点描・・忘れ得ぬ風景 2組  村上彌壽夫
・・遥かなる青春・北満・ヨーロッパロシア・・

 

 はじめに

 私達はいま九十才を越えた先輩とおつき合いがあるし、一方つい先年この世に生を享けた孫達とも一緒に生きているわけだから、私達は元気な四世代が共生可能な時代に生きている。

 二十世紀に入って人類が第一次大戦と第二次大戦とを経験してから、私達は丁度この二つの大戦間と第二次大戦から二十一世紀を明日に控えた今日までの七十年余を生きて来た。一口に云って各国それぞれが国内均衡をいかに保つかに腐心した時代に生きたことになる。そのことから生じたいろいろなことへの想い出は一杯あってその中には忘れようとして忘れることができない風景がある。しかしそうはいっても世間に向って語りうるようなものはわずかしかないといってよいだろう。だがそれでもなお二つの大戦間と第二次大戦戦中戦後を通じた人生には今なお心の中に深く刻み込まれていて綴って置こうと思うことが点々と想い浮かんで来る。題して忘れ得ぬ風景としたのはそのような事柄を記して置こうと思う私の願望からなのであるが、特に忘れ得ぬ風景とは、まず満州での短期間ではあったが、渡満するまでには全く予想しなかった平和で呑気な軍隊生活と、そんな呑気な毎日をつくり出していた当時の北満を取囲む特殊な政治情勢と、敗戦による満州国崩壊と共に突如として在満日本人が蒙った社会生活の崩壊である。

 満州での予期しなかったほど呑気で平和な軍隊生活とは、中国や南方での激しい戦争の継続による経済的な影響を蒙ることもなく、またいわゆる匪賊討伐と呼ばれた八路軍や新四軍との戦闘といったこともなく、満州中央銀行券は日本銀行券とパーで流通して居たし、満州は大東亜戦争の台風圏外にあって当時の内地の生活よりも落ち着いていたということである。当時の満州地域のこの落ち着きはむろん満州が中国や南方の戦線から遠く離れていたからではない。日本が南進の方針を決定したことを知ったソ連が、ソ満国境に配置していた極東軍を対独戦に向けて極東から欧州戦線へと移動させていたため、ソ満国境の緊張は曾てなく緩和していたからなのであった。

 学園ー舞鶴・小平・国立

 満州事変が勃発して日本の陸軍が満州へ出兵して行った光景を私は知らないが、満州事変で戦闘に加わった第二師団のあとを受けて守備隊の名目で満州に出て行った第十六師団の歩兵二十連隊が舞鶴港から輸送されて行くのを目撃した。たしか明治大学の配属将校をしていた桑名という名の陸軍大佐が、帽子の顎紐をかけ正装の軍服で軍刀を右手に連隊の舞鶴港出港を指揮して居り、軍馬が輸送船のクレーンで吊り上げられていたのが今なお記憶に新しい。この陸軍大佐が右手に持った抜身の軍刀の輝きが多分同じ日本刀でもわが家に伝世した刀の輝きの印象とは随分違ってひどく殺伐とした感じのものに思われたのだった。

 舞鶴には鎮守府から格を下げられた海軍要港部というものと陸軍の要塞とがあり、それぞれ海軍と陸軍の要塞砲兵隊とが配備された日本海側の軍都であった。小学生の頃には連合艦隊が陸奥や長門を旗艦に波を蹴って入港するのを見に行った。子供心にさすが連合艦隊は堂々たるものだとその威容に感心したものであった。当時は満州事変以前のことで、軍部というものへの猜疑心は世間一般にまだそれ程強くない時代だった。処が、私が中学生の頃になると、そんな要港部司令官に軍縮に反対した末次信正海軍大将が赴任して来た。また要塞司令官には、後に満州で第四軍司令官となり、私はその直轄部隊の主計になることになる、中島今朝吾という当時少将が居た。彼はその後北支軍司令官であった時代に、参謀であった三笠宮を何かのことで叱りつけたことで新聞の紙面をにぎわした軍人であった。中学の講堂でこの二人の軍人の講話を聞かされたが、前の方の席に居た者が講演中に他所見をして落着かないのはいけないとひどく叱られ、軍人というものは怖いなと思った記憶がある。

 満州事変(一九一三〈昭和六〉年)勃発の翌年起った上海事変や満州国建国、京大滝川事件、五・一五事件、リットン報告、国際連盟脱退などのことは、当時一橋に在学した兄や兄の友人諸公のコメントもあって、当時の新聞や雑誌記事以上のものを重要な社会問題として理解した。一九三六(昭和十一)年の二・二六事件が起った夜、私はたまたま阿佐谷に居てその夜半に武装した陸軍の部隊が国鉄の阿佐谷の踏切を渡り荻窪方向へ向ったこと、教育総官の渡辺錠太郎大将が殺害されたことを翌朝になって知らされた。この日豪雪の中を市ヶ谷まで行き、橋の上で、急派された甲府連隊の鉄兜銃剣付鉄砲の歩哨が四谷方向に向って立哨しているのを見た。鉄兜銃剣付鉄砲姿の兵隊を見たのはこの時が生れて初めてのことであった。その後しばしば荻窪の兄の家を訪ねたが、四面道の真中には春になってもなお可なり長い間、通信隊の通信施設が事件直後の状態のまま遺されていた。

