1組  三嶽 恭二

 

 本年は母校卒業五十周年ということで、記念行事の一つとして文集が刊行されることとなった。
 十年前の卒業四十周年の折にも記念文集「波濤」が刊行された。そのときには、戦後亡くなった級友五名のお墓に詣で、ご冥福を祈りつつ小文を寄稿した。池田、高木、橋本、諸橋、麦倉の諸君である。

 四十周年以降現在までに旅立った級友は、金子、泰地、鈴木(旧姓山岡)の三君である。今回は上記三名と前回機会を逸した野田君の合計四名のお墓に詣でることにした。以下はそのときのメモに手を入れたものである。

 三月七日(木) 晴
 天候に恵まれ小田急で小田原へ出て更に伊束へ向う。右手に山、左手に海を望む車窓の眺めは、すでに春の気のしのび寄る懐かしい伊豆の姿である。

 十一時半頃伊東駅に着き、地図を頼りに和田の浄円寺まで歩く。ウィークデイのせいか、比較的閑散な温泉街を通り抜けて十分足らず、バス通りからちよっと引っ込んだ浄円寺に着く。浄土宗の古寺である。案内を請うと中老の住職が現れて野田家のお墓まで先導してくれる。台石に「大阪屋」としるした野田家累代の墓は高さ丈余に及び、苔むして古色蒼然たる姿である。聞けば野田家はかつて浄円寺の檀家総代も務めたことがある由。野田君は晩年旅館経営に大分苦労したとのことであるが、あのスマートで温和な性格には厳しい運命であったのかも知れない。しかし死後すでに十数年、彼の魂は今は静かに故山に眠っている。合掌しばし。

海鳥の声も聞こえる春の墓

蒼宵に浮かびて鳶の円えがく

 伊東駅から熱海に戻り、乗りかえて東海道線を沼津へ。駅ビルのレストランで遅い昼食を簡単にすませ、三芳町の蓮光寺へ向う。駅より徒歩数分、小高い台地に臨済宗蓮光寺がある。境内も広く墓地も整然、日の光りも明るく寺特有の暗さが感じられない。霊苑を入ってすぐ右手に鈴木家先祖代々の墓と並んで鈴木君の戒名を刻んだお墓がある。昭和五十八年三月に令息信広君が建てたものである。

 鈴木君は体も大きく心も広い頼もしい人物であった。柔道が強く、英語が得意であった。アメリカ仕込みの巻き舌の英語の発音は日本人離れしていた。大成したら文字通り大物になると期待されていたのに、数年に及ぶシベリヤ抑留生活が災いした。今更とは思うが残念至極である。

廓然たり東海の禅寺君に似て

 寺を辞して帰途三枚橋町の鈴木商店に立寄って見る。二十数年前に一度訪れたことがあるが、今は三階建ての立派な店舗に新築されている。不意の訪問に未亡人も令息もびっくりされたが、大変喜んでいただいた。お二人とも頗る元気とお見受けした。特に令息信広君は去る三月三日に結婚されたばかりの由。ご遺族がお元気なのは嬉しいことである。帰りの足取りも軽くなる。

 三月十二日(火) 曇
 前日までの雨もあがり、曇天ながら空は比較的明るいので十時半家を出て芝の正念寺に向う。

 渋谷から田町に出て正午頃正念寺に着く。現在は周囲もすっかり変って高層建物も林立する街中の浄土真宗の寺である。今までにも何回かお詣りに来たことがあるが、江戸っ子で賑やか好きだった金子君には相応しい環境かも知れない。お墓は彼が御両親のために昭和三十一年に建てたものだが、今は彼自身もそこに眠っている。ママ・マカロニ社の社長職が激職であったのか、丈夫そうな外見にも似ず病を得て一年程で逝って了った。未亡人のお力落しは本当にお気の毒であったが、令息、令嬢もそれぞれ立派な家庭を営まれ、双方にお孫さまを得られた今日の未亡人のお姿には明るさが戻ったといってよいであろう。子供好きであった金子君が存命であったら嘸かしなどと懐いつつ墓前に合掌する。

春寒や苔むして墓落着きぬ

時折りは囃子も聞こえん正念寺

 正念寺を辞して九品仏浄真寺に赴く。この寺は珂磧上人により開かれた江戸中期以来の名刹で、広大な境内、豊かな樹々、宏壮な建物等流石である。未亡人が墓参の便を考えてここに墓地を求められたと聞いているが、御宅も近くこの点泰地君は幸せである。お墓は一周忌の折に造築されたものであるが、まだ真新らしく、七回忌の塔婆ともども悲しみを誘う。泰地君は級友の中でも抜群に性純真、温厚なお人柄で稀に見る好人物、御長命間違いなしと拝察していたが、会社経営の御苦労のためか、不幸病を得て早逝されたのは残念至極である。しかし立派な令息を多数得られて未亡人はお幸せである。

君こそは上品上生梅の花

外人も鳩も遊ぶや九品仏寺

 このように卒業五十周年を機として今回亡友四名のお墓に詣でてみたが、約十年前卒業四十周年の折に亡友五名の墓参をしたときと比較すると、この胸を去来する思いに何か微妙な変化を感じるのである。もちろん多感な青春時代を同じ学窓に過ごした友人に対する懐かしさや、多くの仲間を残して先立った彼等の死を悼む気持ちは同じである。しかし前回には、比較的早く逝った友の死を悲しむ思いが強く、彼岸に去って了った友を此岸に呼び戻したいような歎きが強かったと記憶している。いわば此岸中心の追憶とでもいうのであろうか。

 ところが今回亡友の墓前に立ったときの思いは、たとえ現在幽明境を異にしているとはいえ、彼我の間は親近で、彼岸と此岸との間にさほど大きな隔たりがあるとは思われないということであった。既に相当の年月が経っているが亡き友は依然としてわが胸中に生きており、我もまたいずれ彼岸においてともに相語るであろうとの思いである。

 他人はこれを老人性痴呆症とするかも知れない。あるいは夢と現の識別が困難となった老人の白昼夢と見るかも知れない。または迫ってきた死に対する恐怖の無意識的な現れと見なすかも知れない。

 どのような見方をされても抗弁しようとする気持ちは意外に少ない。ただ亡き級友の墓前での暫時の合掌追憶がきわめて自然に彼我の親近感に及び、ひいては平素ややもすれば忘れ勝ちな死生の問題を多少でも実感する機縁となったということは確かである。そしてこの意味で今回の墓参は大変有難かった。平素日々の生活の中でできるだけ留意しているのが次の言葉であるからである。

メメント・モリ (死を忘れるな)