1組  牧原 志郎

 

 昭和五十九年五月下旬、新緑濃き和歌山県の真言密教の道場、高野山金剛峯寺の霊地に、前橋陸軍予備士官学校の戦没同窓生の顕彰慰霊碑が、有縁の人一、七〇〇有余名参列の下に建立されし由、聞き及びました。時恰も弘法大師入定一千百五十年の遠忌に当り、盛儀のほどが偲ばれました。

 小生残念乍ら健康上の理由から参列出来ませんでした。しかし、平素予備士官学校同窓の方々は元より、我が小、中学校の同級の方々が、陸士に或いは海兵に志願して太平洋戦争に散華され、雄々しかりし若武者ぶりはつね日ごろ私の脳裏を去来して消えぬのであります。

 殊に私の長兄牧原正男は千葉県市川に在りました野戦重砲兵第七連隊の出身で彼のノモンハンの戦闘に参加して生き残り、再召集でビルマ作戦に従軍し、昭和十九年の晩秋、印緬国境の山地フォートホワイトに戦病死致しました。

 有縁無縁を問わず戦没者の方々を追悼する気持が、関係者各位の絶大なご尽力とご後援が挙って慰霊碑建立の形で実現されました。何よりの事と厚く御礼申し上げます。

 さて小生、生来古美術愛好の癖あり、祭典施行日の一週間前に、新宿区花園神社の骨董市で、光背台座完備の木彫漆塗り金箔置き丹青こめし文珠菩薩像一躯を偶然入手致しました。

 ご承知かと存じますが、文珠菩薩は真言密教に理智を具現する仏像であり、右手に剣、左手には経巻を持しております。殊にこの仏像の若々しくも凛々しい清秀な面貌は学卒戦士の御姿を彷佛させるものがあります。

 小生、宗教心とて皆無で、仏像を見る目も只、美術彫刻として、その立体的なあじわいを鑑賞するに止まり、礼拝の対象とするものではありません。しかし、若くして散った戦友を悼む気持が、このような形を取って私の念頭に感慨を抱かしめるものでありましょうか。
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 古物に詳しい友人の一人は、この像が余りにも美しく、金箔金粉丹青塗りの部分もあることからして、一見して台湾製の擬古仏と断じ、目をくれなかったものであり、私も不安感を持ちましたが、最初の印象が非常に良かった事から、幸い業者のご好意もあり、いろいろないきさつを経て遂にこの文珠を授かりました。私の見る所では宗教心に篤い古代の仏師の作品には、やはり人の心を撲つものがあるように感ぜられます。(その後の資料によりやはり台湾製のものと判断します)。

 さもあらばあれ、日夜この文珠菩薩を眺めておりましたところ、計らずも、当日の夜の十二時NHKのラジオ放送で式典の事を知り、且つはその奇縁におどろき且つはよろこんだ次第であります。

 密教の仏像は約束として身体が黒色となっております。私は因縁ばなしなど非科学的な事象に心を動かされるものではありませんが、長兄正男の戦病死の状況は断片的ながら伝えられました。初年兵ノモンハン事件、ビルマ作戦と終始行動を共にされ、生死を誓い合った同年の戦友の方が千辛万苦の末、内地に帰還され、おかげさまで正男の一片の骨は杉並区梅里に在る浄土宗の祖先の菩提寺西方寺に納められ、法名を宏峯院殉誉顯光正男居士と申します。

 これまでに知った兄の死の状況と、最近読んだ一軍医の手記「崩壊す・ビルマ戦線」により、戦病死の原因はビルマの風土病の一つである黒死病(ペスト)であったかと推定致します。

 公報による戦病死の日は昭和19年10月16日となっており、戸籍簿で確認できます。しかし戦友から伝えられた日付は10月25日午後5時と又聞きで(戦友→のぶ子→志郎)記憶しており、九日のずれがあります。戦闘の混乱ぶりが察せられます。

 私は戦友の方と昭和二十五年頃一度お会いしましたが詳しいお話を承りませんでした。
 最近に到り、北区王子のロータリー付近の元浴場主を手掛りに問い合わせ現地にも行きましたが、もはやその所在は判明せず、年ごろからして既に幽明界を異にされたものと存じます。

 我が長兄正男は祖先の家業を継ぎ、かたわら蝶の採集を趣味とし、桐など木箱のガラスケースに収めた見事なコレクションを積上げ、来客にも見せて楽しんで居りました。ノモンハン事件の時もホロンバイル平原の蝶を採取し、内地へ送って新聞や婦人雑誌の小さなコラムに載ったこともありました。(吉祥寺の平山博物館を経て東京国立科学博物館へ寄贈・・大アカボシウスバシロチョウ・アカボシウスバシロチョウ・・)。内地では上高地、高尾山などよく出かけました。ビルマも蝶の多い所と存じます。断末魔のまぶたの裏に蝶の幻影が舞ったことでしょう。この彪大なコレクションも強制疎開と戦災のうちに乱離骨灰となり何一つ止めておりません。これらの事は我がはらからの悲しい記憶に止むるのみです。

    兄を悼む

いかに鬼神もよっく聴け
我が兄は 雄志空しく
雲煙万里 西方浄土なる
天竺にほど近き
印緬国境の山地に
草むす屍となりにけり行年36年
いく多戦友も散りしならむ
鬼哭啾々としてビルマ戦線
あゝ 野辺に咲く花も
頭をたれよ
くさむらに舞う蝶も
来りて
諸霊を慰めよ
我が祈念は
とこしえに盡きず
            合 掌

 次に日頃小生の志す所を記し、かねて近況報告とします。

 私は現在埼玉県入間郡毛呂山町葛貫(つづらぬき)の毛呂山台に居住すること五年半(住宅完成後九年余)多くの先輩良友知友に恵まれ、古美術品類を愛好して日々を過しておりますが、最早や古稀を超えること二年ばかりとなり、これまで蒐集し得た品物類並に図書等を手持の土地上にささやかな個人美術館施設に収納し、多数の方々に手軽に利用できる非営利の財団法人として、一般に公開し、斜面地を利用する枯山水の水浄化と運動施設としてオールシーズンプールニ面を設け太陽と空気水並びに緑を資源としてこれらを有機的に結びつけ、運動(水泳)と教養娯楽の簡易宿泊施設を夢見ております。

 施設利用費はすべて原価主義で一割をめどとする手数料を以て維持運営に充てることと致したく存じます。完成までおよそ二年を要するものと算定しますが、是非実現を計りたく名称は取りあえず牧原正男記念館(仮称)と致します。