3組  水田 洋

 

  (1)

 中国四川省成都の西南財経大学の一室で、これを書きはじめる。なぜ重慶から鉄道で二十時間という奥地でアダム・スミスについて講義をすることになったのかといえば、この倫理学の助教授が、河東師範大学の大学院にいたときに、日本に留学した友人が、ぼくが翻訳したスミスの『道徳感情論』を貸してくれたことから、スミスとその訳者に関心をもちはじめたというのが、きっかけである。

 ある日思いがけない成都からの手紙をうけとって、開いてみると日本語だった。妹が日本語の教師だということもあり、彼自身も一応日本語ができるので、手紙の日本語にはほとんどまちがいはない。用件は、『近代人の形成』をはじめとするぼくの著書を送ってくれということで、それを翻訳したいとも書いてあった。かんたんに翻訳できないところもあるから、講義にいってもいいといったことが、現実になったわけだが、きてみておどろいたのは、かれは英語ができないのに、『道徳感情論』そのものまで翻訳するつもりでいることである。つまり、ぼくの日本語訳から中国語訳をつくろうというのだ。もちろん、明治時代に大島貞益は、リストの『国民経済学』を英訳から重訳したし、『資本論』の最初の朝鮮語訳も、たしか日本語訳からの重訳だったはずである(訳者は催英徹。予科の学生大会で、民族と階級の差別なしにガクモンができるようにと、さけんだ上級生)。だから、スミスの重訳も、しかたがないのだろうが、当の訳者としては、もしぼくが誤訳をしていれば、それが中国にまでひろがってしまうということが、心配になる。

 ぼくはここで、アダム・スミス論や翻訳論をやるために、こんなことを書きはじめたのではない。卒業五十年は、ぼくにとってはスミスとともに五十年ということになってしまったと、おもったからだ。五十年どころではない。予科の一年の修身(!)で上田貞次郎学長(堀潮予科主事だったかもしれない)から、『国富論』を読めといわれ、林英雄と鈴木英二と、林のうちでエヴリマン文庫のテクストを使って読者会をはじめたのを起点とすれば、五十五年ということになる。

 林も鈴木も死んでしまった。とくに鈴木は、府立一中から四年で予科にはいっておなじクラスになり、文芸部、新聞部、高島ゼミでいっしょであったうえに、戦時中はジャワでまためぐりあって、よく飲んだ仲間である。そういえば、ボートのクラスチャンで優勝したクルーも、石原、熊谷、匹田と、三人が侵略戦争の犠牲になってしまった。かれらの戦死のしらせを、ぼくはジャワできき、コックスとして号令をかけた日々をおもいだした。最初の夏休みに蓼科にのぼったグループも、城所、芝崎、戸辺、林、鈴木が死んで、残っているのは湯原とぼくぐらいなものだろう。

 小平の雑木林の緑のなかに、赤いぼけの花が咲き、夕暮にはくいなが鳴くという、われわれの青春の風景は、雑木林の宅地化とともに消えうせて、いまではわれわれのなかの残像としてしか、残っていない。蓼科・八が岳→麓の落葉林のなかの、ふるような郭公の声もそうである。往時茫々というべきか。

 亡友葬送を続けよう。匹田については、『ある精神の軌跡』にも書いたから、くりかえさないが、かれは卒業のときに堀主事との単独交渉で、予科の助手(講師かもしれない)になっていたので、生きていればぼくらにとって(ぼくの妹と結婚していたので)、よき論争相手となっただろう。匹田を介して知ったもうひとりの亡友は、専門部出身の石井幹一郎であった。かれは匹田と府立一商からの友人であり、学部では、山田秀雄の検挙のあとの、いわば崩壊期の一橋学会の、最高の委員長であった(ぼくの記憶にまちがいがなければ)。よくそういうときにひきうけたものだとおもうが、匹田は「カンちゃんなら大丈夫だ」といっていた。

 匹田の信頼は、その当時も、また戦後も、うらぎられなかった。戦後というのは、十二月クラブの文集のかれの意見である。筋のとおった現状批判の文章を読んで、ぼくはその若々しさにおどろくとともに、前にあげた匹田のことばをおもいだした。どこかで会う機会があるだろうとおもっているうちに、かれは急逝し、ついに卒業後一度も会えないままになってしまった。その後、学園史の編集がすすんで、かなりの量が書かれているが、ぼくの知るかぎり、予科中心で、専門部・高商の影がうすい。別にそういうものが書かれているのかも知れないが、やはりまとめられないのはまずいとおもう。あるいは、高商出身者はそれぞれ個別の高商にわかれていて、まとまった歴史にならないのだろうか。

 高商出身者では、もうひとり、神戸高商からきた朝鮮の玉明燦をおもいだす。かれは高島ゼミでは白井太郎と仲がよく、「祖国を持たぬ者」といっていた。生死不明ではあるが、体格もよかったから日本軍国主義が身のがしたはずはない。催英徹のように生き残っていれば、噂ぐらいはきこえてきただろう。

  (2)

 自分のアダム・スミス暦を書くつもりだったのに、脱線してしまった。回想にはどうしても感傷がつきまとう。

 アダム・スミス暦の方では、上田貞次郎と読書会のつぎにくるのが、高島ゼミである。一年のテクストが『国富論』で、そのすこし前(一九三七年)に出版されたモダン・ライブラリ版で読んだ。二年のテクストは、ホッブズの『リヴァイアサン』で、これもまた一年つきあうことになるのだが、スミスに関していえば、この年(一九四〇年)は、かれの没後百五十年にあたっていた。多少自慢していいとおもうのは、開戦一年まえの軍国主義的風潮のなかで、『一橋新聞』でスミス没後百五十年記念の特集を組んだことである。執筆筆者は高島善哉、大河内一男、岸本誠二郎で、当時のトップ・クラスであった。

