2組  宮城 恭一

 

 昭和十五年(一九四〇年)は私が商科大学二年生の年で、私にとって忘れ難い年であり、昨年が満五十年に当る年である。当時私は山岳部に所属しており予科から足かけ五年程部活動を続けて来た。学部三年の連中は卒論とか就職とかで部活動は概ねフリーとなる慣しであった。そのためこの年の夏の合宿のリーダーをつとめさせられた。その合宿計画は北アルプスの大縦走で、針の木から入って平の渡、五色ヶ原、薬師岳、双六、槍ヶ岳を経て上高地へ下山する約十日間というものであった。その三年前の昭和十年の夏、剣沢に一週間の合宿を行った後有志約十名と剣から立山、五色ヶ原、その先はこの度と同じコースで上高地へ下るもので天幕による縦走を行って大成功した経験がある。このことから今回も山小屋に頼らず天幕による計画になった。その代りかなり重い装備となった。

 いよいよ出発となり七月十二日夜一行十三名(なにか不吉を感じさせる)、重い荷を背負い大勢の部員先輩に見送られて新宿駅を後にした。翌日は黒部トンネル(当時はない)の入口に近い大沢小屋の附近にて泊。次から二日は荒天で滞在、七月十六日快晴に恵まれ針の木峠をこえ平の渡にて幕営、十七日五色ヶ原に早目に着いて幕営。問題は十八日だ。

 快晴であった。七時半出発薬師ヶ岳を目ざす。鳶山を越えて暫くたった頃、歩く右側が山、左側が谷という傾斜地を横切る道で左側の谷は道端に生えている灌木に遮られて深い谷であることは判らなかった。一行のうち新入生予科一年の友田純一君が何かにつまずいたのかアッという間に転落していった。早速倒れた所に行ったが頭部裂傷で意識なし。直ちに計画中止、附近に天幕を張って収容し手当をしたが間もなく死去。山田亮三君(当時本科一年)に通報、連絡に走ってもらった。

 大変なことになった。御両親に何と言ってお目にかかれるのか、その他関係の方々に顔を向けられるのか、山岳部創立以来約二十年無事故の伝統を無にした。とに角大変なことになった。

 友田君の父君は「トモサン」という胃腸薬を製造販売されていた友田製薬の社長であられ、立派な方であった。我々としては何よりの救いであった。

 話をもとに戻して、遭難地点へは翌々日の朝、山田君が巡査一人、人夫二人と一緒に戻って来た。その日のうちに五色ヶ原ーザラ峠を経て立山温泉へ下った。ここで茶毘に付すこととなった。

 意気消沈していた我々を勇気づけてくれたのは立山温泉へ東京から駆けつけてくれた部の先輩、部員、大学の先生方であった。常盤敏太、太田可夫、西川正身の三先生が来られた。特に西川先生は予科の山岳部長をされていたが、私が予科時代に、先生が探偵小説(今では推理小説と言われる)を好まれることを知って先生の荻窪の自宅へたびたびお邪魔し英米の原文の小説を借りたり貸したりしていた。親しく尊敬していた西川先生が打ちのめされていた私を慰め励ましてくれたときは思わず泣いてしまった。

 私は子供の頃から探偵小説のとりこになり、雑誌「新青年」を愛読し、博文館の世界探偵小説全集、春陽堂の探偵小説全集、改造社の世界大衆文学全集を読みあさった。改造社の全集は岩窟王、三銃士、紅はこべ等探偵小説でない物も多くそれ等も読んだ。西川先生はすべて御存知で、特に英国の女流作家アガサクリスティ、ドロシイセイヤーズがお好きであった。当時英国で出版されたばかりのセイヤーズの「ナインテーラーズ」を入手されていて、借りて読んだことが忘れられない。ナインテーラーズとは九人の洋服仕立人かと思ったが、教会の鐘のつき方の一つの名前で、鐘の中へ頭を入れて鐘をつきその衝撃で殺人が行われるというものであった。私も先生の好みにひかれて、現在まで英国の女流作家の著作を読んでいる。それらは何とも言えぬ気品があり親しみを感ずる。PDジェームス、ルースレンデル、パトリシアモイーズ、マーサグライムス、クリスチナブランドがそれであるが、出版されるとすぐ買ってきてパラパラと見て書棚行きが多い。なかなか読む時間がない。そのうちに読むつもりでいる。

