6組  松田富士夫

 

 年々歳々花相似 歳々年々人不同
 余生猶為すことあらむ冬毎 (秋桜子遺句)

 卒後50年、先は記念諸企画深甚敬祝申し上げます。小生無恥厚顔昨春軽微脳血栓症で昏倒、幸い数針額切傷にて生命拾いとて正しく掲題仕儀、前年来両膝老化痛に加えて通院杖が放せず、帯状庖疹後遺神経痛不自由も否めず居ります。折しもの文集驥尾妄言禿筆、万一不測の筆禍、杜撰、齟齬、遺漏予め御詫御海容願上置きます(敬称略儀共)。

 昭16.12.28卒準拠とは云え私は同11.4予科6組入学同窓の感一入です。折しも外にスペイン内乱、内には二.二六(昭和維新歌「泪羅(べきら)−、巫山(ふざん)−」が詩経楚辞屈(原)子慨世入水、鐘鬼に化し、粽を好み児等を愛護の故地と後日覚えた)、学内は白票事件後(左右田門下杉村博士論文)粛学の真只中、一年前期は半ば休講乃至小平、国立での数次学生大会動員の印象極めて強烈乍らこの間教室内外に学ぶ所不尠と想います。第二外国語1〜4組独乙語、5・6組仏蘭西語でした。ジイドの「ソビエト紀行」、島木健作の「生活の探究」等が上梓され没頭したものです。因に入試は英語(和訳、英訳、書取の計)が総合二分の一の高加重配点、毛筆作文(私共は漢文白文課題出来不出来不問習慣とは云え)何れも類無き異色だったかに思います。クラス配席、私の後ろ最後席に故松野君、前が故細谷君、故福田君、故長谷川君、仁科君、そして故中山君、左隣に故武村君、斜め前故高橋君、斜め後ろ地田君、右隣に故渡辺君、その前が吉川君、右後ろに聶君でした。休講無縁が川上先生の日本史、伊藤先生の細字英文終始の商算、杉山三郊古文真宝に王義之臨書、石田竜次郎地学での集落形体風土民俗文化(後年私の郷土史志向触発の感)。就中日本一の川村珠算、杉浦高等数学方向係数とモンブラン秘話、Y談がらみ峰間固本策に万葉集(朗詠で採点、鹿二中出吉川君先生も脱帽の最高位。南朝正統派、2・26アジビラ)。

 国立へは無関心大衆、インディファレント分子も動員され、予科会上級幹部引率下一橋寮から隊伍出発、桜堤、津田塾前、府中街道と麦畑を徒歩行軍した。通学には毎時一本の多摩湖ボロ電しかなかったので、逃がした時は小一時間ポプラ並木を歩かされた。津田はバス便が使われ時たまグループでお拾い、国分寺駅馴染み顔同士も声掛けには至らなかった。予科食、一年は通年最廉のカレー終始、二年漸く蛇丼、兎丼に進み、最高ABランチは三年生のみが当然の掟。時報は一切用務員が綱曳き鳴らす鐘の手仕事、雲雀が和していた。予科前駅から正門迄見通しの直路脇林中に唯一の茶店ブルーベル、村夫子親爺に美人娘姉妹の屋外切株は僅かな息抜き場だった。

 佐野学長20年の大功を以て退き、後継に如水会も憂慮、山形銀行頭取三浦新七博士新学長、自ら予科教壇に立たれての倫理哲学、同じく堀主事に代わり敢て予科主事担当された次の学長、福田徳三門上田貞次郎博士が渋沢の士魂商才からキャプテンオブインダストリーを説かれた。折角の仏語はプルニエの英語による入門以外休講続き結局山田九朗学生主事就任、之幸いと確か5・6組協同で、毎講出欠簿、長髪・短靴の禁の新則を巡り団交招請の一席、エスプリ論に巻かれ三分の一出席は呑まされ他は撤回成ったが、(因に先行の慶大予科既に全軍事色)扨而会務、合宿、道場、図書館自習(韜晦?)専念等前期不慮失には青天の霹靂宜しく、後期皆出挽回期して頑張り、三月の進級発表危くセーフ、流石にこの時ばかりは早々確認に出向いた。

 英語では中村為治先生ヘロドトス、バーンズ、森野さんギッシング、山田さんゴールズワージー「林子の木」、西川先生マンスフィールド、ラッソーさん「第一次大戦後世界」、スレッシャー、スピンクスさん等の二分の一スモールルーム等々。脱線引き出しは機微なものだが国際部福田君は得意の連珠図示で外人方に挑戦、尤も生真面目スレッシャーには不発に終った。国漢数学理化体育諸教官何れも思い出数々。次第に防衛色強まり後年グランド一隅にきょうさく射撃場造成奉仕、哲学の藤井先生も巻脚胖、ズボン吊りで痩躯出動には励まされた。牧野博士の法学概論、中山伊知郎先生の経済原論、深見商学、東大からの久松先生皆錚々、高島善哉先生のスミス、リスト国民経済論は難解乍ら触発的であった。

 墨堤でのHCSクラスチャンレガッタ応援にはじまる課外運動部文化部活動も活気を呈し、太田可夫先生はヴィンデルバンド哲学読書会を熱意指導された。仏語組には難儀だったが山代洋先輩(中学共)のほか、確か佐原君、望月君、山崎昶君も熱心だったと思う。校内大会では7人制ラグビーに級友と泥まみれになった。そんな線からボート、ラグビー、国際の各部から諸先輩勧誘盛だったが今一つ納得外だったところ磯村君、大居君、田中(林)君、金井君、故吉田(益)君等の都山流尺八東都会に惹かれ二年次から正式入部した。磯村君は万事トップ格、幸田成友さんのかの分厚い西洋史細部迄教室内で消化、クラス仲間のグループ試験勉強半途夜半過ぎ居眠り次々ダウンの傍らで一人悠々英気涵養には降参した。仏独交流課外入門講座も持たれ町田秀実先生の指導下横山君らと同席した。

