1組 村井 秀雄 |
私は昭和十六年十二月卒業、翌年一月三菱鉱業に入社、二月宇都宮輜重聯隊に入営、世田谷の自動車隊にて幹部候補生六ヶ月教育を受け宇都宮に帰り三ヶ月の初年兵教育の教官を二回担当、十八年七月にジャワ島に出征しました。 その後、自動車隊中隊長を経て終戦後、ジャカルタにて日本人キャンプの輸送業務を担当、二十一年九月復員、三菱鉱業に復社、自動車関係の知識を買われ超硬工具の販売に従事、財閥解体により二十五年三菱金属(当時太平鉱業)に転じ、五十年三菱金属を退社、子会社の菱光産業へ移り現在に至っております。今顧みますれば三菱金属時代には稲井前社長の御引立により常務取締役加工品本部長の要職を与えられ、三菱金属の加工製品発展の一翼をになわせて戴きましたし、子会社に移ってからは三菱金属時代の部下数人に移籍して貰い、その人々の助けも借り東証二部上場は果せなかったが社内の管理体制を整え年商四百五十億円無借金、無不良債権、配当一五%の中小企業としては一人前の会社にすることが出来ました。一人のサラリーマンとして復員後通算四十五年実に楽しく会社生活を送らせて貰った上、分不相応の出世をしたものと思っています。 しかしこれも稲井さんと云う立派な人にめぐり会い御薫陶をいただくことが出来たと云う幸運の賜物と思っています。サラリーマンはいかに気心の知れた良い上司にめぐり会えるのかが勝負の別れ道ではないでしょうか。 三菱金属時代に造った関東と関西の超硬工具代理店、販売店の総会に毎年招待を受け、出席させて貰っています。幸福なサラリーマン生活だったと感謝しています。 平成二年十二月、三菱金属も三菱セメントと合併、三菱マティリアルとして新発足しました。私の息子も私が三菱金属を退職した年に阪大を卒業、三菱金属に入社、現在超硬工具の製造に従事御厄介になっています。親子二代同じ仕事をしているのも何かの宿命と思いますが、合併後の新会社の益々の発展を祈念しているこのごろです。 |