7組  宮崎 静二

 

 戦火の中を潜り抜けて来た古い日記帳『遠保栄我記』(おぼえがき)から、開戦と終戦の頃の一駒を抜き出してみた。「ゴマメノ歯ギシリ」に似た、かみ過ぎの駄文ながら、若き日の一つの思い出である。

   『昭和十七年六月三十日(土) 曇
 自分は今元の古巣の長崎に居る。自分は今軍人になっている。……
 自分は昨年海軍主計科士官採用の試験を受けた。時は十一月、陸軍徴兵検査は未だであったが、如何に悪くとも第二乙種にはなれそうであった。時世が時世であり、どうせ兵役に服するものならば、今迄に自分が歩んで来た経済商業系統の知識を役立てたかった。それには陸軍に行ってからでも、経理部の幹候を通ればいい筈であった。でも自分は海軍を志望した。楽な訓練、良い待遇と言う餌に飛付いたものではない。自分は幼時より海に親しみを持っていたし、又何よりも、人を生かして使う海軍の行き方に好感が持てたからである。

 陸軍の検査は十二月始めにあった。結果は意外にも第三乙種であった。自分は恥しかった。或人は結局その方がいいと言って慰めたり、羨んだりしたけれど、自分にはそういう人々は一顧だに価しなかった。……
 然も其直後記念すべき十二月八日はやって来た。試験勉強に疲れて朝寝坊した自分の耳に、宣戦の大詔と戦況の発表が大きな音を立ててぶつかって来た。自分はその時「よし俺も行くぞ」と誓い、又咄嵯にそれが言葉となって飛出して来たのを憶えている。
 又それから数日後海軍の発表では、自分は主計科士官に採用方内定された。その通知には、「採用不望者は直に申出づべし」とあった。実際自分の知っている人々で、この文言通りの事をした者が若干あつたのである。友人達は自分に「断れ」とか、「お気の毒に」とか、冗談交りに言う事があった。以ての外である。この日本の大事、父祖同胞の大変の際、若き我等がその難を負い、之を打破しなければ誰か之をなすものがあろう。……かくして自分は一月二十日海軍主計中尉となり、補修学生として経理学校に入校した。思ったよりも辛く、然し陸軍の新兵に比すれば尚問題とならない訓練であった様である。……
 大東亜戦争はどんどん発展した。明らかにそれは日本にとって有利な発展であり、目覚しい勝利であった。それは自分に大きな抱負を抱かせて来た。……
 軍人となって四ヶ月、自分等にはもう卒業は間近に来ていた。自分は先ず第一に南洋占領地勤務を志望した。……

 卒業の数日前、道場に集められた自分等に対し、指導官から一々の任地が発表された。「宮崎学生」の呼声に勢いよく挙げた自分の手は、「艦本出仕兼航本出仕(長崎監査官附)に補す」の宣告によって、力なく下げられた。それから数日間は、実に不愉快な日の連続であった。或いは艦に乗り、或いは外地の第一線に向う同僚達とは、口もききたくなかった程である。之等の人々は各々昂奮して、来るべき活躍の日を語り合っていた。……とまれ自分はかようにして長崎に居る。三菱造船所、三菱電機、東海電極田ノ浦工場の三つを担任している。:.…
 だんだん落着いて来る様な気がすると共に、原価監査と言う仕事に対しても、しっかり勉強したいと言う欲望も起って来る。……』
 十八年十一月一日大尉に進級、翌十九年三月十日玉野監督官事務所(後に岡山に移転、岡山監督官事務所となる)に転任した。監督官附の「附」もとれて監督会計官、監査官となり、仕事上の主な相手先は三井造船となった。
 戦局は愈々急を告げ、危を加えて行った。二十年六月二十八日には岡山も焼爆を受け、市街は一夜の中に灰燼に帰し、事務所は予て決めてあった少林寺に引越したが、そこで遂に終戦の日を迎えた。

   『昭和二十年九月二十二日 雨
 記憶すべき八月十五日。その頃は少林寺の事務所もやっと板について、家は焼かれ身は焼かるとも燃えさかる敵愾心は少しも崩れず、之からだいぶ頑張心に自ら張りきっていた時であった。尤もその直前には広島、次いで故郷長崎で原子爆弾の洗礼を受けて惨害甚しく、引続きソ連の参戦という好ましからざるニュースが続いていた。自分等の張りきりは又却ってかかる悪条件に対する反発に他ならなかった。そして当日は歴史上未曽有の重大発表といふものを、事務所の一同を整列させてラジオで聞いたのである。それ迄に自分としても、後に判ったような事の真相を全く予感しないでもなかったが、心はやはり最後迄の抗戦を信じていたし、さういふ報道でありたかった。然るに青天の霹靂は畏くも上御一人の御声を以て下って来た。他の多くは朗々と然も切々たる勅語の意味を、ラジオの雑音もあって、受取る事が出来なかったようである。けれども自分には直感された。名状し難い感動が起った。そして後を受けた内閣告諭やら、又ラジオ解説やらは自分の直感を裏書きしていた。一同は騒然となった。食卓についた自分は涙が溢れて、一塊の飯をのどに通すのが難しかった。午後皆を集めて、自分はこの重大事に処するの覚悟を訓示した(首席監督官不在のため)。謹みて力及ばざるの罪を謝し、国家の再興を期し、徒に惑わず、軍紀風紀の維持に努めるよう語り乍ら、溢れる涙に苦しんだ。唇がぴくぴくけいれんして一層言語を妨げた。勤務員の総てが泣いていた。……

 この結果は一体どうした事であろう。科学戦に負けた事も大きな理由である。恐るべき原子爆弾の発見が、彼我所を代えていた場合の結果を考えればその感は一層深いものがある。
 国際情勢の不利も大きな原因であった。唯一の中立国、或る筋では寧ろ与国と目していたロシアの対日戦参加に対する防備手段の自信のなさが、如何に大きな絶望感を与えたかは想像に難くない。
 けれども春秋の論法に非ず、自分の信ずる所に依れば、敗戦の因は明かに日本人自身の頼りなさにあったのである。……
 さあれ戦いは終った。自分は之からどの道を進もう。目的は一つしかない。それは国家の再興のみ。自分には岡山の焼爆の際、道路にころがっていた裸の屍体が、仁王の様な姿で凝視していた眼の意味を忘れる事が出来ない。再興の道は文か武か。いずれにせよ再び光栄ある帝国に還す為に、人の和を保ち互いに切瑳琢磨しなければならぬ』
 九月二+日に復員の辞令は貰ったものの、会計等の後始末のため、煩雑な呉出張を三度、東京出張を一度余儀なくされ、漸く長崎に帰れたのは十一月七日夜であった。