 一九三七年七月盧溝橋事件を発端に北支事変が勃発したことを知って驚いたが、私達予科の水泳部員は丁度この時静岡県清水港対岸の三保の松原で、旅館の怪しげなプールを利用した合宿生活をしていた。
 間もなく奢侈品禁止令と称する経済統制令が施行されるのだが、その頃は日米間の貿易はまだなお正常状態にあって、カナディアン・パシフィックラインのプレジデント・カナダやプレジデント・ジャパンなどのすばらしい豪華客船が緑や白の船体を清水港に現して静岡茶を積取りに来ていたのであった。しかしこの年の夏には第二次上海事件が起り、秋には日独伊防共協定が締結されたのだった。一九三一年の張作林爆殺(柳条溝)事件、満州国創設、国際連盟から求められた満州からの撤退拒否、国際連盟脱退そして蘆溝柳事件と、今では誰もがよく知っている当時の日本政府がとった一連の政治ステップがソ連極東地域への政治的軍事的圧力の強化と映ったことは強ち国外ばかりではなく国内の良識からもその成行きが懸念されていたのであった。そしてこの懸念に基いていち早くソ連が樹てていた対日戦略がソ連陸軍の対日諜報組織の創設であった。リヒアルト・ゾルゲはソ連情報部の指令に基いて日本に入国、諜報活動を開始するため一九三三年モスクワを立ち旅行者としてしばらくドイツに滞在、ドイツ人ジャーナリストという出立ちでカナダ経由太平洋航路を利用して横浜に上陸ドイツ大使館に接近、翌一九三四年から活発な諜報活動を開始した。課せられた諜報項目は、日本はソ連を攻撃するか・配置される陸空軍力・ヒットラー政権樹立後の日独の関係・日本の対中国並びに対英米政策の見通し・日本の重工業と経済の軍需経済への転換の予測などであった。

 ソ連の対日猜疑心はその後に起ったノモンハン事件(一九三九年)や一九四一年夏に行われた関東軍特別大演習というやり方による大規模な関東軍の増強によって一層増幅された。というのはこの春シベリア鉄道経由ドイツに派遣された松岡外相によってドイツからの帰途ソ連との間で締結された日ソ中立条約が、日独伊軍事同盟に対して単なる名目的なものなのかあるいはそれ自体独立した条約なのかがソ連にも正確にとらええなかったからであった。ソ連の日本即ち関東軍の動きに関する猜疑心が最終的に晴れたとみなされたのは、九月六日の御前会議で決定された日本の南進政策の基本が当時の不充分な石油保有量と日米交渉の進展状況から見て動かぬものであり、それに基いて日本の対ソ攻撃は無いという判断が対日情報組織からモスクワに向って打電された以後のことであったのである。それはこの時点でそれまでにドイツ軍が全く予想しえなかった規模のソ連予備軍が秘密裡に極東から移動、ワシレフスキー元帥の指揮下に入り、当時崩壊寸前の苦戦を強いられていた西部戦線に一挙に投入されたことによって、ソ連軍は乾坤一擲の勝負に出てついには勝利を得たことに象徴される。この時期に展開された西部戦線における独ソ両軍の死闘は、後に満州に侵入して来た赤軍の一人の政治局員が、満州内に残された日本軍の豊富な食料ととくに衣料を見て非常に驚き日本は何故負けたのかと真面目な顔で語ったこと、或は私が入ソ後知り合ったライプチッヒ出身でバルト海に面するラトビアでソ連軍に降服して捕虜となったドイツ軍の現役の大尉が、ガラス繊維で作られた目の非常に荒い軍服を着用していて、ドイツ軍には武器はまだあったが衣料が全く不足して敗れたこと、或はまたレニングラードの攻防戦では、ドイツ軍将兵が衣料を剥ぎとられたり衣料が枯渇したため多数のドイツ軍将兵の凍死が戦局に影響したなどと私に語ったことなどから推して、非常によく実感できたのであった。

 日ソ中立条約の政治的位置づけに関して日本国内にあった不統一とは、此の条約を加えて四国協商とするか三国同盟とは別個のものとするかによって決る南進か北進かの国の方針がなお定まらなかったことを意味するものであったが、ソ連にとっては極東からの対ソ脅威は依然去らず、一方ドイツの緒戦における電撃作戦によって西部戦線の後退が続き危機的状態に曝されていた時、日ソ中立条約は一旦は紙屑同然の代物に過ぎなかった時期もあったのであった。それにもかかわらず日本では国際条約として正にこの条約を起点として以後の日本の南進方針が結果的に導き出されたのであったから、それは関東軍への軍事的関心や日中戦争の帰趨いかんということからソ連を開放しただけに止まらずソ連の崩壊を防ぐことになったことは否定できない。さらに春秋の論法を続ければ、ソ連にヤルタの密約をうけうる余力がなお遺され、一九四五年五月の対独戦勝利の余勢をかって西部戦線から引揚げたソ連軍を同年八月九日には満州や内蒙に侵入させ第二次大戦後の広範囲に亘ったソ連の政治的発言力を確保させたのも、実は日ソ中立条約の締結にあったとみることもできる。従って一九三三年から一九四一年の秋までソ連陸軍情報部が日本に敷設した諜報組織が果した役割と、同じ年の春日本の外務大臣により締結された日ソ中立条約が演じた役割がソ連に齎らした利益は、日本側の見込みを遙かに越えた非常に大きなものになったということができる。

