縁あって、私は岡山の三和相互銀行(後の三陽相互銀行、トマト銀行)の社長を十七年間もつとめるめぐり合わせとなった。
昭和四十一年十月、四十七才から、昭和五十八年六月、六十四才まで。
自由経済社会で企業のトップを勤めることは、栄誉あることであり、大責任を負うことでもある。
以下私が社長として自らに言いきかせてきたこと、経営理念と実行してきたことを述べよう。御笑覧あれ。
○アントルプルヌールの根性を持つこと
Entrepreneurは間を取りしきる人物である。社長として取りしきる対象は、株主、地域社会、役員、従業員、監督官庁、県市町村、財界諸団体、ロータリークラブ、報道機関などである。
これらとの付合いにはキャプテンオブインダストリーの精神を持って当った。
私は一橋出身のキャプテンオブインダストリーなるぞと、誇らかに自らに云いきかせ続けた。
○社長は孤独たるべし
特定の専務や常務部長などに対しポンと肩を叩いて「どうだ今晩飲みに行こうか」というような誘いをしてはならない。特定の人物とゴルフ仲間など深い付き合い仲にならぬようにすること。その一方支店長会議の晩の懇談会では大いに飲み大いに唄う。私の十八番は信州は浅間の馬子唄であった。
○風通しのよい社風、全員精鋭主義
派閥、門閥、同族性、学閥の一切無い社風をつくる。
全員精鋭主義を説える。少数精鋭主義ということは世上よく云われるが、これは経営者の身勝手な云い分である。従業員一人々々がそれぞれの能力に応じて職務に力を発揮すればそれで精鋭であると云ってよい。少数精鋭主義などという、おろかしい陰気な理念を唱えてはならない。
人事異動には極端な能力主義でなく、ゆるやかな能力主義をとる。
行員名簿は全員にふり仮名をつけた。名前を大事にせよ、一人一人は大事な存在だ。
職場において、部長さん、課長さんというようなさん付けはきっぱりやめさせた。
女子職員の美醜を話題にしてはならない。
○従業員組合は大切に
○歩け歩け
社長宅から銀行まで約四粁、私は乗用車を使わず歩いて通った。
一日八粁として一年に二千百粁、地球の周囲は四万キロだから、在勤中に大体地球一周するぐらい歩いたことになる。この歩け歩けの姿勢は社風にも何らかの良い風を吹かしたのではなかろうか。
○新規業務への積極取組み
機械化、コンピュータリゼーション、新本店の建設には積極的に取り組み、実績を上げて来た。
行名変更、三和相互銀行から山陽相互銀行へ、は全行員の総意を結集して敢行した。
伸びゆく山陽道の山陽相互銀行!!
外国為替業務については先進都市銀行から、すぐれた人材を頂戴し、若い者をどんどん勉強させた。
○後継者へのバトンタッチ
企業のトップはしょせんリレーランナーである。一生懸命走ったらまだ元気のあるうちに次のランナーにバトンをしっかり渡す。
社長として大事なことは、次の社長を誰にゆずるかを常々考えておくことである。
社長は現役中に病気で倒れたり、死んではならない。生き生きしているうちにバトンタッチだ。
社長という絶大な権限を持っている者には、誰も社長自身の出処進退を進言してこない。あくまで社長独自の決断だ。
昭和五十八年、私六十四才の時、決心して社長を生え抜きの役員にゆずった。私より十才若い。
「どうしてそんなに早く辞めるのか」という声の一方「よくやった、あざやかなバトンタッチだ」という声がささやかれた。
つくづく思うに社長職にのんべんだらりとへばりついていると、次の社長候補の力の発揮を妨げることになる。
大変な無駄であり、罪を重ねることになる。
私は社長在職中の業績進展よりも、最後のバトンタッチを経営者として何よりも誇りに思いたい。バトンタッチは大成功であった。
○山陽相互銀行創立五〇周年記念式典における社長挨拶(昭和五六年一一月一日)。
「昭和六年といえば満州事変が勃発し、以来戦雲去来、国の命運見定め難く遂に第二次大戦に至るきっかけとなった年でありました。
この年の創業は、ほとんどの当行職員にとっては、生まれる前の歴史のかなたの頃のことでありますが、われわれの諸先輩方は爾来怒濤の非常時下、あらゆる苦難に耐えて社業の発展に尽くしてこられたのであります。
