に連結すべき血管が肝臓へ行っていたり、標準以外の血管配列が十人の中二人はいるので手術の時の切断を間違えぬためです」と云う返事があった。 もう一つ、厳正な検査に肺活量測定があった。目の前に下っている薄紙を口で吹き飛ばすのであるがこれに二時間を要した。私は、息を吐くとき胸の上部を主にしぼって吐くらしい。その結果モニターの力ーブがなだらかに出ない。富士山の裾野の様になるとよいのだが一直線に下降してしまう。何故かと聞くと、麻酔が肺麻酔であり、手術の麻酔の量と時間は、この富士山の裾野の面積により計算するので裾野の下が分る程二〇分単位で出来ると云うことであった。すべての検査は手術を中心に行われていて、病気を発見するためのものは少ないのを知った。 結局、手術以前の十四日間は検査漬であり、毎日ガラスの破片の散っている長い廊下を裸足で歩いている様で少し血を出して、チクチクと痛い目にあう。食前、食後の採血、注射があり、尿は便所へ出さず指定の容器に入れる。食事は摂取量を必ず所定の紙に記入し提出する。消灯九時、起床六時三十分、朝食八時三十分、昼食十一時三十分、夕食十七時であって食事の内容は病院直営の為もあって、大変変化に富んだ栄養上行き届いた配慮のされたものであった。 私のBグループの医師は、岡、池端、福富の三先生で、主任看護婦の佐藤さんと、名前が寝台の前に張り出してある。三人が大体十時頃揃って巡回して来られる。そして少し宛、分って来たのが医師と云う職業が時間のない、ブッツケ本番の失敗の許されぬ激務であることである。看護婦さんも同様であり全く頭が下る思いである。皆三十代から四十代前半の人達であり、看護婦さんは十代の人も多い。この若い人達が人の生命を預って只管働いている。全く頭が上げられない。よく云われるが、この事が理解出来てくると、医師は神様に見え看護婦さんは天使に見えてくる。自分の病気に処置を講じて頂くのは、この人しかいないと云う感謝の気持が湧いてくる。もう一つは、最近の医療は一人では何も出来ないと云う事である。特に慶応病院はグループ制の感じが強い。機械にくわしい人、写真の判定専門、顕微鏡専門、麻酔専門で、種々の専門職が要求されて一人では何も出来ないし、一人でも劣ることは許されない。それ程、高度化し精密化し進歩している。 そして四月十四日(月)の手術の決行の日が迫って来た。四月十一日に全病院の手術会議があり、私も十四日の十三時三十分より熊井先生が責任執刀者と決る。看護婦二人、便器のあて方、手術前後の注意事項、胸包帯、下着、水さし等の準備の話をして呉れる。十七時より執刀者熊井先生が別室にて、妻と嫁に手術説明され、膀胱よりの管、胃雑液を抜く管、腹の雑水を抜く管等の説明があった由であるが、女房は驚きで気もそぞろで良く記憶していないと云う事であった。十二日午前中麻酔専門の先生が挨拶にこられ、酒を飲んでいた事は全く関係がないと云う事を説明された。風邪をひかぬ様特に注意を受ける。手術の前日四月十三日、岡先生来診され、特に手術の成功を祈る旨話される。十時に主任看護婦佐藤さん体毛を剃ってくれ、へそのゴミまで、脱脂綿につけたオリーブ油で除去して頂く。十時四五分より十一時迄入念にシャワーを浴し特に頭髪と身体を清潔にする。十六時、左そけい部より採血し、夕食は軽くとり九時以降は水以外一切禁止される。不安で就寝出来ぬので睡眠剤を貰って眠る。 しかし、この朝、同室の福村氏(三月十八日直腸癌手術)が十四日退院の予定なるに、突然胃が痛み、駆付けた医師の白衣に黄色い胃液を吐き苦しまれる。腸が一部癒着し腸閉塞になりかかっているとの事であった。直ぐ首筋に太い点滴を挿し鼻より二本の管を腸に入れ苦しそうである。