 リヒアルト・ゾルゲは一九三三年から四一年十月、日本の当局によって逮捕されるまで在日諜報組織として対日諜報活動を続け、命ぜられた内容の諜報活動のほとんどすべてを完全に為し遂げたのち逮捕されたのであったが、日本の捜査当局が日本の最高機密が完全に盗まれモスクワに向けてすでに正確に通報されていたことを知ることができず、彼等の仕事が完了した後に彼等を漸く逮捕することができたということは、彼等が単純な諜報組織の仕事を越えた高度な政治的活動を展開していたことを示唆する。あらためて当時の日本の対外情報活動が果して外に向けられていたのか、防共協定や三国同盟に依存することによって逆に世界のより広く確かな情報網に取り込まれていたのが当時の有りのままの日本の姿ではなかったか。一国にとり世界の情報は力であり世界情報を躬らの情報として把えることができなかった当時の日本はすでにその実力に欠けていたとしかいいようがない。私達がたしかまだ小平の予科に在学していた頃、ヒットラーの「我が闘争」の中にあった日本の中傷記事が日本版の中から削除されていたが、在日英国大使館がそのことを日本向けに盛んにPRを続けていた。

 当時はその後の日本軍の南仏印進駐やマレー半島上陸、シンガポールの陥落までにはなお時間があった。ソ連陸軍が対日諜報活動に力を注ぎ始めたのはいうまでもなく日本の基本政策に反共政策があり、他方世界恐慌以後満州から中国へと日本の植民政策が膨張を続け、ことにソ連邦として日本に対する猜疑心を強めざるを得なかったからであったが、満州国の創設や関東軍の増強あるいは国際連盟脱退など当時日本政府がとった一連の政治行動にはソ連だけではなく国際連盟加盟国の強い警戒心を呼び起こしていたのだった。日本政府は世界の主要国から見張られていたことを歯牙にもかけなかったのか或いは関心を払う余裕すらなかったのか、いずれにせよ当時の政策当局の姿勢は狭く内向きのもので独善的であったから、私達の学生生活は将来の可能性を追求するというような明るいものではなく閉塞したものだった。世界恐慌の打撃から立ち直るための政策がやがて従来の北進政策の延長をなお続けるのか或は南進に踏み切るのかといった either or の素朴で狭くそして何でもかんでもを国策という名の行財政措置で決めて行くといったものになり日本社会が急速に変貌して行ったのを見て、これでは戦争を続けても有意義な成果を期待することがむずかしいのではないかと私はひそかに感じ始めていたのであった。一九三八年末の近衛声明から翌年末にかけて進められた南京政府樹立という対中政策過程は、私などにも日本政府が日中戦争に手を焼き始めたらしいことを可なり判然と読みとることができたのであった。

 第一次近衛内閣の外務大臣をつとめた宇垣大将が一時国立に在住、乗馬に託して無聊を慰めて居られたのをよく拝見したものであったが、国立とのそんな縁があったせいか、ある一日兼松講堂で宇垣大将を講師とした如水会主催の講演会に出席する機会があった。それはまず第二次近衛内閣の"将介石を相手にせず"といういわゆる「近衛声明」に対する厳しい批判から始まって、戦争の相手を相手にせずという政治家として無暴極まる宣言をするのでは、現在中国大陸に身命を抛って戦っている将兵にどのように償いをするつもりなのか、自分のような無学なものには到底理解することはできないといった趣旨の皮肉を込めた、しかし同じ政治家としての憤懣やる方ない心情を吐露した内容の講演であったかと記憶している。

 学内の白票事件のあと三浦先生の跡を継いで上田先生が学長に就任されたのだったが、兼松講堂でのたしか天長節の学長式辞の席上日本文化について触れられて、日本文化というものは源流に遡ってその源を質せばすべてが外来のもので、そこにもとから固有の日本文化があったわけではないということを私達学生に諄々ととかれ、日本を盟主としたアジア地域固有の文化を創出するためのいわゆる「大東亜共栄圏構想」を暗に批判されたのだった。