倉敷無尽株式会社は、昭和一六年に興国無尽、別所無尽の両社を吸収合併し、三和無尽株式会社となり、本店を岡山市に移し営業区域も岡山県下一円に広がりました。昭和一八年には中国無尽を合併し、岡山県下唯一の無尽会社となり、昭和二〇年の終戦を迎えたのであります。
終戦により、日本経済の前途も暗たんたるものとなりましたが、その後日本経済が次第に復興に向うとともに、中小企業の資金需要も活発となり、日本人の不屈の勤労精神と着実な貯蓄心とが相まって、金融業界は息を吹き返し、当社の業容も急激な拡大時期を迎えたのであります。
昭和二四年には営業区域を広島県東部に、昭和二六年には兵庫県下にも拡大しました。
昭和二六年はいうまでもなく、相互銀行法施行の画期的な年であって、三和無尽株式会社は、三和相互銀行に転換し、社員一同意気大いに揚ったのであります。
昭和三〇年には、内国為替業務取扱いを開始、これにより預金、貸付および為替の三大業務が行えることとなり、銀行としての一人前の機能を備えることとなりました。
このように順調な上げ潮の時期にさしかかったところで、残念なことに昭和三二年経営蹉跌により、他行の救援を仰ぐ不祥事態を招き、爾来数年間、苦難の時期を迎えたのでありますが、役職員一致協力して試練に耐えつつ信用の回復に努めました。幸い日本経済は高度成長期にさしかかり、岡山県南新産業都市計画の進捗の好期に際会し、順調に力を回復し、経営体制も立派に立ち直ったのであります。
昭和四〇年代以降は、なお日本経済高度成長の余波に乗り、山陽道一帯の著しい地域発展と呼応し、当行役職員一同一致協力、意気盛んに「伸びゆく山陽道の山陽相互銀行」建設に励みました。やがて訪れた四〇年代後半の世界的エネルギー危機の時代も乗り越えつつ、
○資本金の増加に次ぐ増加、株主配当の引上げ
○日本銀行代理業務の開始、拡大
○明るく躍進感あふれる「山陽相互銀行」への行名変更
○コンピュータの導入、オンライン化の拡充
○「人間の尊重と機能との調和」をテーマとする新本店の建設
○外国為替業務の開始
○店舗の新規開設、配置転換、そして遂に大阪支店の開設
等々を破竹の勢をもって進めてまいり、今日のたくましい発展の姿に至ったのであります。
この間、資金量は一〇〇億円台から、二〇〇億円、三〇〇億円、五〇〇億円、一〇〇〇億円、そして今日の二〇〇〇億円台を達成し、全国相互銀行業界内における序列も十数行を追い抜く力を発揮したのであります。
これら業績進展の原動力は当行人材の力にほかなりません。あらゆる研修、自己啓発努力、役職員の人事刷新、労使協調精神の高揚、これらによる進取闊達、「活力と調和」の社風が大きな成果を生むに至ったのであります。
以上当行五〇年の沿革をかえりみて、今日および今後を展望しますに、まず今年は時あたかもわが国金融制度、銀行業務全般の大きな変革への屈折点を迎えていることを念頭におかねばなりません。
また日本経済の成長に伴い、あらゆる経済、金融の動きが、世界の動きのなかで対処されねばならぬ国際化時代に突入しております。
これらの前提から考えるに、銀行業務は多元化し、従来の金融機関の概念や他業界との垣根論にとらわれない発想による新種業務の開発等、社会の要請に応えるべき時代を迎えていると考えねばなりません。今日まで、五〇年の歳月に遂げてきた変せんに匹敵することが、一年、一年刻みのタイミングをもって、なだれの如く押し寄せてくることも予想されます。
当行が常々高揚すべき意識としてきた「既成概念の打破」ということが、まさに活きてくる時代への突入といえましょう。幸い当行は、過去五〇年にわたる諸先輩ならびに現役職員のたゆまぬ努力により、これからの時代に対処すべきあらゆる機能、基本的体力を最小限度ながら整え得たとの自信をもつに至っております。
きたるべききびしい経済金融環境の変化を迎え撃つ、というより積極的に打って出る、という意欲をもって、当行の「第二次成長期」ともいうべき今後の途を切り開いてゆこうではありませんか。
全員精鋭の意気高らかに、企業永遠の発展をめざして力強い歩みを進めましょう。
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