 西川先生が傾倒されたのはアメリカの作家アンブローズ・ビアス(一八四年-一九一三年)で先生は学生時代から興味を持ち、その研究に執念を持ち続けられた。昭和三十年に岩波文庫からビアスの「いのちの半ば」の翻訳を出版され、その後研究の成果「孤絶の諷刺家アンブローズ・ビアス」を昭和四十九年に新潮社から出版された。おそらく先生の畢生の大作と思う。かの芥川竜之助もビアスに注目し「彼は毛色の変った作家で、短篇小説を組み立てさせれば彼程鋭い技巧家は少ない。批評家がポオの再来と言うのは当っている。そして彼が好んで描くのはやはりポオと同じように、無気味な超自然の世界である」と、彼の随筆「点心」(大正十年)に書いてある。ここにも西川先生が推理小説ファンであるという確かな素地があった。

 スマトラ北部に駐屯していた部隊にいた私は、シンガポールヘ移され抑留生活をさせられた後、昭和二十二年の暮に復員した。その後も西川先生とは、当時横浜の古本屋にはGIの置いて行った小説、ペンギンブックとか、ポケットクライムブックがあって、面白そうなものを見つけては先生宅を訪ねた。その後御無沙汰していたが、一橋山岳部の岩崎利一さん(昭十五)が先生と親しくしておられることを知り、昭和六十年頃から、毎年先生を二人で銀座へお誘いし昼食を共にしながら懇談の機会を持っていた。先生は大変喜ばれておられたが、はからずも、昭和六十三年一月末に八十四才で他界された。御冥福を深くお祈りする次第である。

 五十一年前山での遭難事件を起した年の秋十月には父の死を迎えた。事件直後は毎日のように友田家、大学事務局(大刀川先生が居られた)、針葉樹会その他に、事件の報告や打合せ等で多忙であった。父は私に何か困ったことがあったら俺も力を貸すぞと言ってくれたことが頭に残る。父も一橋の高商時代の出身(四三会)で、実業で苦労したせいか、私に役人になれと言っていた。また私の所属していたゼミの米谷隆三先生からもすすめられ、心機一転役人をめざし、大学の図書館に日参して勉強に専念した。そのある日図書館の知らせで父の危篤を知り急ぎ帰宅したが、脳溢血で意識はなくいびきのみ大きく、暫くして亡くなった。

 また話は山の遭難の話にもどるが、それは再び山中で同行者の死に直面したことである。戦後復員して通産省の役人生活にもどったが、当時の経済社会の情況からと多忙のために、山登りから遠ざかっていた。昭和四十年代に入ってから山に引かれて再び登り始め、友人にも恵まれ月に二回位のぺースで登った。そして昭和五十四年四月一日また同行者の山中での急死に遭遇した。通産省の現役、OB、その他の同好者が集って山登りやスキーをする一水会という会がある。その会員三名、先輩の中島征帆氏、入江明氏と小生とで身延の近くの市川大門町から四尾連湖へ歩きそこで一泊、次の日は蛭ヶ岳から三方分山へ登り精進湖に下る計画であった。市川大門と言えば今年の高校選抜野球に決勝戦まで行って措しくも敗れた市川高校のある町である。その日は三方分山までは何事もなかったが、その下り道で左側には精進湖右側には蛭ヶ岳など来し方が見える素晴らしい景色の所の稜線上で突如として中島先輩がばったりと倒れた。入江先輩は現地に残り私は空身で走るようにして下り、精進湖畔の山田屋ホテルに急報した。ホテルの主人はたまたま消防団の副団長であったため直ちに団員を集めて救援に向かってくれた。倒れた時は大きないびきがあり小生は亡父と同じく脳溢血かと思ったが、その後ふもとでの検死の結果、心筋梗塞であると判った。そのため遭難死という名称は逸れたが、その時入江さんと小生の対処については、学生時代の前述した遭難時の経験が無意識乍ら役に立っていたと思われる。一度あることは二度あるということを痛感させられた。

 つい先日(平成三年四月十四日日曜日)、三方分山に登り精進湖畔の例のホテルにて十三回忌の会合を持った。十数名集まり盛会であった。

 追記
 卒業五十周年になり、五十年前を思い起すと、戦争という暗いべールに長い間とざされていたように思う。特に戦災で家を焼かれ過去の記録を焼失した私には、学生時代の山の遭難事件はあまり語りたくないことであった。しかし五十年経って心境も変化しこの事件の詳細な記録を求めていた所、一橋山岳部の先輩で日本山岳会の重鎮である望月達夫氏(昭十三)が当時の針葉樹会報(通巻第九十一号昭和十五年十一月刊)のコピーを恵送して下さったおかげで、この文を書くことができた。同氏に心から感謝の意を表する。