 一九三九年、大学に進級すると身の程も省みず高橋泰蔵先生のゼミナールに受け入れて貰った。先生には予科のとき商業通論を教わったご縁しかなかったのだったが、先生があとになってゼミテンのわれわれに、金融は誰にでもやり易く都合がよいものだから大勢の学生が金融のゼミを求めて来る、と迷惑そうにいわれたのには実は内心忸怩たるものがあったが、しかし先生がそういわれたことには、金融論が経済学から離れて特殊部門を形づくりしかも内容的に理論的な統一を失ったものになっているということへの学問的な先生らしい内省を語って居られたのだということが、その後先生が発表された一橋論叢の先生の経済発展ということを経済学の基本的で究極的な問題とされた諸論文を拝見したことによって漸く少しずつわかって行ったのであった。その頃北支事変で発行された「聯銀券」の価値維持、北支の通貨価値の維持の方策をさぐるべく先生は現地調査の旅から帰国されたが、その際われわれに先生が先生独特の口調で語られたことは、結論的に聯銀券の価値は現地への物資の追送が充分でない以上保てる筈がないのに、現地の軍当局では戦いに勝っているのに現地の通貨価値の維持ができぬ筈がないという考え方をもって居り、そのせいか佐官クラスの将校が中国人の前では最も慎むべきことを全く無視した毛脛むき出しの浴衣がけの姿で中国人を前に大騒ぎを演じていると語られた。またこの一方で戦禍の中でその相場が激しく変動する手持の法幣を小さいまだお下げ姿の少女が銭荘に行き、てきぱきと交換し乍ら生活を必死に守ろうとしている現地の様子についても付け加えられた。われわれはそこで金融論の中の大切な基本を学んでいたわけだったが、同時に日中戦争の行方についての先生の厳しい見通しについても学びとっていたわけであった。その後日中戦争が中南支へと拡大して行くと、現地当局は華興商業銀行を創設して華興券を発行、日銀券とリンクした現地通貨として市場に流通させようとしたのであったが、内地からの追送物資の裏付けが不充分なまま強制的に流通させたいわば疑似通貨たる軍票に代って、現地中国銀行の発行した法幣や英国系銀行の発行した銀行券や米ドルに並ぶ信用力をもった通貨になることもなく終ったのであった。私は満州から遠く桂林作戦に参加して生き残った若者達とチチハル/ハルピン/海林(東満)と行を共にしたのであったが、威勢のよい彼等は懐の中にあった紙屑同然の華興券と満銀券を目あてに来る物売りの品物と強引に交換していたのが私には印象的であった。ソ連軍の侵攻・敗戦という事態に隷下部隊の保有した満銀券の焼却を命じた軍の経理部長がいた反面で、すでに、武装を解除され軍事捕虜の扱いを受ける身の旧軍人が華興券で品物と交換していたということは、以後の満州と個人生活の一層の混迷を象徴していた。

軍役-深草・小平・北満

 大学の卒業が前の年の十二月に繰り上げられることを知ってからはどうにも暗く落ちつかぬ毎日であった。そうでなくてもいろいろな規制や統制でがんじ絡めにされた市民生活の中で、私は牛込にあった同潤会アパートから国立に通うという当時の学生としては贅沢だといわれても仕方がない生活をしていたのであったが、いざ学窓を出るとなるとそれ迄延期されていた徴兵検査を受けなければならない。住居の関係からか私は淀橋で徴兵検査を受けた。検査の結果は第一乙種で捕充兵であることを知り内心しめたと思ったが何のことはない、すぐに現役に編入されて翌年二月には本籍地京都深草のもとの騎兵連隊に入った。この連隊は、ノモンハン事件の大敗を教訓にしてであったのか捜索連隊と呼ばれ歩兵と騎兵と戦車の三ヶ中隊で構成されていた。私はここではじめて戦車というものを見、戦車兵として訓練を受けた。数ヶ月でここを通り抜ける、お定まりの師団歩兵連隊で集合教育を受け、次に小平の経理学校を通過して厳冬の一月末関釜連絡船と朝鮮の鉄道と満鉄と乗りつぎ、途中京城駅のつららの大きいのに驚きハルピンのホテルの氷った儘の便所にたまげながら、満州の北正面を受け持つ関東軍第四軍直轄の架橋材料第二十七中隊に赴任した。

 軍司令官に着任を申告して司令官の顔をみると、私が舞鶴中学の生徒の頃少将で舞鶴の要塞司令官であった中島今朝吾中将であった。架橋材料第二十七中隊は黒龍江対岸のソ連領へ関東軍が侵攻する際重交通工兵連隊が受け持つ鉄舟を浮べて橋梁を構築する作業のための材料運搬の任務を持たされた特殊な独立中隊で、自動車輜重隊と架橋のための鉄舟をもった工兵隊とで構成され、一九四一年九月に関東軍特別大演習の名の動員令によって召集された将兵を主体に大阪の高槻工兵隊で編成された部隊であった。従ってこの部隊も他の関特演部隊同様に国の南進方針の下に南下、この年の晩秋には北満をあとに台湾の高雄・広東・海南島経由十二月八日タイ領のバッタニ島に上陸、続いてジョホール水道の渡河作戦に参加したのち北満に再び帰って来たのであったが、それから間もなく戦死した前任主計の後任として赴任するという廻り合せとなったのであった。駐屯地は満鉄浜州線沿線の富拉爾基(フラルキ)という小さな駅から南に拡がる原野の中にあった。北満のこの地に立ってこの地へ来るまでの約一年間を振り返って想い出したことは、京都深草での捜索連隊の初年兵の頃夜汽車に乗ってフィリピン、コレヒドール作戦で戦死した十六師団将兵の夥しい数に上った遺骨を大阪港から受取って翌朝帰京、東本願寺に納めた時の光景である。真夜中に叩き起されて深草駅から車窓の力ーテンを下した国鉄奈良線に詰め込まれて大阪港に到着、港内に停泊中の貨物船の暗い船倉の中に入り、白布に包まれてぎっしりと並べられた遺骨を一人当り四柱ずつ受け取り、往路と同様奈良線で翌朝京都駅に帰ったのだったが、駅頭で遺骨を出迎える留守師団長と僧侶の前に濛々と立ち込める線香の煙を通して烏丸通りを本願寺の方向へ目を向けてみたところ、四列縦隊で進む遺骨受領の隊列の先頭が左折してすでに本願寺の中へ入っているのに隊列はこちらに向って延々とつながり京都駅では列車から下りる列がなお続いていた。この遺骨の量は日中戦争勃発以来かつて見たことのない量で、フィリピンでの犠牲がいかに大きかったかを想いその無惨さに声が出なかったのであった。

