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7組 森 清 |
卒業五十周年記念文集「波濤」第二号発刊、心からお芽出とう。私も本年十月で満七十九才、兎も角ここ迄生き得た広大無辺の四恩に感謝の念一入である。零細企業の悲しさ、ご多聞にもれず人手不足のもと新学期を迎え・またテニス教室も始まりテキストの原稿書き・家庭果樹の手入や接木・昆虫の飼育観察等々転手古舞のなか、今回も亦文集締切り期日が過ぎ、委員岩本治郎君に多大の迷惑をかけてしまった。心からお詫びします。 さて、むかし人生五十年、今や否応なく八十年時代を迎えようとしている吾々は残された人生を個人として、また家族や社会の一員として、どのように生くべきか。私は独身時代の不養生から現在まで五十年以上も慢性胃下垂症で、その間体重四十七キロ(±2キロ)の痩身。ここ十年来、毎年一回一日ドック入りの結果は、低血圧とのみ信じてたのに高血圧、心電図は精密検査を要すと出ている。然し自覚症状がないので相も変らずテニス三昧。公的機関のテニス教室を二〜三委嘱されて実施する外、日程の許す限り京都・大阪・神戸・浜松等の各テニス大会に出場している。 昭和六十三年九月アジアで初めて、第十六回リハビリテーション世界会議が東京で開催され(中央集会)、引続き地方集会が滋賀県で開催された。 私は第二分科会に所属し、長谷川恒雄氏(伊豆韮山温泉病院々長)、佐古伊康氏(京大医学部講師)、豊田一成氏(滋賀大教育学部助教授)のあと、私は与えられた課題「あなたのスポーツ実践」に対し、自身のテニスとテニス教室の体験報告をした。 実例1、 三、 提言 このように、高齢化社会から高齢社会へと急速に進むなかで、厚生省では高齢者の自立と明るい長寿社会を目指して、昭和六十三年度より高齢者健康福祉祭全国大会(所謂ねんりんぴっく)を開催して、スポーツ、文化、娯楽等の交流を推進している。 「波濤第一号」用原稿が締切りに遅れ没としたものが出て来たので、取捨して夜迷い言を送る。言わば十年前の回想記である。 ある「テニスに憑かれた」男 「三度の飯よりテニスが好き」。彼はテニスの会合で、初めて自己紹介を求められると、いつも決ってこう切り出すのである。彼は低血圧夜型なので、早起きがとても辛い。朝食抜きで大会に出たり昼食を忘れることがよくある。テニス教室が十二時に終る。生徒が残って練習していると、つい仲に入ってしまう。そのうち、以前卒業したグループがやって来る。またその仲間になって一緒にやる。気がついたら時計は既に四時を廻っている。と言った具合である。 彼は大正元年、軟庭王国、岡山県倉敷市の生れ、当時選手であった兄のお古のラケットを振り廻し、飽きもせず壁打をして遊んだのが小学三〜四年の頃、五年生になって、テニ久、陸上、鉄棒等スポーツ万能の三宅実先生が受持となり、昼休みと放課後にゲームを習った。 彼の進んだ岡山一中は歴史の香り豊かな烏城本丸内にあり、テニスコートは城の下桜に囲まれた一面のみ。入部の選考基準は通学時間の少ない事と小学校大会の成績との二点に専ら絞られ、残念ながら不合格となった。新入部員が球拾いばかりでロクに打たせて貰えない光景を見て、口惜しさを僅かに慰めながら、土曜日には大抵母校に立寄って、先生、旧友、後輩とゲームを楽しんだ。一方脱落もせず厳しい練習に堪え抜いた部員は学年の進むにつれて、実力をつけ浜寺における全国大会で見事優勝、一中庭球部の名誉と伝統を守ったのは流石であった。 大学は国立に移転して間もない専門部の新学舎である。テニスコートは櫟林を切り開き、赤松に囲まれた六面で正式のクラブは硬式のみである。軟式はその内二面、ウィークデーには近藤荒樹先輩のコートにも入らせて貰って、好きな連中が教職員を交え、自由に楽しむテニスであった。偶然の事ではあるが、前記岡山一中の友治部勲君(現在岡山県久米南町長、同商工会議所会頭、「平成三年現在他界」)も専門部に入部して来ていた。治部君は流石に全国の覇者、その実力は抜群であった。これは良いコーチが得られたと喜んだのも束の間、入学間もない昭和六年五月、国立移転完了記念全学軟式庭球大会が開催された際、治部君はまるで赤ん坊の手を捻るように、悠々と優勝してカップを攫ってしまったものだから、間もなく硬式庭球部に引抜かれて行ってしまった。 