2組故光永八太郎妻 光永海紀江 |
此の度の記念すべき卒業五十周年の文集に寄稿をとのお話を頂きまして、前作の『波濤』に目を通し、主人の筆跡を追って行きますうちに、せめて此の五十周年の文集に、光永八太郎の名で寄稿する事の出来る位迄は生きてほしかったと、悔しい思いと無念さが新たに込み上がる思いです。 「二十一世紀までは生きたいなあ!」 入院致します直前の三、四日間は、私を伴い、自分の死期が判っているように、行って置かなければならない処を案内して廻り、又事務的に処理しておかなければならない事なども、全部一緒に済ませ、自分の病をしっかりと受けとめ、死と向き合っていたようです。 入院の或る日ベットの上で、 あれだけ固かったベルリンの壁が崩れ、束西ドイツ統一、そしてソビエトの最高責任者の日本訪問、恐らく彼もこのドイツ、ソビエトの変貌は、此れ程早い転回が来るとは考えることは出来なかったと思います。この事実をどのようにして彼に伝えればいいのでしょうか、歯痒くなります。 彼が亡くなりました当初は、淋しさ、悲しい想いでずいぶんつろうございました。又一人で、さっさと行ってしまってと、うらめしく思うこともありました。 しかし、彼は私に十二月クラブと云う、それはそれは大変素晴らしいお友達とそのお奥様方と、何にも代えがたい大きな大きな財産を残して行ってくれました。入院中から大勢の十二月クラブの方々に、心行くまでのお世話にあずかり、ともすればふと死んでしまいたくなる様な事もございましたが、やさしく見守って下さった皆様のお気持で、どれ程気強く支えられました事でしょうか。 此の文集の貴重な一ぺージを頂き、心より厚く御礼申し上げさせて頂きます。 おしまいになってしまいまして恐縮でございますが、十二月クラブ御卒業五十周年記念、お目出度うございます。お元気で五十周年を迎えられました皆様、本当に喜ばしいことと存じます。 まだまだ現役で御活躍のお方もいらっしゃると思いますが、これからは少し骨休みをなさり、御夫妻お揃いで、心ゆくまで楽しく残りの人生をお過し下さいませ。そして彼の希望でございました二十一世紀を、彼の分まで皆様で見て頂きますようお願い致します。 |