 このフィリピン作戦で渡河作戦に参加した岡山編成の関特演で動員された架橋材料二十六中隊とは翌年になって北満の富拉爾基(フラルキ)駐屯地で隣接して同居することになったのであった。この部隊も主計が戦死して私と同期の見習士官が着任した。駐屯地の東側には大興安嶺にその流れを発し、上流の嫩江という都市の名を冠してチチハル市の西を経由して下流では大きく東に蛇行ハルピンの松花江となる幅六〇〇米余りの澄んだ水の河が静かに流れていた。ハルピンを旧満鉄浜州線で発つと、戦後油田が発見されて有名になった太慶を通過満州事変の戦場昂々渓のすぐ西の鉄橋を渡ると工兵団が駐屯した富拉爾基に着く。黒煙を吐きながら通過する満鉄の列車をすぐ目の前に見ることのできた錬瓦造りの陸軍官舎の南へ約七、八キロもある北満特有の粗っぼい凸凹の道を、トラックか鴻池家供出の乗用車を利用して俗称関特演兵舎と呼ばれた冬季にはその周囲に土をかぶせて防寒する兵舎の部隊に通ったのだった。

 はじめは架橋材料二ヶ中隊しか居なかったこの地区に中国から工兵大隊が続々移駐して来たため駅に近く居た重交通工兵連隊も含めた可なりの規模に達する工兵隊を隷下にもった工兵団司令部が、ソ連から脱出した白系ロシア人が浜州線沿線のこの地に建てた立派な白亜の建物の中に入った。

 渡満してこの土地に赴任した二月のはじめの北満は寒く、内地で支給された革製の軍靴のままの私は足が冷たくて参ったが、白系ロシア人が住んだこの小さな町は明るくいくらか富裕階級の住宅だったことも印象づける家屋が散在していてある種の暖か味を感じたのだった。戦前から only Language village と言われて戦後もなお依然として改善されない東京と比較して、当時のハルピン満州里間の満鉄浜州線沿線に点在した建物と集落には個人個人の自由な生活理念と必要な生活空間が取り入れられていたことがあらためて想い起され、東京に限らず日本の今の都市開発或は開発都市というものに個々人の豊かな生活にとって基本をなすべき生活理念は一体どう考えられ取り入れられているのか疑念なしとしない。松花江岸の空域をうまく取り入れ利用して生活した白系ロシア人の街キタヤスカヤの通りは当時は綺麗な町並を保ち続けていた。私達の居た北満はなお平和で静かさを保って居り、日本軍の騎兵中隊全滅の地として彼等のために鎮魂碑が建つ昂々渓の北に位置するチチハル市の西側にかかる嫩江の鉄橋の下の河原には河砂利に混じって上質のものとは言えないが沢山の瑪瑙があったし、河岸に広がる原野には小動物を狙う鷲や大鷹が舞いのろ鹿の猟ができたし、河の魚は一年を通して大きく豊かであった。冬に入る前睡りが破られる程の大きな音を立てて河の結氷が進むと、氷上でスケートをする私達の目には、河の氷に穴をあけて釣系を垂れる釣人の小さな小屋が一面の冬景色の中に点在しているのがいかにも平和な北満の風景として克明に映ったのであった。野戦から帰りたての兵隊の気持は荒廃して気が荒く休日の外出中の兵隊同志の喧嘩には刃物や丸太を簡単に使ってやるといった派手なものであったし、夜半営内で週番司令室に実弾を撃ち込むといったことは日常茶飯のこととしてしばしば経験したが、営倉に入れられた部下と営倉で一晩を明かした女学生のような中隊長もいた。自然の恵みに対する人間の営みと一定の人間的な価値観に則った人間の営みとが正常で統一的な人間の生活として承認されない特殊で異常な軍隊生活が、北満に蛇行を続けながら松花江・黒龍江からオホーツクの海へと繋がる嫩江のほとりで続けられていた。しかし本式の渡河演習をするため冬季には工兵団の殆んどが中支の揚子江河畔に移動するため、例年この期間中は町に外出する兵隊の数が限られ富拉爾基の町の休日も比較的静かだったのである。

俘愁一東満・シベリア鉄道・ヨーロッパロシア

 軍隊を社会とみることには問題があるが、しかし軍人は軍隊の異常性と特殊性によって一般の正常な社会と区分されある意味で保護された社会である。軍人によって構成される軍隊は一般社会の変化には適応能力を欠いている。満州国という特殊につくり上げられた国の社会も亦社会の変化に適応しうる充分な力を持ち合わせていなかった。一国の敗戦という決定的な瞬間に起る変化が個人の生活に与えるインパクトは予め予想することの出来る性格のものではない。特殊な国家であることや或はその特殊性によってはじめて自己防衛力乃至自己主張を維持しえた満州国と在満軍が敗戦から受けた打撃は大きく決定的であった。第一次大戦のドイツ軍の敗戦によって捕虜となったドイツ軍の将兵が捕虜になったというそのこと丈けによって精鋭を誇ったカイゼルの軍隊の将兵はすっかり駄目な集団になったと指摘したルーデンドルフの言葉は前に触れたところだが、軍隊が烏合の衆と化しその統一性を失ったあとはたまたま集団の形が残存していたにしても個人個人はそれぞれの常識と体力を頼りにして生きる以外生存方法は全くない。東満の収容所で私は蛇をとって喰べた。