彼の兄は既に社会人(農林省役人)となって、全国ランキング十位以内に位置するベテランであったから、大学へ来て貰ったり、兄の所属クラブヘ行って指導を受けた。当時新聞社主催のオープン大会が各地で開催されていたが、近くの阿佐ヶ谷、立川、八王子等のローカル大会に兄と組んで出場したり、友人や先輩を兄の前衛につけたりした。その中に豪放磊落で心臓に毛の生えたような原田正三君と言う専門部の友人(愛称ギユーチャン)と、学部の秋草篤二先輩がいた(後に電々公社総裁となる)。どちらも、前衛の名手でよく優勝カップと賞品を稼いで来たものである。 軟式庭球部の創立 一橋軟式庭球部創立の話は以前から話題に登っていたが、彼は学部二年の時仲間と計って、同好会を発展的に解消し、田上穣治先生を部長に戴き、学部予科、専門部全学統合の軟式庭球部を創立、新宿の中華料理店で発会式を挙げた。先ず三商大定期戦を実施、続いて対青学戦、等対外試合の道を開いた。 話は前後するが、昭和九年三月養成所卒業と同時に彼は教師の道に進み、旧制愛知県立小牧中学校に四年九ヶ月、豊橋市立商業学校に三ヶ月奉職後、昭和十四年四月学部に入学した。学部卒業と同時に彼は養成所時代の恩師である森冨治郎氏(一橋の先輩で外国貿易業株式会社大正洋行を創立し、一方養成所で貿易実務の講師をしていた)の懇望により、婿養子縁組、森家に入る。その後も彼は静岡商業学校、大倉高等商業学校など教師の道を歩いていたが、戦局愈々急を告げ、大正洋行の従業員また殆ど戦場、或いは外地にあった。そして昭和二十年三月十日東京大空襲により、田園調布の自宅も、大正洋行の営業所、虎の門の大倉高商も、引続く空爆を受けて一挙に灰燼に帰すのである。彼は已むなく教職を退き、養家の郷里滋賀県に疎開、直ちに食糧確保のため、稲や野菜の種蒔きをして、暫らくは百姓かと覚悟を決めた。茲で兵役の話をはさむ。 彼が臨時召集令状(通称赤紙)を受けた第一回目は、日支事変勃発直後の昭和十二年七月二十九日小牧中学校生徒引率、白馬登山より帰途の車中であった。八月三日姫路輜重兵連隊に入隊、第一期初年兵教育終了後幹部候補生志願を半強制的に勧誘されたが、之を拒否、翌年一月末一等兵で召集解除。第二回目は昭和十六年九月の第二日曜日、彼は荻窪のコートで、伊奈重煕君、彼の兄、その他の常連とテニスをした後下宿に帰宅して見ると、父からの電報が待っていた。令状別紙には盛大な送別会禁止、通常の服装にて応召せよとあり、日米戦争突入前夜所謂「隠密召集」であった。五日後一橋の制服制帽、奉公袋一つのいでたちで入隊。司令官の訓示「お前達は既教育兵、これより野戦部隊に編入する。病気その他身体に故障ある者は正直に申出よ」と。これはしめしめと思った。検査は至極簡単、両手を前に突き出し指先を同時に曲げたり伸ばしたり、異常が無ければ合格である。この頃大学では十二月繰り上げ卒業が決定された直後であった。彼はテニスに夢中であったが、同時に卒論のことも気になり資料の収集で夜ふかしが多くなっていた。丁度夏かぜを引いて微熱が続いた時の赤紙であった。未だどこか学生の面影を残した若い医官の前で、制服制帽の彼は繰り上げ卒業の事、卒論で連日過労の為か時々胸に鈍痛を感ずる事を正直に申告した。医官は簡単な聴診の後「良うっし」と叫んで検査票に赤で「丙」のゴム印を押し別のテントを指差した。そこには片目のもの、びっこ、など故障者ばかりの一団があった。所謂即日帰郷である。彼は以前養成所卒業と同時に実施された徴兵検査は乙種合格で、以後数年毎に召集された簡閲点呼(一日軍事訓練)がピタリと止ったので不思議に思い兵籍簿を調査した所、「国民兵役編入」とあった。 昭和二十年八月十五日敗戦。原爆のお蔭とは言え、満州事変(養成所入学の年、昭和六年九月)以来十四年目、焦土を残して静寂が戻った。然し彼の植付けた田圃は一面緑の波を打っていた。彼は早朝の澄み切った青空を仰ぎ、緑の空気を思いっ切り吸い込みながら、教職に戻ろうか家業を継ごうか、まだ迷っている。中学生の頃から商業は嫌い、先生になるのが夢だったから。然し新聞、ラジオで東京の餓鬼道振りを嫌と言う程見せつけられて、遂に意を決し八月三十一日付で椛蜷ウ洋行に入社したのである。