 予科祭も愈々賑々しく、6組は一年時全員女装まばゆき元禄花見踊の輪、二年時私等有志時代捕物寸劇、三年時同じく山本有三「同志の人々」一幕、之は学内二等賞でクラスにビール一函だか持帰り面目を施した記憶がある。打上げクラス会は新宿甲州街道沿「丸安」に繰り出して一盞、とことわの青丘緑蕪を謳歌した。

 アメリカ仕込みコレポンの阿部先生、パリ帰りの根岸国孝先生等留学土産ホヤホヤで着任され、根岸さんのアナトール・フランス、特にフランス社会政治経済思想史では原始共産主義からサンディカリズム迄の流れを学んだ。ジュール・ルナール博物誌だかの「蛇。長過ぎる………」に高橋君いたく感銘に見受けた。普通科連に簿記は苦手の尤であった。

 斯くて三歳、空高く光漲り輝く公孫樹下の憧れの国立キャンパス入り叶った。実の処、私は運悪く予科修了試験時盲腸炎手術入院に遭遇、冷々乍ら何とか最低合格点を貰えたのである。既にヒトラー-のズデーテン進攻の事あり、筧憲法下軍事色弥増し、伝統の一橋会自治も卒業時学徒報国隊移行をはらんでいた。以後は御承知の通りである。

 必修のほか、横山君、高橋君、大居君、鈴木栄喜君、私どもは折角の仏語、名にし負う内藤濯先生に教わりたくて選択に加えた。先生は名訳「星の王子様」校了前とていたく愛んで居られ、その言葉一々への愛着慎重な選択、豊かな想像力に舌を巻いた。

 ゼミは中学大先輩の上田辰之助先生門末に入れて頂けた。和訳乍らウェーバー「プロテスタンティズムと資本主義精神」を読まされた。大居、大野、浮洲各兄に加え今既に鬼籍の福田、落合、三浦、林、長谷川、高橋諸君毎週吉祥寺の先生宅に伺った。御町内の故で私は連絡係ゼミ委員を務めさせられた。恩師御夫妻既に亡く、お宅も旧姿偲ぶ可くも無いが、ゼミナリステン栄光の「晨光」会は健在、故地一角の小碑も武蔵野市100選と云うことで何とか荒廃防護一念続け参っては居るもののそろそろ心もとない(武蔵野市吉祥寺東町2116所在)。話は違うが予科会歌は「石神井原の夕まぐれ」の通り石神井時代の作、後に縁りの建碑の事を承知、某日探訪せるも矢張り昔日の面影に程遠ならむ(西武池袋線石神井公園大泉学園両駅間北側団地内小祠際所在)。

 東都会も卒業迄続け、田中、金井、吉田君指導下故五十嵐疏山師膝下多くの良き先同後輩諸氏に恵まれ、当初東中野吉野姉紘方より市ケ谷生田正派故中島雅楽之都師門出入叶い20名越す勢いであったが、偶々一時田中委員長の代行役被命お手伝いの縁で未だに管絃同窓末席を許して頂いて居る。

 扨而吾等国立駅前「エピキューリ」アンどもも、畏友相連れ富士山頂極めて下山途端の繰上げ卒、臨時検査入営と忽忙の間、同じ中野検査場12・8場中に真珠湾聞かされ、帰途駅前茶店で対の一憩一話が故大迫千尋君との中学以来の永別となって了った。

 上田先生は在外抑留中の私の親代りに入営壮行の朝見送り頂いたが、ゼミナリステンに贈られたのは「ヘルス、インテリジェンス、アンド モラリティ」。幸い生還を得て改めて時空不問の親心と知った。

 上田(貞)学長は暫々勝海舟の偈を引いた。曰く
「自処厳然 対人靄然 有事断然 無事澄然 得意淡然 失意平然」
 私も好んで自他に掲げた。

 予備役幹部候補生乍ら見習士官任官前迄に漸々辿りついたと云えば「任務」と云うことか。
 中年、在家曹洞門末としては、「作務一途」「不立文字 只管打坐」「知足安分」であり、自ら、「一期一会 有縁大切 温故知新 知足応分」と観じたが無住禅師は、「小欲知足可言富 大欲不息可言貧」。春日野親方だったかは「知進知退」を好み訓じた相な。

 余生ともなると、「人間到処有青山」ですか、確かに墓葬のあり方、呆け前隠居の再考要否等々、ホスピス等のほかにもいろいろあると思いますね。
 耄けてあちらだけも困るが、予防には適宜の「好奇心」と「小言幸兵衛」も必要とか。環境劣化はじめ何かと老に住み難さ加速の世、21Cどころか社会主義国70年の帰趨明日をも知れず。就中日本語抑揚含め何所まで乱れ見聞せねばならぬのか。せめてTVキャスター、アナウンサーの画面相手に耳障りなたわ事の音声は消すしかない。見ざる、聞かざる、云わざる、で三尸(し)の虫に嫌煙だけは今暫く御許し願い託することにするか。耆耋はさらなりだ。

 後白 誇り高き一橋会々歌「長煙遠く」(明37)に加え、既に今日唯一校歌たる創立75周年記念「一橋の歌ー武蔵野深き……」(銀杏会作、山田耕筰曲)も又名詞名曲、和して通ずは隠居心得、不要省哉?