 東満の収容所に約二ヶ月抱束されたあと、ソ連軍工兵の手によって満鉄の標準軌道がいち早くソ連の広軌道につけ換えられた鉄道の窓の小さい貨物車に乗せられて、旧満州の外へ出たのは敗戦の年の十一月三日であった。牡丹江駅を列車が発車した時鉄道の脇に白骨化した人間の骨盤がポツンと放置してあったのを見かけたがすでに戦場掃除は終っていたようであった。国境を越えて間もなく停車したウォロシロフの駅で車外に若い女の声を耳にしたように思い貨物車の扉の隙間から外を覗いてみると、検車掛らしい若い女性労働者が歌い乍ら長い柄の金鎚を片手に油で黒光りしたスカートにストッキング作業靴という出立で私達が詰め込まれている列車の検車をしていた。こういう姿の若いロシア人女性の労働者が実際に働いているのを私はこの時生れてはじめて見たのであった。

 私達を乗せた列車が北上してハバロフスクヘ向う車中でもすし詰の旧日本軍将校団の演じたルーデンドルフ現象は一向に治まることなく続いた。満州をあとにシベリア鉄道を列車は北上していることを承知しながら彼等はなお日本海の港に向って輸送されていると主張し続ける者が多数居たし、ハバロフスクの近くでは下士官であった若者が二名、警乗兵士の目を盗み大変な深い雪の中を満州に向けて脱走しようとしたのだった。この時私は、敗戦を知らされた桂林作戦帰りの野戦重砲隊の若者数名が二発の弾を砲身に逆さに詰め込み発射させハルピンの満鉄ホテルの近くで自決したことを想ったのであったが、この二人の若者は捕えられ凍傷のため両脚を切断して躄(いざ)り姿で俘虜生活を送ることを余儀なくされたのだった。戦争をし戦いに勝つことを最終の目的とする軍というものは若者のこのような性格を逆に利用してその目的を達成しようとする魔性を秘めている。というならば、私達を長期間暗く寒い貨物列車の中に閉じ込め、行き先を一切告げることなくヨーロッパロシア迄沈黙のまま私達を輸送したソ連のとった輸送の仕方は、私達がそれによって拷問にかけられたと同じ程苛酷で陰惨な性格をもったものであったのである。ハルピンの小学校に乳呑み児を家族に託して満州をあとにした私は、ヨーロッパロシアヘの一ヶ月余りの俘虜行とその後の抑留生活の中での心の苦しみからの救いをハルピン小学校に残したなにがしかの食糧の恵みに只管頼る以外他の方法がなかったのであった。

 敗戦の年の暮から翌年の春にかけてのヨーロッパロシアでの抑留生活はその前年の北満でのそれとは打って変わった毎日毎日が惨憺たるものであった。薄い毛布一枚を頼りに友人と抱き合って寒さを防ぎ乍ら眠れぬ夜を過し、栄養とくにビタミン不足による疲労を少しでも柔げるためコルホーズのキャベツを足で蹴飛ばして持ち帰り古バケツで茹でて喰べるとか、人参を畑の土の中から堀り出して拾った空缶から苦心して作った粗末な代用ナイフで泥を落し皮を剥いて口にするなど原始的な様々な工夫を凝らして生きようとしたのであった。それは同じ境遇にあったドイツ人やオランダ人などなどでも全く同じであって、私は彼等がスープ殻として捨てられた牛や豚の骨髄を漁っていたのをよく見かけたものである。寒さと疲労とによる極限状況にあっても潜在意識は燃え尽きることがないものなのか寒さで眠れぬ一夜、私が北満に放置して来た家族が、父が昔よく使用していたハイヤーに乗車している姿で夢の中に現われたのであったが夢の中でどのように目をこらして見ようとしても乳呑み児を見つけ出すことは遂に出来なかった。

 この年の春から初夏にかけてウクライナの空が高くなる頃私達はトラックの荷物の上に乗ってシベリア鉄道本線のモスクワに近い収容所に移されると同時に入院した。トラックに満載された荷物にしがみついて可なり長距離を輸送されるのは大変で振り落されないように必死に綱を握りしめていたが、太陽の光に曝されていることが辛く身体が非常に熱いと思った。病院といっても簡単な俘虜専用の療養所で検温した処四十度の発熱をしていた。マラリアという診断であったが私にはそうは思えなかった。敗戦後のハルピン/阿城/海林から海林/杜丹江/ウオロシロフ/ハバロフスク/オムスク/欧露への俘虜行とその年の毛布一枚で過した越冬迄の間に累積した身心の疲労が金属疲労のように突然に出て仕舞ったのだと思った。困ったとは思ったがここでこのまま死ぬとは思わなかった。死んではならないと自分自身に言い聞かせたのだった。ところでここへ入所して私は第二次近衛内閣の外務大臣を務め一九四一年の春シベリア鉄道を経由してヒットラーを訪問したあとソ連と中立条約を締結して帰国した松岡洋右の若い息子がそこに入所しているのを知ったのであった。それは療養所側でそのことを予め私達に知らせて置くという配慮が払われていたからなのであったが、考えてみればそのこと自体私達には異常なことのように感じられたのであった。注意をして療養所内の様子を伺っていると果せるかな彼に対する看護婦達の応待が私達に対するそれとは異って非常に丁寧で行き届いたものであったばかりでなく食事の献立や内容も特別なものであることが判明したのであった。