父は老骨を顧みず家族を養うため東京と田舎を往復しながら、本店の復興と営業に努め、彼は百姓を続けながら大阪支店の復興と営業にそれこそ不眠不休で駆け廻った。父は九年後見事に大正洋行を復興し、家族一同に看とられながら、眠るように郷里で静かな大往生を遂げられた。享年七十六才、思えば波乱万丈の一生であった。(墓碑昭和二八、一一、四没、積功院徳誉道光冨岳居士) 硬式テニスとの出会い 大正洋行創立は大正元年、営業分野は外国貿易、図書の出版と印刷、百貨店向け卸業が永く続いた。然し支那事変末期、戦時企業整備令により各種の統制が強化された。彼が二代目社長になった頃の営業は専ら百貨店向け理化研究器具及び事務用品卸業で、繁閑の差甚だしく人の休む夏季が最も忙しいと云う因果な商売であった。窮すれば通ず、日頃テニス仲間の学生達(同志社大、滋大教育、滋大経済など)が駆けつけて、商品の納入、店頭販売等を応援してくれ、これが毎年の例となり、次々と後輩に引き継がれて行った。その連中の中に同大硬庭同好会の浅野四郎君、彦根経済硬庭部員の森地宏君がいた。この学生達と硬式を練習して見ると、軟式とは一味も二味も違う面白味があった。当時滋賀県下では東レ、東洋紡、三菱樹脂等の企業内クラブが親睦交流試合を行う程度であった。或る日前記彦根経済の森地君から相談を受けた。「毎年夏季盛大に開催されている県民綜合体育大会に吾々の硬庭も参加したい・・・」と。彼は答えた。「その大会は主催者県体育協会、主管は協会加盟の種目別競技団体、出場資格は県民、従って先ず硬庭協会を作り県体協に登録することが先決である」と。それから彼と学生は各企業クラブの代表を彦根経済に招集し、進藤勝美硬庭部長(一橋後輩)を中心に協議を重ねること数回、規約、組織、役員選出、滋賀県庭球協会の名称で県体協に登録したのが昭三十三年四月の事である。次いで五月第一回選手権大会を彦根経済学部コートで開催、彼は一回戦で経済学生に勝ち、二回戦で三菱樹脂のベテランに惨敗した。この大会を機会に彼は硬軟二筋道を歩むことになる。 軟式では相変らず時間の許す限り大津市内の中学校を巡回指導、そのうち次男の進んだ皇子山中学校庭球部長はテニスが素人、彼はミッチリ指導の甲斐あって、三年生の夏県民綜合体育大会中学校の部で優勝と準優勝を勝ちとった。高校もテニスを続けたいとの本人の希望により県立大津高校に進学させた。大津校の庭球部長(後、県軟庭連理事長、彼はその下、副理事長として十年間連盟の運営に当ることになる)に協力して前記の生徒を鍛えた結果、これ亦県体高校の部で優勝した。 彼の出身県、軟庭王国岡山の黄金時代を築いたベテラン選手に今井芳夫、三宅平組がある。今井選手は小柄ながらガッシリ型、腕はまるで丸太ん棒、その腕から打出されるボールは速くて重く、常に敵を圧倒した。然し最も得意は正確無比な深いロビングであった。又パートナー三宅選手は中肉長身理想型の前衛で、機を見てボレーにスマッシュ、その動きは俊敏そのものであった。「心・技・体」と云う。彼は今更どうにもならぬ体力を補う方法の一つとして、今井選手のロビングを分析研究し機に臨んで正確無比なロビング打法を心掛けている。 池田政三先生の事 明治三十四年十一月四日、滋賀県甲賀郡寺庄村字寺庄生れ、生来病弱であったが、膳所中学校庭球部の選手であった次兄の指導により、軟式庭球に没頭した。後硬式も採用して体格改造を成し遂げられた。そしてスポーツの振興・教育の正常化・社会福祉事業に私財をも惜しまず献身された。昭和四十七年十一月三日、勲四等旭日小綬章、の叙勲に輝く。 スポーツ振興で特記すべき一つは「マッカーサー杯スポーツ大会の創設である。池田先生は敗戦直後の悲惨、荒廃、虚脱からの日本再建を強く願い、その第一歩を青少年の教育とスポーツの振興に求め占領軍総司令官マッカーサー元帥に、その心情を切々と披瀝懇請、昭和二十二年マ杯スポーツ大会「硬庭、軟庭、卓球の三種競技」を創設、昭和五十一年福岡市における第三十回大会でその使命を終える迄三十年間、全国主要都市を巡回開催、祖国再建に挺身されたのである。彼は郷土の大先輩、池田先生の思想信条に共鳴して、毎年五月宝塚市にて開催の全日本グランドベテラン軟式庭球大会に出場、また日、韓、台、タイ国などとのスポーツ交流親善ツアーにも参加。