4組  望月 継治

 

  壼井文学を生んだ土壌は今も変わらず

 10月18日日本国際連合協会の第21回年次大会が小豆島で開催されるので、その記念講演をやってくれと、大学同期の西堀さんから申し入れがありました。私は最初断りました。だが彼は元駐米大使、国連大使だった方。海千山千の人々と渡り合ってきた外交官。パン屋のおやじ程度の抵抗には、てんで耳をかさず、自分ぺースで話を進めます。困ったなあと思っていた時、ふと私の心に日本国際連合協会の会長、元外務大臣の小坂善太郎先生御夫妻の温和な顔が目に浮かびました。先生には昔から親しくしていただいておりましたので、この話は先生から出ているのかも知れないと思い、西堀君に抵抗するのを止め、諦めて引き受けた次第です。だが心は重かった。

 ところが10月6日NHKが「いつもやわらかい日」というタイトルで小豆島を放映しました。最初のシーンは実ったオリーブ林でした。明治41年日本にはじめて根づいた小豆島のオリーブの話でした。オリーブの葉は平和の象徴。戦争を放棄した日本が、今度の湾岸紛争を平和裡に話し合いで解決しなければならない時に及んで、日本国連協会は、大会会場として小豆島を選んだのだという気がして参りました。

 そして私にもう一度小豆島に行きたいなと思わせたのは、小さな坊やが自分のパンツをおばあちゃん達と一緒に洗ってるほほえましいシーンでした。千枚田のある中山地区、銘水も湧き出る、水を大切にする地域で、おばあちゃん達と一緒に育つ坊や。このような風土から、子供たちを戦場に駆り出す大人たちが作った歴史、軍国主義に抵抗した壼井文学が生まれたのは当然だと思うようになりました。

 山国で育った私は、農村などに呼ばれて話をする時にいつも言います。「おばあちゃん、おじいちゃんたちと、地域の子供たちが放し飼いの養鶏場を作ったらどうだ。野菜畑を作ったらどうだ。山羊を飼ったらどうだ。それをみんなが食べ、余ったものは学校給食に出したらいいじゃあないか」と。そうすれば地域農業も変わってくる。大人たちの行動又は論議の中から老人と子供が落ちてしまって、21世紀とか地球環境とか言うのはおかしいではないかと、常々感じている私にとっては、小さな坊やが自分のパンツを洗っている、あの山あいの中山地区の景観は救いでした。

 だが「二十四の瞳」「母のない子、子のない母」等々に出てくる子供たちは、必ずしも世にいうオリコーちゃんではなかった。小石先生と仇名もつけられた大石先生がアキレス腱を切ったのも、子供のいたずらの落し穴が原因でした。かぎやのおじいさんのみかんを失敬し、おじいさんをからかった唄を歌った杏村の子供たちもそうだった。毎日4キロの山道を歩いて岬の分教場にかよう子供たちは登校途中で草むらに隠れて車座になって、弁当の半分を食べてしまう。朝飯をすましたばかりなのに、そこに来るといつも腹がすいたような気になる。山猿のように敏捷で、漁師のように日に焼けた元気な子供たち。だが家路を辿る彼等には朝の元気がない。おなかがすいているから。そこでついついかぎやのおじいさんのみかん畑に忍び込む。おじいさんは孫に、子供たちに半分位寄附しちゃったなと言っている。ところがある日子供たちはおじいさんに見つかり、一目散に逃げた。だが慌てたので一人の子供がカバンを忘れてきてしまった。さあ弱った。学校に言いつけられるぞ。それどころか警察に届けられる。そうしたら監獄に入れられるかもしれないと、みんなひそひそ話しながら、しょんぼりしている。そこへその日はみかんどろぼうに参加しなかった大将分が来る。心配ばかりしていても駄目だ、みんなでおじいさんの家に謝りにゆこうよと言う。子供は謝り、カバンを忘れたことを話す。おじいさんは学校へ届けたよと言う。子供たちは、ああもう駄目だとしょんぼりする。とおじいさんは忍術を使って取り戻すと言って、指を十字に構え、そして入口を示す。そこにはカバンが掛かっていました。

