7組  栗田 康平

 

 卒業五十周年記念事業として、「波濤第二」文集が発刊される予定であり、まことに御同慶至極であります。この栄ある記念文集に拙文を呈することは、まことに厚顔の至りでありますが、これが私の最期の遺稿になるやも知れず、それを思うと身の引締まる気持で一杯であります。

 私の生いたちは岡崎の郊外で、三河湾岸に位置する平坂港の廻船問屋の長女を、母としてこの世に生を受け、長ずるに及んで岡崎の梅園尋常小学校、岡崎商業学校、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業して如水会員となりました。

 卒業五十周年を迎えた今日まで、喜びも悲しみも幾春秋、波濤万里をのり超えて、漸く人生の終着駅とも思われる和合の里(日進町)に居を構え隠居の身でありますが、この世に人間として生を受け、常に何かを成し遂げようと日夜念願しながらも、知らぬ間に老いゆくのが人生の姿ではなかろうか。正に我が身の七拾有余年の姿であり、「生者必滅、会者常離」の言葉が身に泌みる昨今であります。「如水」という言葉は私の好きな言葉の一つであります。「君子之淡交如水」とか、「明鏡止水」の心境とか。亦、「ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず」とは方丈記の一節でありますが、一瞬一秒でも前の瞬間とは同じ状態ではない。それこそ人生の成長、発展、進歩の有様を意味しているのではあるまいか。千変万化の水の姿態、一度変じては雲となり霧となり、嵐ともなり瀑布ともなりましょう。正に人生流転の姿ではなかろうか。

 「観自在」という言葉も私の好きな言葉の一つであります。「般若心経」では「観自在」のことを「観世音」とも「観音」とも言われているようですが、「観自在」とは私なりに解釈すれば、「自ら在るを観る」という事で、「花は紅、柳は緑」と言うが如く、自然の儘を観る、即ち、あるがままの姿をそのままに肯定し、生きて行くことの素晴らしさを意味しているのではありませんか。私もこの世に生きている限り、森羅万象すべてを肯定し、あるがままの今日の「今」を大切に、「幸福は今日という日にこそ存在する」という心境に到達したいものであります。

 


卒業25周年記念アルバムより