池田先生の口癖「理解と信頼、愛情と感謝」(日教祖のモサを自宅に一週間合宿させ説得した時の言葉)はそのまま彼の口癖ともなった。 役員歴と球歴 彼は昭和三十七年県軟庭連理事となり、漸次大津支部長、県選手強化委員、県常務理事、副理事長、副会長、近畿軟庭連、関西庭球同好会各幹事を歴任。大津支部長の時、市営コート建設のため先輩有志と共に一大建設促進運動を展開、テニス愛好者は勿論、巾広く各方面の署名を集め、遂に現皇子山四面コートの実現を見たのである。(竣工式昭四六・七・一) 彼は戦中戦後十年間のブランクを除き、約五十年間よくもテニスを続けたとつくづく思う。その間国体近畿予選出場二回、県民総合体育大会優勝一回、県選手権春季二回秋季一回、大津市民大会五回優勝。県連盟役員となってからは仲々優勝出来ない。対戦相手は木蔭で休息十分なのに反し、彼は大会運営責任者として仕事の最中に、突然進行係よりコールされ一呼吸する間もなく老眼鏡を近眼鏡にかえて出場、始めボールが二つに見えやっと馴れる頃には大半勝負が決っている。背が低くくやせの割にはよくやった、と前記の成績を自負している。 彼のテニススタイルは一言にして、スロースターターと人は云う。軟式の一試合は硬式と異り、四ゲーム先取平均約二十分。三ゲーム先行されてしまってから、ロビングやシュートを送りながら、エンヤコラエンヤコラと汗びっしょり、漸くジュースに持込むが、アドバンテイジを又先行され運悪くそこで相手ボールがネットインしてゲームセットアンドマッチ。一日の長さで云えば調子が出るのは午后、特に夕方になると頭も腕も冴える。困ったものだ。彼は漸次体力の限界を感ずるに至る。「親の夢を子に托す」と云うか、隠れた才能の発掘とペアー作りを心掛ける。ただ単に技術の秀いでたもの同志をくっつけても駄目、柔と剛、陰と陽、二人が補完し合う関係は夫婦と同様。試合に臨んで好、不調はつきもの、緊張の余り失敗する。調子を取戻せるようにパートナーは暖かく見守り辛抱する。反対に不調を補いたい焦りが先にたち「一人テニス」をしてしまう。或いは口にこそ出さぬが不快の念を抱く、甚だしきは愚痴をこぼす、果てはコートで罵り合う。名のあるベテラン選手同志が全国大会で演ずるこんな光景をよく見たものである。 昭和五十二年軟式庭球連盟副会長職を勇退、顧問に退き漸く連盟の重責から解放された。軟式は硬式に比し試合時間は短いが体力の消耗が大きいので、彼は硬式を楽しむ機会が多くなって行った。 受 彰 彼は滋賀県軟式庭球振興に寄与した功績により、次の通り受彰 硬式テニス教室 彼は数々の受彰に報いるため、懇請されるままに(財)滋賀県文化体育振興事業団主催県立体育館及び希望ヶ丘運動公園主管の婦人テニス教室主任講師、大津市勤労青少年ホーム主催テニス教室、滋賀県野州町教育委員会主催テニス教室の各主任講師としてその指導運営に当っている。「老いては子に還える」と云う。今日も又昼食を忘れ喜々としてコートを駆け回る姿はまるで子供のよう。真にテニスの虫なのである。残り少ない彼のテニス人生に幸あれと祈らずにはいられない。 ☆ ☆ ☆ 指導員資格の取得 昭和五八・四・一 (財)日本体育協会 公認登録番号 第二五〇五一〇〇〇五二号 指導員研修会 (財)滋賀県スポーツ指導者協議会主催 競技種目合同研修会を毎年三回以上 受講 家族の近況 妻 薫子 健在 腰痛、膝痛に苦しむ むすび どの教室でも私が特に強調するのは、次の二点。 一、折角多数希望者の中から抽選された諸君は遅刻欠席せぬよう。諺に「Strike the iron while it is hot.」(鉄は熱いうちに打て)。また、「You may lead a horse to the water, but cannot make him drink.」(馬を水のみ場まで連れて行くことは出来ても、飲ますことは出来ない)。 私は冒頭に書いたように、心電図異常、高血圧と不整脈がありいつなん時、コートで大往生するか、冗談めかして家族に言い渡してある。この老体が少しでも若い人達に役立っていれば、そんな最後もまた本望と思う今日此の頃である。 |
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卒業25周年記念アルバムより |