 しばらくして麦刈のシーズンになり、おじいさんの孫は今年から鎌を使わせてもらえると張り切って麦畑に行った。ところが先に行って麦刈をしているお母さんのそばで、麦を束ねている子供たちがいる。杏村の子供たちだった。それを見ておじいさんは言いました。「分かったよ。お前達の気持は。だがね、今はどこの家も麦刈で忙しいんだ。早く帰って家の手伝いをしなさい」と。

  共通の文化を創造するための場を

 子供は自分を生む両親を選べない。どこで生まれるかの場所を選べない。だとしたら両親は勿論、子供たちが生まれた場、地域の人々が面倒を見なければならない。教育するとか、指導するとかいった大げさなことでなく、それぞれの地域のたたずまいの中で、子供たちと一緒につき合い、生活経験をしなければならない。その時は子供たちは、その意味が分からないかもしれない。だが子供たちが大きくなって自分でものを考えるようになった時、そのような経験があったかどうかで、考え方の方向が大きく変わると思うのです。

 幼い時の生活経験が大切だと思う私は、家庭の食卓をガソリンスタンドではなく、子供が自然の恵み、私共を支えてくれるもとになるもの、素をキャッチする感受性を養い、素と素を組み合わせて自ら味を.創り出す能力を高める場、話し合いが出来る場、最も源初的なしかしながら最も民主的な場と考えているのです。そのため「食卓からの出発」、「一汁十菜日本の朝食」とか、「物を作ることから場を創ることへ」と訴えつづけて参りました。

 壼井先生は言っておられます。子供たちは大人によって作られた歴史、つまり満州事変、国際連盟脱退、そしてついに子供たちを戦場に駆り出す歴史を何も知らずに、ただのびることを楽しんでいたと。だが当時私たちは大学にいて徴兵が延期されていました。本来なら昭和17年3月卒業でしたが、昭和16年12月繰上げ卒業させられ、兵役に服しました。だから「二十四の瞳」の子供たちの方が私たちより兵役では一年位先輩だったのでしょう。だが私共は作られる歴史を教えていただいておりました。当時東京商科大学には立派な先生方がいらっしゃいました。とくに三浦新七学長は、私に強い影響を与えてくれました。先生は予科1年の時、修身という授業で、ユダヤ、ギリシャ、ローマの講義をなさいました。学部では東洋史を講義しておられました。その先生が「東亜共栄圏は危い」と言いました。

 当時日本は八紘一宇の精神に基づく大東亜共栄圏を創り上げ、米、英、蘭の支配体制を打破しようと言っておりました。

 だがそれは日本の資源獲得のための一方的要求であって、八紘一宇の精神というものは、共通の文化にはならない。従って西欧のような十字軍は結成されない。西欧には各国の個別文化があるが、同時にそれをまとめた西欧文化がある。ところが東洋には各国の個別文化がありながら、西欧文化に対抗するような東洋文化というまとまりがない。それは何故かというと、西欧文化というまとまりが生まれたのは、砂漠の中で生まれた神様、イナズマの姿で異教徒をたたきつけるような強烈な神様に訓練されたから。だが東洋の神様仏様は森の中で生まれ、妙なる音楽が奏でられる中、雲に乗って現れるという優しい神様。だから各国の個別文化、宗教を全部容認してしまう。従ってまとまりがつかないし、十字軍は生まれない。だから八紘一宇の精神という。だがこれは圧倒的に優勢な軍事力による資源獲得戦争にすぎない。だから君たちはどんな職業につくにせよ共通の文化を創り出すための場の発見に努めなさい、というのが三浦先生の教えでした。

  南北と東西の交点に位置する日本

 私は戦後、偶然のきっかけからパン屋になったのですが、パンを単に商品とは考えられず、歴史的なもの、文化としてとらえ、日本におけるパン並びにパン食はいかにあるべきかという書生じみた青臭い考えで40年を過ごして参りました。

 パン屋になって不思議に思ったことは、パン用穀物のあり余るアメリカのパンそしてパン食をなぜ真似るのだろうかということでした。「二十四の瞳」に出てくる子供たちは麦7、サツマ芋3のごはんに、豆、魚を食べていました。それなのに戦後アメリカ一辺倒の食生活に激変しました。その時学校給食がいかなる働きをしたかは神田精養軒通信「自然のめぐみ」11号で書いたので、いまは省略しますが、自分の生まれた場から考えない、従って他者、外国の人の生まれた場を考えられないことが、日本人の根本的弱点だと考えています。何故そんな考え方が生まれたのかというと、一言で言えば、日本列島が大陸から離れていて外国から侵略されなかったので、日本人が国境を意識しないで生きてこられたからだと思います。