 私はすぐ日ソ中立条約とそのことが深くかかわっていると直感したし、同時に敗戦前の短い間北満の嫩江のほとりで尾崎.ゾルゲ事件と日ソ中立条約とのかかわりについて、親しかった新聞記者出身の友人とよく話し合ったことを想い出したのだった。ソ連側と松岡君に対する特別な扱い方がそれら二つのことがソ連では一本の糸によって結びつけられているようにも思われたのであったが、しかし仮にそうであったとしてもそれがソ連側の果してどんな見方によってそうなのかは私には矢張り不思議なことに思われた。抑留生活の経験で奇妙に思われたことはこの外にもあった。それは同じ収容所内で発生した食料の特配に関して経験したことであった。飢餓生活の中で食料に関する想いは切実で日本人であろうとドイツ人であろうと異るものではない。このことについてはいつか前にも触れたところであるが、ある日収容所に列車でバターが到着、そのバターが捕虜に特配されることが知らされた。日独双方の代表者がそれぞれ収容所長の若い赤軍下士官(このあと間もなく将校に進級した)のもとへ手土産をもって交渉に臨んだのであったが交渉は不調に終って、ドイツ人側は憤然踵を返して居住区域へと帰っていったのに対して、日本人側は今回は不調に終って残念であったがこのような機会が次にあったならどうぞよろしくと、今回の折衝のために準備したプレゼントを所長に差し出した。この若者は故ない贈り物であるとして受け取ることを拒んだのであったが、日本人側が受け取って呉れるよう再三にわたって懇請したのにたじろいだためか顔を赤くしてやや恥づかしそうにそれを受け取ったのであった。勿論彼の気持は知る由もなく、このいわば事件と先の松岡青年に対する所内療養所側の特別待遇事件とは別々の事件というべきであろう。しかし、今では抑留経験者によって屡々経験された現象として日本にも伝えられている一般ロシア人が抑留者に収容所外で示した様々の形の素朴な人情と、一見別々の事柄とみなされる前記の現象との間にはその深層に於てロシア人一般に共有された木訥な生活があるように私には感じられて来たのであった。

 日ソ中立条約の締結に直接であれあるいは間接であれ関わりを持った当事者の政治的立場や思惑がどのようにどの程度どう違っていたとしても、この条約が結果としてソ連を一九四一年末モスクワに向けて仕掛けられたドイツの電撃線による破壊から守ったことは隠れもないことなのであって、本来はオフィシャルでミニステリアルで、それらの次元で完結している筈の問題や現象が中央の指示によって一般大衆のレベルヘと何等の抵抗がなく容易に浸透するのがこの国の風土的土壌でありヨーロッパの西側に対する東側の特徴であるように私には思えて来るのである。ロシア人の純朴さについては満州の駐屯地で互いに隣接し合った架橋材料中隊で親しかった岡山県出身の某氏が身体を壊わして入院中付添ったロシア人看護婦に、ある日トマトを所望したところその看護婦は病院からしばらく姿を消したあと暖かい地方からトマトを持帰り彼に与えたのに対して彼がそれを感謝して息を引取ったことについても私は先に触れたが、民族単位よりもソビエト単位による巨大な社会主義国がソビエトロシア共和国として第一次大戦後に建設され一国社会主義の体制をとりつつ長期に亘って続いたのは、合理的な西側の開発モデルが東側の人々の生活の仕方を支えた東側個有の農民社会の風土によって支えられた結果ではなかったろうかと私は考えてみる。実際、赤い星だとかイズベスチア、プラウダなどはそもそも新聞というよりガゼタなのであって一般の生活者には読まれるものであるより多くはマホルカ煙草の巻紙やその他の日常生活ための材料として使用されて来た。一般に何かむづかしい問題に直面した時、うまくいかなかった時或は画餅に帰したようなとき彼等がよく口にした「ニチエボ」という言葉が彼等の行動様式を示しているように私には見えたのであった。とすると、この非西欧的な生活の仕方が楽天的で素朴で暖昧で農民社会のそれであるという点で、中国社会の土壌や日本の官尊民卑の社会的土壌や拳銃一丁に頼った開拓者の楽観的な風土にも共通するものがあり、それがトップ・ダウンの形式によるものであろうと民主的合意に基くものだといわれるものであろうと共通して成長至上主義の制度的開発システムを呼び込んで定着させ易い基本条件をなしているのではないかと考えてみる。