管の先端に水銀の袋がついており、腸の癒着した箇所を水銀の自重で押し開けようと云う装置であり、これを、モニターを見ながら胃を通し腸まで挿入するのに一時間もかかり、坤き声が出て苦しそうである。手術の無事すんだ退院寸前の患者もこんなに急変するのかと思うと、手術は止め、死んでもよいから、病院から逃げ出そうかと一瞬思いが頭をかけめぐった。 十四日の日になると、一種の居直り気分になり担架台上の人となった。私もインテリである。手術室で、いつ気を失うか最後迄見届けようと云う事を考えた。私の上に「はす」の切口のような電灯の集合があって明りが消してあり、両側に三人宛位いの人の気配があり、一人が「君いつオーストラリアの学会に行くのかね」「六月頃にしたいと思っています」「じゃあ五月の初めに送別会をしようか」と和やかな会話がとり交され、この人達はのんびりして健康でいいなあと一瞬思った時、意識がなくなってしまった。麻酔されたのも記憶にない。 遠くの町角から、かすかに名前を何度も呼ばれている。返事をしようとした時に気がついた。いつもの看護婦さんが二人、私の顔を覗き込んで軽く頬を叩きながら名前を呼び続けていてくれたのである。そして初めて腹を切ったと云う実感が戻り、救急看護特別室の明るい電灯が眼にチカチカした。夜の十時過ぎであった。妻の話しによると、十三時半頃より手術室に入り出て来たのは十九時半すぎで、出て来た時は昏々と眠っていて首のまわりが紫色で、話しかけても返事もないので一旦帰宅した由である。 救急室には三人の先客がいたが、一人は食道手術の方でズーズーと云う空気ポンプの音が耳について二日間全く眠られなかった。この間が一番苦しく辛い時であった。身体の大切な処をなくした喪失感が強く、薄く薄くなった意識がチラチラする丈である。却って痛みがあった方が生きている存在感があったと云える。十五日から肺麻酔の残渣である青色の痰を出す為の苦闘が続いた。私がゴホンと咳をしかけると、直ぐ看護婦さんが二人走って来て、私の胸と腹の上に二人で馬乗りになり、両手で包帯をしっかり押え込んで「さあ、安心して痰を出しましょう」と云ってくれる。しかし麻酔は切れ、咳の度に槍で突き抜かれるような激痛が頭の芯に走る。煙草を吸っていたので肺が汚れている為、一回の咳では出ず、二回も三回も要する。その度に突き上る痛みが走る。二人の看護婦さんの下で坤きながら痰を出したあの痛苦は現在も忘れられず、煙草をみると思い出され吸う気は全く生じない。酒の方も入院中、肝臓切開のため腰より茶色の胆汁の入ったビニール袋を下げた生色のない患者が思い出され、飲む気がしない。 その後紆余曲折もなく順調に回復し、四月二十七日に退院の許可があり、二十九日天長節、大安の日に無事に家族に迎えられて退院出来た。新しい自由と健康な世界へ復帰出来るまぶしさで一杯であった。そして、それからの二年間が手術の入院中より、食物摂取の管理と食欲本能をいかに押えることのむつかしさに苦闘する日時であった。退院の時、私の腹の中をすっかりひっくり返して調べて頂いた岡先生から腹中の地図を書いて頂いた。四分の一になった胃は空腸へ直結され、胆嚢、脾臓も摘出され、十二指腸は末端を縛り胃より切り離されめくらにしてある。従って胆汁は食物の後から混じることになる、という次第である。手術後の私自身の人生観もすっかり変ってしまった。弱者の気持が少しわかる様になり人々の事も目から鱗が落ちるように別の面が見えるようになった。いままで気付かなかった色々の事が、此の病を境にして分るようになって来たと云う事が出来る。物理的自然の時間をはなれ、身体の内の時間の尊さを思い知らされている毎日である。 最後に、わざわざ病院に見舞いに来て頂いた人々、定期券を買い毎日病院に通勤してくれた妻、家族、親戚、友人の心からなる配慮に感謝の言葉もなく、この拙文を機に改めてお礼を申し上げる。 |