 この年には、高島先生編の『国富論抄本』が出て、ぼくは校正のお手伝いをした。そのお礼に渋谷の双葉とかいうレストランでフランス料理をごちそうになり、浅草の漫才にでかけたのはよかったが、ぼくは交番裏とは知らずに立小便をしてつかまった。漫才では、ヨーロッパの戦争の勝利者を、スターリンと予想していたのが印象的だった。

 翌年十二月には、日本が太平洋戦争に突入し、われわれも大学からおいだされて、おおくが兵営にむかう。しかし、ぼくのアダム・スミス暦のなかでのこの年は、高島先生の『経済社会学の根本問題-経済社会学者としてのスミスとリスト』が出版されたのに加えて、「経済学名著選集」の一冊としてのアダム・スミス『グラスゴウ大学講義』の下訳を、新宮徹也、山崎昶と分担してやった年であった。この選集は、杉本さんのマーシャル、山田雄三さんのミュルダール、上原さんのランプレヒトを出しただけで戦争のために継続不能となり、スミスは戦後にぼくが復員してからようやく出版された。ミュルダールの訳書には、協力者として湯原孝久、田中林蔵の名前がしるされていることを、つけくわえておく。

 太平洋戦争中のぼくは、まず東亜研究所でアメリカ戦時経済の調査をして一年をすごし、その間に卒業にまにあわなかった卒論をしあげて、一九四二年末に神戸から安芸丸でジャワヘむかって出発した。ジャワでは主として農業経済の調査をしていて、そこでめぐりあった村井秀雄自動車隊長と武川祥作主計大尉に、いろいろお世話になった。こちらは、軍人・馬・犬・鳩・軍属といわれた最下級の自分だったのである。終戦後まもなく、隣の島のセレベス(スラウェシ)で、通訳として日本軍の降伏を援助せよとの命令をうけ、翌年五月まで捕虜生活をしたが、こちらは敗戦大歓迎で、屈辱意識は全然ないから、楽なものだった。もしこれがシベリアだったら、ぼくの肉体はもたなかっただろうし、いまごろスミス暦など書いてはいない。

 本格的なスミス暦は、復員して特別研究生(戦時中に研究者養成のためにできた奨学金制度)となり、前記の『グラスゴウ大学講義』の翻訳を、見なおして出版したころにはじまる。名古屋大学助教授としてブリティシュ・カウンシルの留学生試験を受けたとき、最初はレドマンの質問に「上田貞次郎」とこたえれなくて失敗したが、二回目は、上田タッちゃんが誘導尋問をやってくれたおかげで、二位で合格した。このときのテーマはアダム・スミスであり、留学中に大河内一男さんの示唆で開始した「アダム・スミス蔵書目録」は、福島大学経済学部の『商学論集』に発表したものが、ピエロ・スラツファ(ケインズの高弟といっていいだろう)の目にとまって、ケンブリジ大学出版部から出版され(一九六七年)、こんどはおそらくこれがもとで、スミスの故郷力ーコディ市に招待されて、スミス生誕二百五十年の国際シポジウムで講演することになった。議長ロイ・ハロッドは、アメリカの友人に、ぼくのものが by far the best だったと、語ったそうである。

 そういうことで、いつの間にか、外国では日本におけるアダム・スミスとスコットランド啓蒙思想の研究の doyen (長老)とよばれ、国内では内田義彦、小林昇両先生とともに「戦後のトリオ」とよばれるようになってしまったが、本人は「少年老い易く学成り難し」で、日暮れて道遠しの感が深い。名古屋に赴任するとき、高島先生が、「学界の水準を高める仕事を」といわれた期待にそえないうちに、先生を失った。

  (3)

 こうしてスミス研究をしているうちに、力ーコーディのバスの女車掌の、日本ではスミス研究で食べていけるのかという質問には、こたえることができたわけだが、もうひとつ、内外で数回うけた質問は、なぜ母校に残らなかったのか、ということである。答はきわめて簡単で、社会思想史をやりたいのに、社会思想史講座の教授(大塚金之助)のごきげんを損じたということである。高島先生は、ぼくを残そうとしたが、大塚金之助は先生の恩師であって、正面から抵抗できる関係ではなかった。

 最近では一橋出身の若い研究者から、ぼくが一橋にいてくれたらといわれることがあり、大学紛争のときに、「水田を名古屋にやったのは失敗だった」と教師の間でささやかれていたともきいた。しかし、ほんとうにどっちがよかったかといえば、どうも名古屋にきた方がよかったようである。ぼくは名古屋の泥くささとケチくささがきらいだ。しかし、東京にいたら、便利な書き手として、とっくにジャーナリズムにつぶされ、使いすてになっていただろう。また、名古屋大学経済学部についていえば、旧七帝大のうちで同時に経済学部ができた北大、阪大にくらべて、研究者生産系数がはるかに高いのは、ぼくのゼミの出身者たちのせいである。だから、まあまあの状態で卒業五十年をむかえることになるが、日本の社会と大学についての展望は暗い。