6組 三好 啓治 |
昭和五十六年十二月発行の卒業四十周年記念文集に「公職四十年」を書き、その最後に「この記念文集が出るころは、公務員もやめて自由な身になっていると思うが、七十歳古稀まではがんばらなければと思っている」と結んだ。その古稀を昨年(平成二年)三月に迎えたが、十年は早いものである。こうなると次の十年までもがんばりたいものだ。 昭和五十六年七月、任期途中で山口県公営企業管理者ポストを後進にゆずった私は、五十七年四月から私立徳山大学で英語を教えはじめた。私には学術論文がなかったから教授になれなかったのである。英語を教えながら小論文を書き、(例えばアメリカ・ビジネス法についてはよくかけた)五十九年度から講座をもとうと思っていたところ、五十八年十二月突如として別の話が出てきた。 それは山口市にある私立中村女子高校の理事長になれということであった。この女子高は県下二十私立高校で最も古い名門であるが(慶応三年創立)、生徒数が四百を切り、経営にあえいでいた。昭和三十一年山口県庁に入ったころ、この学校のそばに住んだ縁もあり、一肌ぬごうと思って引き受けた。現在就任して八年目であるが、生徒数は二倍になり、そのうえ昭和六十一年には短大クラスの看護専攻科を設けたくらいである。 昭和六十年四月に徳山大学の理事になったが、この年の九月から円高ドル安となった。その直後、私は米国アナポリスであった海軍歴史シンポジウムに出席した。これは県庁をやめて暇ができたので、過ぐる太平洋戦争中の峠、ミッドウエイ海戦の情報戦を研究していたら、あちらの情報士官R・ピノー元大佐と知り合いになり、その紹介によるものであった。この研究はのちに自費出版したが、要はミッドウエイ海戦前に日本海軍の暗号書はまだ取られていなかったという自説を固めたものである。 昭和六十一年四月に中村女子高校に看護専攻科(二年課程・高卒四十人定員)を発足させた。ここには高校生の看護科があり、三年で准看護婦の資格をとるが、正看護婦になるためには、あと二年の勉強と実習が必要となるのである。これまでに既に三回卒業させたが国家試験に二回は全員、三回目は一人を除いて全員合格しているほど力がつき評判が良い。彼女らの英語を私がアメリカ婦人と一緒に教えている。 昭和六十三年十月に前述の「太平洋海戦秘話」を二千部自費出版した。防衛研究所などにも贈呈し、喜ばれたが、米太平洋艦隊司令部の日記のマイクロフイルムも手に入れ、これを全部読むなど相当な時間をかけた自信作である。 平成二年は私の古稀の年であると共に、大きな変化のあった年である。 この大学と短大は、地元徳山市や地元にある出光興産鞄凾フ援助もうけていて、市民は市の大学と思っているが、大学には六割以上の学生が県外から来ている。野球、サッカー、駅伝、レスリング、ゴルフ等が強い。女子短大は県内出身女子が殆どである。前理事長の四男高村正彦代議士(自民・河本派)を理事長にという動きもあったが、本人が強く辞退され、いまは一理事である。四月に理事の改選を終わり、理事長に再任された。大学は新しい学部ーー例えば情報学部ーーの新設と、国際化に向けて努力している。十月二十日に二十周年記念式典を挙行した。キャンパス内に記念事業の一つとして、松下村塾(明治維新前の長州の志士吉田松陰が教えたところ。萩市にある)の構築をした。 平成二年二月売り出しの「中央公論」三月号に私の小論がのった。題して「吉田松陰の二通の投夷書ーーペリー艦隊乗組員W・スペイドンニ世日記抄」とある。 さて、その吉田松陰は十五才のとき、世界に眼を開くよう教えられ、とくに佐久間象山に師事し、江戸で入門した。 さて論題のスペイドンニ世日記であるが、一八五二年三月から一八五五年二月までのペン書きのコピーで、平成元年八月ピノー元大佐からワシントンでもらった。原本は米海軍文庫にある。ピノー氏は太平洋戦争時の戦史や訳書も出したが「ペリー日本航海記」も出版した。そこで私は吉田松陰とペリー艦隊の関係を話し、新しい資料を探しているといったことがある。氏は私の熱意を買って、門外不出(日本では私だけがもっている)の資料をくれたのである。読みにくい手書きを判読していくうちに新しい事実が出たので中央公論社の江刺次長に連絡した。中央公論に出たのは二回目である。 六月一日に「明治長州の三宰相」を自費出版した。そのまえがきの一部にこう書いた。 十一月三日付で、はからずも勲四等旭日小綬章の勲章をいただいた。勲章をもらってすぐ思い出したのは、海軍の同期生で命令一本で前線へ出て戦死した男や、九州鹿屋基地から特攻隊として飛び立った男たちである。彼らこそもらうべきである。生き残った私は彼らと別れて五十年近い。 日本の現在の経済的繁栄は日本国憲法第九条のおかげである。この条文のために軍事費が一般会計の一割にも達しない。この第九条は特攻精神を恐れたマッカーサー元帥らが日本に軍隊をもたせまいとしたからである。むだな軍拡競争をやったソ連が国民の食べ物に困っている現象がこれを証明する。特攻隊だけでなく、凡ての戦争犠牲者に感謝しなければならないという気がしてならない。 平成三年三月十二日に十二月クラブで大学関係者のシンポジウムが計画され、直前まで私は出席の予定であったが、こちらの大学の学長問題がおこり、やむをえず欠席した。この問題を片づけるのが今の私に課せられた緊急課題である。 |