5組  前田  南

 

 如水会員に囲まれて育った私は、当時まだ在学中であった従兄の、角帽に輝く「マーキュリー」に憧れた。フランスの展覧会で優勝した、という説明がついていた。

 然し、一橋六年の生活は、子供の頃の夢とは裏腹に、あまりにも惨めであった。価値を生んだのは僅か四つ、取分け学部の講義に何一つ感興を生まなかった証拠に、古稀を過ぎた今もなお、「明日試験だが一度も教室に出ていない。どうしたものか」と悩む夢を見る次第である。若し戦時の繰上げ卒業という事態がなかったら、果して卒業出来ていたろうかと、冷汗三斗の思いがする。

 とはいうものの、「マーキュリー」の恩恵は、計り知れないと感謝している。何としても学歴社会である。又、首席の卒業生も、押し出し卒業生も、世間の評価に大差のないのは、有難い限りである。

 一方、大学の六年が、悉く空虚であったわけではない。本筋から外れてはいるが、次の四つを拾うことが出来る。

一、中山先生の「純粋経済学」
二、文理大から出講の高坂先生の「カント」
三、プロゼミの無機化学定性分析実験
四、短距離の走法

 一、限界効用と均衡理論

 申し訳ないが、経済学説としてではなく、人間学ならびに自然学としてである。即ち、限界効用(又は利用)逓減の法則は、沙漠の旅人に対する水を引例してあり、私達の人生体験では、戦後食糧難時代の「銀めし」として体感した処であるが、豊かな時代になって、益々色濃くなりつつある。戦後の生活では、百円札を仏壇に供えてから使った。所得倍増時代が来て、百円が千円になり、高度成長期が始まって、一万円札になる。何を買おうか、何に使おうかと、家族の希望も聞いた。それが今では、中年女性が一千万、二千万の札束を袋にいれて、割引債を買うべく銀行の窓口に来る程の事態となっている。

 金銭の価値が逓減すると、欲しい物の値段が膨脹する。小遣い銭が不足するとて、少年も万引、掻払い、追剥の仲間入りをする。大人は強盗殺人に走る。沙漠の水では説明出来なくなった。

 話は変わるが、数多くの川は土中の岩塩をとかして、海にそそぐ。海はその塩分をためる反面、太陽に温められて蒸発する。水蒸気には塩分はない。この水蒸気は雲となり雨となり、雨水は集まって川となって、又々岩塩をとかして海に注ぐ。となると、海水の塩分は濃くなる一方である。

 陸地では、植物は炭酸ガスを吸収して育ち、光合成により酸素を放出する。動物がその酸素を吸収して炭酸ガスをはき出す。其処に、人間という自然破壊者が現われ、年と共にその数を増し、樹林を荒らし、石炭石油を掘り出しては火を使う為、酸素を消費している。酸素の供給源が減少し、消費は増加している。空気中にある酸素の割合は減る一方で、回復不能になる。動物は生存が不可能な時が来る筈である。

 にも拘わらず、海水の塩分の濃度は、四十五億年にわたり四%を超えることはない。三・二〜三・八の間(場所によって異る)で一定である。空気中の酸素の割合は、二一%を離れることはない。

 振子は右にふれると、必ず元に戻る。左にふれても必ず右へ動く。中心に回帰するのが、白然の摂理であり、これが均衡理論の本質である。何も、経済丈ではない。自然の摂理丈でもない。勿論、ピサの斜塔のランプ丈ではない。戦争と平和、左翼と右翼。これが弁証性の発想となったのかも知れない。

 二、カントの二律背反

 一、時間に始まりがあるとすれば、始まる前はどうなっていたか。又、始まりがないとすれば、一体いつ始まったのか
 二、空間に限界がないとすれぱ、何処迄続くのか。又、あるとすれば、限界の外は何であるか

 これが、カントの二律背反である。カントは、この背反は、時空を客観的と考える故に生ずるものとして、時空を以てすることによって、人間の先天的な判断の図式であるとすることによって解決したのである。

 この様な設問は、数多く存在し得る。いや、数限りなく、といった方がよいかも知れない。例へばキリスト教で神学と称するものは、神は善でなければならないのに、この世に何故悪があるのか、その説明を研究する場であった。然し、若し悪が存在しないとすれば、神が無意味となり、キリスト教自体がナンセンスと化するであろう。とはいうものの、神が悪の一面を有するなれば、十全の神でなくなるのだから、其処に「悪魔」を考え出すことで解決しようとした。然らば悪魔とは何ぞや。結果は「悪魔即ち異教徒」となったのである。

 マルキシズムは唯物論で成り立っている。従って眼に見えない神の存在は許されない。とはいい乍ら、人類は古来、神なくしては過せない本性を有っているのだから、人心をまとめる為に、何等かの神が必要となる。そこで「レーニン」を神棚に祀り、マルクスの著書をバイブルとし、スターリン、毛沢東、金日成を使徒として、信仰の体系を作り上げた。ここでも、反共産主義者は悪魔として扱われる。

 微小なものを見るのに、顕微鏡がある。更に小さいものには電子顕微鏡を使う。然し、電子の動きを見ようと電子を照射すれば、見られるべき電子の動きは、見る為の電子によって変化する。これを人間にあてはめて見ると、次の通りとなる。