 では日本という国はどういう場に立っているのでしようか。私の仮説ですが、日本は南北と東西の交点に立っている、価値観が違うので同一平面ではなく、お互いに投影し合っている所に立っていると思うのです。では南北とは何か。日本列島そのものです。日本列島は、単一言語、単一文化ではなく、亜寒帯から亜熱帯の非常に多様性に富んだ細長い列島なのです。従って木の種類は2千種以上。森の国ドイツといっても2百種以下。木が違えば、そこに住む動物も生き方も違う。同様に人間の住み方も話し言葉も違ってきたのです。山地の多い、国土の狭い国と言われるが、日本海側は世界的な豪雪地帯。それが山に積もり巨大なダムになっている。溶けた水は森に貯えられ、次いで等高線につくられた水田に導かれ、川や地下水となる。もしこのような装置がなかったら、集中豪雨に見舞われる日本列島は、滝のような川に火山灰地質の脆い土壌を洗い流され、土石流によってずたずたに切り刻まれたことでしょう。

 アメリカが米の自由化をせまっています。だがカルフォルニアは元来砂漠地帯。年間降雨量320ミリ。水は東京から小豆島くらい離れたシエラネバダ山脈の雪融け水で支えられています。その灌漑水路をつくるために20年間かかりました。日本は2千年かかっています。土壌流出おかまいなしのアメリカとは違うのです。狭い国と言われますが、海岸線は実質世界一長い。その豊かな海に守られて外国の侵略を受けずにすみました。だが文化は伝わりました。ちょうどいい具合に大陸から離れていたから、ベトナム難民をよそおって中国から小さな船で日本に辿りつける距離にいたわけです。

 では日本は東西の文明をそのまま受け入れ、コピーしてきたのでしょうか。そうではないと法隆寺や薬師寺を改修、再建している宮大工の西岡常一さんは言っています。仏教が入ってきた6世紀まで日本人は土に穴を掘り柱を立てた。だから20年位たつと土台が腐ってしまう。そこで伊勢神宮のように建てかえる必要があったのです。だがその後、韓国、中国の影響を受けて、土を盛り固め、基礎石の上に柱を立てるようになったと言われてきました。だが古代の日本人は様式、普遍的なものをコピーしたのではなく、木の命を組合せたのだと西岡先生は言うのです。

 法降寺は材木は買わなかった。山を買った。そして生えてる木それぞれの命をまずつかんだ。右にねじれる性質があるか、左にねじれる性質があるか、生えてる場所によって違う。それを見極めて、右にねじれるものと左にねじれるものを組合せて、ねじりを零にした。だから日本には世界で最古の、最大の木造建築があるのだと言うのです。要するに東西の文明、普遍性を追求する文明、ある意味で力の文化を、一度日本の自然に吸収し、それを再構築したものが日本文化だと言うのです。 (参照。「法隆寺を支える木」NHKブック)

  日本は平和の架け橋となりうるか

 ところがどうやら日本人は、南北・東西の投影し合っている場に立っていることを意識していない。そうさせたのも、実は日本が恵まれ過ぎた場に立っているからだと思います。物を作ることには熱中するが、人間の住む場を創るために、みんなが協力せねばならぬという所に追いつめられた経験がなかったからだと思います。水田が一度形成されると、米の永久連作ができる。日本の夏はシンガボールより熱帯的。だから米がよくとれる。奈良時代でも10a当り100sとれたと言われています。現在の収穫量に較べれば極めて低いですが、それでも現在のラオス、カンボジアの収量に匹敵します。それに較べるとヨーロッパの土地の生産性は劣悪です。10世紀1粒の小麦をまいても、とれるのは2粒か3粒。だから当時のドイツの王様、神聖ローマ帝国といういかめしい国の王様、オットー一世は、一生宮殿も持てず、ドイツ諸地方の砦を巡幸していたのです。巡幸と言えば体裁は良いが定着できなかったのです。