 おわりに

 今世紀に入ってから私達が経験した二つの大戦後に現れた戦後的後進社会の開発システムとしてのもろもろの経済制度乃至は経済理念が一つの制度であり理念である限り、それが草臥れてその儘では不適切な制度であることが判明するかあるいはその開発成長主義の体制そのものが早や不必要な制度であることが知らされた時、新構想による新しい社会システムヘとシステムモデルを変えて行くことが不可欠になる。資本家と労働者としか存在しない体制と考えられた資本主義モデルに対するソビエトを単位としたソビエトロシア共和国連邦は、その社会主義の体制によって高い貯蓄水準を長期間自動的に生み出し乍ら外に向っては西側諸国やドイツや日本が選んだ特殊な国家体制との困難な関係にも綱渡りの芸当でうまく適応して来たが、社会主義国の貯蓄率が無理な水準で強行されたとき中央当局による有効な経済計画の運行が停止するという常識の壁にぶつかった。私は今の世界を冷戦がソ連の大いなる失敗によって米国の勝利に帰したという見方に組しない。冷戦の終りは完結していないし、また戦後的開発システムによる経済成長主義のシステムの枠組みの検討の必要性はソ連を除いた諸国にも存在する。従ってその結果如何が冷戦の終りの在方を占うものだと考えている。

 ソ連によって仕組まれゾルゲによって組織化された対日諜報グループの一員として重要な役割を果した尾崎秀実は日本の治安維持当局によって逮捕されたのち処刑されるまでの間に、「政治家は騙され易いものだ」と述べたが私達も政治家の雄弁に騙され易い。国際政治の舞台である特定の一国の政治的意図や政治家の思惑が完全な勝利を収めるということはない。勝ってやっと官軍、負ければ賊軍であって官軍であることも賊軍に成り下るときもあって勝ち続けるということはありえない。政治には君子豹変今日は昨日の敵を友とし明日は今日の友に叛くことが求められ政治は君子豹変のドラマである。

 長い歴史の流れの中で、私達には長いと思われている私達の生きて来た人生行路は短いものであっても正しく私達自身のものに相異ないが、技術進歩という名の技術的変化による利害に釣られる豹変君子によって私達の生活の本当の意味での豊かさが私達が庶民として生きようとすればする程損われる場合が多い。

 一九四七年の初冬の冷たい雨に打たれながら私は雨で泥沼のようになったコルホーズを後に漸く開かれた帰国の途につくことができた。シベリア鉄道沿線に降った豪雪に私達が乗った列車は度々立往生させられた。二年前ヨーロッパロシアヘの苦しく疲れ切った俘虜行の合間を見付けて急いで貸車から降り鉄道敷の土手を滑り落ちるようにして手につけてみた時のバイカル湖の水は澄み、湖に拡がった広く綺麗な風景によって俘愁の傷みが何程か慰められたのであったが、帰路のバイカル湖はみはるかす白皚皚の暮色の中で長時間私達の列車を停めて帰国に逸る私達の気持に立ち塞がっているように見えた。私達は遂にこの年の内に帰還船に乗船する希望を絶たれナホトカを最後に出港して行った帰還船の船尾灯の赤い灯を見送ったのであった。

 この年の冬は後続の日本人集団のための宿舎づくりをさせられ直径二〇米程の生木の丸太運びと一米以上もある堅い凍土に丸太の柱を立てる穴堀りですでに消耗していた私の身体は更に衰えて行った。身体の状態を試してみようと幅飛びをしてみたが二米を飛ぶことが出来なかった。

 解氷期が来てナホトカ港の岩場にオットセイが見られる春が来たが帰還船に乗船できたのは日本ではもう初夏の五月であった。到着した船はスカジャプナンバーをつけ戦争中に建造されたシングルボトムの一万屯クラスの船であった。乗船してもう一度ナホトカ港を振り返りよく見つめたあと今度は帰り行く日本の方向を眺めた時、こうして帰還船に乗り込み内地の土を踏むまでの間だけが前後を通じて一番楽なひとときなのかも知れないと私は誰に語るともなく思わず眩いたのであった。もう三年近く前の間もなく北満の寒い冬を迎えようとするハルピンの小学校に集まった日本人避難民の中に乳呑み児と共に遺した家族の安否を想うと、その時の私にとって帰還船は心の避難所であり帰還船の中に居るしばらくの間だけが救われているのだと思うしかなかったのであった。陸軍経理学校を卒業して渡満した際の関釜連絡船では真冬の海の荒天のため大部屋の畳の上をころげ廻る程船は大揺れに揺れたのであったが船酔いは全く経験しなかった。渡満の際のような船の揺れは帰還船には無く日本海は静かで航海は順調であったし間違いなく俘愁から解放されていたのであったが、体調を崩し将来への自信を持つ丈の気力がなく家族の安否も不明であったため私は束の間の成り行きに縋ろうとした。巨視的な開発主義とか或は成長主義という制度的枠組みは個人個人がそれぞれの長期的な可能性を追及しようとする生活の仕方を短期的で必然的な過程の中へと組み込もうとするものだと私は思っている。有機的必然的な経済成長過程を同じ物差しで引延ばすことによって春秋に富む若者達の可能性を追求しようとする精神を仮に疎外するようでは成長は長期的一般的な発展に結びつきうるものでないばかりではなく、若者達に期待されるべき彼等の相互依存の関係による信頼ができる経済社会の発展を損うことになると思う。今必要な教育制度その他の法的に制定された制度の見直しにはこれらのことが考慮されることが大切だと思う。先の見通しがよく樹てられず周囲のグレーゾーンも大きく拡がっているからといって短期的な束の間の制度的過程に依存しようとする生活態度は健康とはいえず世界が大きく変化することを迫られている今日改められ見直されなければならないと今私は思っている。