1組 本宮 荒砥 |
今年は北方領土に関心の集まった年であったが、戦時中海軍守備部隊の一員として千島の土を踏んだことのある者にとって、さまざまの報道にも特別の思いがあった。あらかたの事は遠く忘却の彼方に去って尋ねるよすがもないが、一五〇〇米級の連山を遠景にした択捉島の荒涼たる雪原の俤は今も心を去ることがない。 「補第五十一警備隊附」の辞令を受けて、輸送船君川丸に便乗し、当時の勤務先大湊海軍経理部から宗谷海峡を経て千島の最北端占守(シムシユ)島に赴任したのは一九四三年九月の終りであった。第五十一警は、奇蹟の徹収作戦(これについては「波濤」四九一頁以下に和田篤君の回想記がある)によってキスカ島から引き揚げてきた部隊で、千島全域に展開しようとしていた。着任早々天寧派遣隊の勤務を命ぜられ、隣の幌莚(パラムシル)島に途中一泊の上今度は逆に南へ向って択捉島へ輸送機の旅となる。飛行コースは島づたいで、ほぼ列島の全容を目に収めることが出来た。 択捉島天寧は太平洋岸単冠(ヒトカップ)湾に面した小さな集落で、当時民間人の居住していたのは数家族に過ぎなかった。駅逓の制度が残っていて島内の唯一の交通手段は馬である。道路はあっても橋はなく川は徒渉の外ないと聞いた。この馬は体格の小さいいわゆる道産子であって、冬季だけは厩に繋ぐがその他の季節は原野に放置し、用のあるときに捕えてきて使役するとのことであった。私も着任早早のまだ気候のよい時季には数度この馬に乗せて貰う機会があった。 警備隊は天寧の集落を外れた原野の一角の海岸台地に飛行場、砲台と宿舎を設け駐屯していた。翌一九四四年四月初めまでの約半年をここで過すことになるが間もなく本格的な冬の到来であった。雪はさほど深くなく、厳冬期の寒さも零下十五度くらいまでであったと記憶するが、風の吹き荒れるのが冬の千島の特徴であって、低気圧の墓場とも云われるだけのことはあり、毎日のように二十米以上の風速であった。稀に天気のよい日は兵隊さん達も白い上っ張りを着て訓練に出、こちらも海岸の僅かな斜面でスキーの真似事に興じたりもしたが、概ね冬籠りを極め込む外なく、ひたすら春の待たれる日々であった。幸い小学校で同じクラスであったH君が軍医中尉としてこの隊に在ったのに再会し、お互に無聊を慰め合うことの出来たのは幸いであった。一応前線基地に在るとはいえ、翌年から翌々年にかけての八丈島暮しの時とは違って敵機一機にもお目にかかるでもなし、悪化してゆく戦局を身に感ずることもない暢気な日々であったとも云える。年末には輸送船が入港して正月用の食料も不足なく調えることが出来た。餡の材料として大手亡豆を取り寄せて饅頭を作らせたこと、生物の鰈が多量に入荷して食べ切れないので乾物づくりを督励したが臭いに閉口したことなど思い出のうちにある。 飛行場はなお工事中でここの飯場に半島出身の労務者の一団が居た。防寒具とても無く、セメントの空き袋を肌に巻いて震えていた悲惨な姿を忘れることが出来ない。 一九四四年二月になって択捉にも独立の警備隊、第五十三警備隊が設けられ、三月横須賀鎮守府附の辞令が出ていよいよ島を去ることとなる。四月はじめ、両側に雪の壁の出来た滑走路を輸送機は飛び立って、北海道の千歳経由まだ知らぬ赴任先に向うこととなった。 私の短期間かつ限られた場所での体験が北方領土の問題を考える上での足しになるとは思わないが、ソ連が軍事的な見地から手離したがらないことは想像がつく。択捉島天寧地区にしても、前面の単冠湾は日本の連合艦隊が真珠湾攻撃を前に集結した広大な海面を擁し、冬も凍らない利点がある。平坦な海岸台地も奥行き深く基地建設の適地である。当面四島を日ソ双方が自分のものとして突張り合う時期が続くであろうが、さて日本にとってこの四島の値打ちはどんなものであろうか。戦前は殆ど無価値と思われたと同然で開発の手は延びていなかった。漁業資源についてはその頃とは比べものにならない重要性が生じているが、経済大国日本として固執する程のものでもなかろう。レジャー基地としても、さほどの将来性があるとは思われない。そうであれば、日ソ友好関係の樹立を最優先の課題と考える時期が来れば、日本側の思い切った譲歩によって問題解決を図ってもよいと思う。 |