 それに較べれば、平安貴族がいかに豪華な生活を送っていたか。そのために農民は一粒でもよけいに米をとろうと懸命に働いた。そこから水田は米を作る所、自分の田さえよければよいという精神構造が生まれました。ところがヨーロッパでは、3年に一度は地力回復のために休耕しなければならなかった。夏麦、冬麦、草地、さらには牧草という輪作により、地力を高めねば生きてこれなかった。しかも耕す時も、自分の持分だけでなく、部落民全員が協力して耕してきました。そして一千年かかって土地の生産性を高めてきました。そこから自然に頼るのではなく、自然を支配するという考え方に進み、ついにどこよりも早く工業化に成功し、軍事力を強めて世界支配を果たしました。日本はその後を追った。そして大東亜戦争に突入。敗戦。多くの人々の死の上に、戦争放棄の憲法が生まれました。だが物を作ることの巧みな日本人は、武力に代わり経済力で世界一になり、世界の人々から、特に東南アジアの人々から恐怖感を持たれるようになりました。

 このような時に湾岸紛争がおこりました。それは単に石油資源の利権の争いだけではなく、西欧文化を形成した砂漠から生まれた神様と、もう一つの砂漠の中から生まれた神様との争いであり、作られた国境に対する異議の申し立てでもあります。宗教も国境も意識しなくて生きてこられた日本人にとって、この紛争に対応することは非常に難しい。難手中の難手といってもよいのだと思います。だがどうしても平和を取り戻さねばならない。かつて十字軍を破ったイランも今や石油の輸出に依存した国になっている。一方、石油文明に支えられた先進国の人々はとても砂漠の中では生活できない。両者共に弱点を持っているのです。だからどうしても話し合いで平和を取り戻さねばなりません。日本はいま、東西・南北の架け橋になれるかどうかを試されているのではないでしょうか。

 今こそ日本国際連合協会の使命を果たすべき時だと思います。平和のシンボル、オリーブが実る小豆島で今回第21回の全国大会を開いたのは、歴史的意味があるのではないかと考えています。

  追 記

 40年かかって、やっとパン並びにパン食という外来文化を日本に土着させる準備が整い、パンの世界で東西・南北論の実践に辿りつけたと思っております。自然の恵み、穀物の命を全部活用しようと始めた全粒粉パン(黒パン)も、農薬をはじめ大気汚染などで汚染されている。そこで最外皮4%だけを除去するシュタインメッツ製粉に辿りつきました。その効果はチェルノブイリ事故で実証されました。だが土から吸収されたものには手が出ないことが長年の悩みでした。ところが無農薬・有機・輪作のシュタイナー農法によるライ麦を入手できました。

 この両者はドイツでは組み合わされておりません。それを組み合わせ、200年位前に行われた醗酵法を採用したところ、本場のドイツより良いパンが出来ました。さらにうれしいことは、その醗酵方法をもってすれば、パンに向かないと言われていた国産小麦でも立派なパンが出来ることが明らかになったのです。

 シュタイナーの「農業講座」、地球・鉱物・植物・動物・人間の霊的・宇宙的関連を実践してくれる人がいないかなと思って、神田精養軒通信「自然のめぐみ」で、カナダに移住したドイツの農業者の在り方を報告したところ、フランス人のドニー・ピリオさんと奥さんの祥子さんが熊本の阿蘇でやってくれました。最初に野菜を手がけ、この秋から麦に取り組み、さらに山羊の飼育にかかります。

 日本農業を米、麦、酪農のローテーションを組んで、土壌を有機化すること。そのためには食べる人が脱脂粉乳を利用して、「家庭チーズ」やヨーグルトを作り、日本の伝統的常備菜を組み合わせる朝食「一汁十菜日本の朝食」を家族そろって食べて下さいと訴え続けて来た私ですが、幼い人達の健全な肉体と精神、その前提になる生体リズムを正すことが何より大切だということが痛感される毎日です。私が追い求めてきたことが間違いでなかったような気がします。

 私はパンに巡り合えて本当によかったと思っています。これからも苦しい道のりですが、一歩一歩歩き続けていくつもりです。

(「自然のめぐみ」14号、一九九〇年十二月十五日所載)

 


卒業25周年記念アルバムより