2組故光永八太郎妻 光永海紀江

 

 此の度の記念すべき卒業五十周年の文集に寄稿をとのお話を頂きまして、前作の『波濤』に目を通し、主人の筆跡を追って行きますうちに、せめて此の五十周年の文集に、光永八太郎の名で寄稿する事の出来る位迄は生きてほしかったと、悔しい思いと無念さが新たに込み上がる思いです。

「二十一世紀までは生きたいなあ!」
「二十一世紀を一日、いや、一時間でもいい、生きて此の目で見てみたいよ!」
 と口癖のように申して居りましたが、病気には勝てずに入院しまして二ヶ月、発病から三ヶ月、一度は帰宅出来るだろうと入院致しましたのですが、二度と帰ることの出来ない人となりました。

 入院致します直前の三、四日間は、私を伴い、自分の死期が判っているように、行って置かなければならない処を案内して廻り、又事務的に処理しておかなければならない事なども、全部一緒に済ませ、自分の病をしっかりと受けとめ、死と向き合っていたようです。

 入院の或る日ベットの上で、
「ある意味では、今の日本はもう、実質的には二十一世紀に入ったと云ってもいいかも知れないなあー、バンザイだよ」
 と一人言を申して居りました。自分の命の儚さを悟ったのでしょうか。自分だけの二十一世紀を、自分で勝手に呼び寄せて居るようにも見えました。現在の日本の状態を自分なりに理解し満足して居るように見えました。彼は彼なりに、二十一世紀を創造し覗いて行ったのだと思います。併し現実では、彼が亡くなりましてから、この世の中大きく変りました。

 あれだけ固かったベルリンの壁が崩れ、束西ドイツ統一、そしてソビエトの最高責任者の日本訪問、恐らく彼もこのドイツ、ソビエトの変貌は、此れ程早い転回が来るとは考えることは出来なかったと思います。この事実をどのようにして彼に伝えればいいのでしょうか、歯痒くなります。

 彼が亡くなりました当初は、淋しさ、悲しい想いでずいぶんつろうございました。又一人で、さっさと行ってしまってと、うらめしく思うこともありました。

 しかし、彼は私に十二月クラブと云う、それはそれは大変素晴らしいお友達とそのお奥様方と、何にも代えがたい大きな大きな財産を残して行ってくれました。入院中から大勢の十二月クラブの方々に、心行くまでのお世話にあずかり、ともすればふと死んでしまいたくなる様な事もございましたが、やさしく見守って下さった皆様のお気持で、どれ程気強く支えられました事でしょうか。

 此の文集の貴重な一ぺージを頂き、心より厚く御礼申し上げさせて頂きます。
 お陰様で、今では彼と共に、十二月クラブの皆様と御一緒できました、東西懇談会、海外旅行と、楽しかった時の思い出を胸にし、毎日を元気で過して居ります。

 おしまいになってしまいまして恐縮でございますが、十二月クラブ御卒業五十周年記念、お目出度うございます。お元気で五十周年を迎えられました皆様、本当に喜ばしいことと存じます。
 私ごとき若輩者が申し上げますのもおこがましい事ではございますが、此の五十年は、十二月クラブと、日本の国の成長の歩みが共に過ぎて来ました年月だと思うのです。従ってある意味で、皆様が名誉あります東京商科大学を御卒業なさいまして、各々の分野でご活躍なされ、それこそ額に汗し、戦中戦後と云う日本の国の一番大事な時に、しっかりとした基礎を造り、何んの迷いもなく若い方達を導き無我夢中で今日の日本を築き、仕上げて来られました五十年でもあります。本当に御苦労様でしたと申し上げたい気持で一杯でございます。

 まだまだ現役で御活躍のお方もいらっしゃると思いますが、これからは少し骨休みをなさり、御夫妻お揃いで、心ゆくまで楽しく残りの人生をお過し下さいませ。そして彼の希望でございました二十一世紀を、彼の分まで皆様で見て頂きますようお願い致します。
 十二月クラブの御発展と、卒業六十周年に向って皆様方のおすこやかであられますよう、私と、私の心の中に居ります彼(八チャン)と共々、お祈りしてやみません。つたない筆を擱きます。