 ある講師が目の前に白紙を広げ、「この紙はどちらが表でどちらが裏でしょうか」と受講者に質問した。勿論、受講者には答えるすべがない。そこで講師は、「私から見ればこちらー講師側ーが表、あなた方からでは、あなた方の側が表となるでしょう。信念の人も頑固な人も、どちらも自分の考えを変えない人です。接する人にとって、都合のよいときは信念の人となり、不利な時は頑固な人と評するものです」と。

 薬という字を辞書で見ると、「どく」とある。薬は毒なるが故に効果があるとすれば、効果の裏に別作用がある筈。薬の毒で生じた異状には、つける薬はない。馬鹿につける薬はないのである。

 三、化学の分析実験

 プロゼミの分析実験のせいか、実験の時に着る白衣のせいか、医師に憧れて、一時学士入学迄考えた。幸いにしてこの希望は達せられなかったが「ニセ医者」めいて、聴診器まで持ち歩いた時代がある。

 戦後、サルファ剤がペニシリンと交代し、キノホルムという特効薬も世に出たが、私の卒論である有機化学染料は即ち薬品として通用している。赤チンことマーキュロクロームは、赤色染料である。

 緑色の染料に、マラカイトグリーンというのがある。染色工場では、チョイチョイこの染料粉を失敬する輩が出る。口の中が緑色になるから、数人はすぐ見つかって、「コラッ、いつ遊びに行った!!」と叱られる。実はこの染料は、淋病の特効薬なのである。マラカイトグリーンとはなんとまあ!!

 スイスの会社が製造した、エンテロヴィオホルムなるキノホルム剤は、一〜二回の服用で下痢がとまる。そもそも下痢は、腹内で病菌が繁殖した状態であるから、強力な腹内の殺菌剤で直るのは当然である。唯、腹内菌の中には、有用なものが少なくない。この有用菌まで殺してしまうので、連用するとイタイイタイ病が出て、使用が禁止される結果となった。連用禁止の注意書を無視して、投薬した医師が、投薬証明を発行するとは、医道も地におちたといわざるを得ない。

 戦後の一時期は、食糧を目的に生きるばかりであった。その中で田舎の青年達は、想像もつかない遊びを考えついた。「屁の競技会」である。主な種目は「ハシゴ」と「レール」。ハシゴというのは、プツプツプツ……と何段続くか、又レールは、プーツと何秒続くかで勝敗がきまる。

 屁は腹内醗酵によるガスの放出である。必勝の方法、「相手方に屁の妙薬と偽って、エンテロヴィオホルムを呑ませなさい」とコーチした。細工は流々の大勝利に、大いに感謝された次第である。

 このニセ医者は、完全に薬から離脱した。医者は病状を消すか患部を切除する丈で、病気を直し体を元の状態に戻すのは自分自身の力即ち自己恢復力と分ったからである。そして、コリの解消、細胞の活性化をはかるマグネット、酸素の注射、更に今は「タキオン」なるガラス玉と取り組んでいる。このガラス玉は、筋肉の活力増加によりスポーツ選手に、又細胞の活性化で内臓の病気恢復に特効のあることは、多くの実績をもっているが、原理は不詳(加工法が企業機密)故、説明出来ないのが遺憾である。

 四、短距離の走法

 相馬先輩の仲介で、専修大学のアスリートが国立で練習することになった。その中に一〇秒四の記録を有つ、近藤文平なるスプリンターがおられた。新たに陸上競技部に加入した私は、最初の練習の日から、この一流選手のコーチを受ける幸運に恵まれた次第である。

 先ず、スタートの位置につく。一般に、一刻も早くスタートする為、後足で土を蹴るが、この人は単に手を離せと教える。手を離すと前に倒れる。倒れない為に後足を前に運ぶことになる。上体を前にかがめている限り、倒れない為に後足を次々と前に運ばねばならない。その上で、腰を入れ、運ぶ足を高くあげれば、自ずと歩幅が広くなるから、エネルギーの無駄がなく、スピードが出るというわけである。

 勿論、コーチ項目はそれ丈ではない。腕は直角に曲げ、左右併行に、軽く握って肘で振る。前に振っ.た時は眼の高さでとめる。要するに、要点は腕で走る。丁度野球の投手が脚腰を鍛えると同様である。

 練習の最初から一流のコーチをうけたお蔭で、半年後の予科二年の春には、十一秒八の予科でのトップランナーとなった。そして夏の対神戸商大戦で、三人目の選手となって、スタートラインに列んだ。このレース、代る代るフライイングが出た七回目、又してもフライイングをした人があるのに、二発目のピストルが鳴らない。一人取残されたが、仕方なく走り出した。その時、スターターが両手を広げて「とまれ」と大声を出した。八回目、ようやく揃って走った結果、十一秒五で三着に入った。予想外の記録と貴重な一点をあげた次第だが、現役としてレースに出た三年半、一度としてフライイングしなかったのは、身分不相応な十一秒四(当時の女子世界記録)と共に、今も近藤氏の教えに感謝している。
 因みに、六十五才では、十六秒七台である。