2組  中島 義彦

 

 はしがき

 このようなことを今頃になって老人連中の文集に書くのもどうかと思ったが、出来れば次代を担う若い人達によく読んでもらいたい。

 自分ながらこの年齢まで何とか元気に生きて来たことを不思議に思う。親爺は四十八才の働き盛りで世を去り、その後おふくろは六十七才まで存命したが、兄(二人)姉(一人)はすべて六十五才に至らずして亡くなっており、当家にとって七十才をこえることは正に至難のことと思っていたものである。人間は持って生れた寿命ありと言う人もあるが、自分としては日常の生活ぶり(主として食生活)そのものが深くかかわっているものと確信している。

 節酒か断酒か?

 酒は「百薬の長」というが、小生にとってはタバコ同様百害あって一利なし、という感懐しかない。親爺も兄貴達もヘビードリンカーで、どちらかと言えばアル中に近かったかもしれない。小生は幸か不幸か学生時代陸上ホッケーをひたすらやっていたこと、そしておふくろから常日頃「お前だけは酒を飲むな」と言いふくめられて来たこともあって、在学中はアルコール類を口にしたことは殆どなかったが、繰り上げ卒業後直ちに海軍に身を投じてからは飲む機会も多かったというか、生来素質があったというべきか、急速に腕をあげ、大酒飲みに成長してしまったわけだ。復員後サラリーマン生活に戻ってからは職掌がらとはいえ社用族と化しよくもまあ飲んだものと我ながら思う。

 酒の効用はプラス面、マイナス面に亘って多様であるが、これすべて飲み方一つで大きく変るものであることは言うまでもない。

 節度のない飲み方、酒に呑まれる飲み方、そして結果として出てくる酒癖の悪さを考えると自信のない輩は、先ず一滴も飲まない位の決意をいつも持っていなければなるまい。自分自身も含めて酒の飲み方が悪いと、家族はもとより他人にも迷惑をかけ、而も自分の健康を害するに至っては何をか言わんやである。後悔先に立たずの典型的なものが「酒」であるというのが、小生の痛切な思いである。

 節酒か断酒かは人それぞれの選択であるにしても一般論としては「酒が百害のもと」になることが多いことを銘記すべきであろう。

 現在小生には暴飲時代のツケとして心房細動による慢性的な不整脈及び慢性肝炎が残されているが、この程度ならまだ不幸中の幸いと言ったところで、大ケガはもとよりよく命を落とさなかったものと痛感する。いずれにしても小生としては身内の短命はやはりアルコールに原因ありと結論づけているわけで、気狂い水とも言われる酒は出来る限り飲まないにこしたことはない。

 食生活の改善

 人間の健康に一番大切なものは食生活と言うべきであろう。幼少の頃から肉類が好きで魚類は大嫌いであり、緑黄色野菜や豆類も親に言われてシブシブ食べていたわけで、現代風に言えば動物性脂肪蛋白偏向で而も塩分や糖分の取り過ぎもあって糖尿こそなかったが、四十才を過ぎて高血圧とアルコールによる肝炎に悩まされるに至った。

 このため対症療法的に医者からやたらにクスリを貰っては気休めに飲むだけで、肝腎の生活態度は少しも改善されていないから病状が良くなるはずがない。このような状態が十年以上続いたであろうか?さすがの家内も老後を考えるとこれではならじと、断乎たる決意をもって食生活の改善による健康管理に乗り出して来たものである。即ち、

(一)白米→玄米(白米は粕である)。この頃の炊飯器は玄米炊きの出来るものが多い。
(二)植物性脂肪蛋白を中心とする。(豆類を極力食べる。トウフ、納豆も良い)。
(三)動物性脂肪蛋白は魚類に求める。
(四)緑黄色野菜及び海草類を毎日摂取する。(毎朝の味噌汁には人参、小松菜、ワカメ等を必ず入れて、だしには煮干しを使い一緒に食べる)。
(五)塩分を控え目にする。(醤油はなるべく使わないようにする)。

 という毎日のお膳立てであるが、これらをべースとしてどういう組み合せ、割合で行うかは各人の趣味嗜好との絡みで選択すればよかろう。要は味覚というものは馴れの問題があるからむしろ素材そのもの本来のあじを味わうことの方が大切であると思うが良い。

 以上のような食生活を始めてやがて十二、三年にはなるであろうか?おかげで血圧も正常化し、肝機能も回復、糖尿の気も全くない。ただ不整脈そのものは全快したとは言い難いが、脈拍数は七〇前後で問題なしと医者からも言われている。

 今後このような食生活を続けることでどの程度長生き出来るかは知るよしもないが、少くとも欧米風の動物性脂肪蛋白偏向の生活を排除し、何とか健やかに長生きをして、寝たきり老人とならないよう念願している今日この頃である。

 禁煙のすすめ

 この項は健康管理面から最初に述べるべきであったかも知れないが、スモーカーは初めに自分にとって不都合な文言を目にすると読んでくれないと考えて最後に嫌味たっぷり書き述べることにした。タバコを止めてからかれこれ二十年以上にはなるだろう。そして分ったことは所詮タバコの煙はやはりケムリであり、ニコチン中毒者以外の人にとってはケムたくて仕方がない。目にしみる、ノドや鼻が痛くなるという有害物でしかないということだ。「タバコこそ百害あって一利なし」の典型的なものと知るべきである。

 最近は疫学的にも喫煙は「ガン」の引き金になるとその道の権威者たちからはっきりと警告されているにもかかわらず日本煙草産業はこれを認知しようとせず、逆に外国煙草に負けてならじと高い宣伝費を使ってこれでもかと販売拡大にウツツを抜かしている。これまさに身心ともに正常な人間を麻薬中毒においこむ元凶であると言うべきである。「吸いすぎに注意しよう」などという子供だましの気休め的文書が何とソラゾラしいことか?

 日本でもようやくタバコの害に気がつき禁煙する人が男性では増えているようだが、欧米先進諸国に比しまだまだということのようだ。逆に若い女性においては喫煙率が増えているというのはまことに苦々しい限りである。特に女性の場合はまるでファッションの一部とでも思っているのか、テレビのドラマで格好をつけて女性にタバコを吸わせている場面が出てくるとドラマそのものが低俗に見えてくる。同様に刑事もの、学校ものドラマでもほとんどの刑事、教師がスパスパとタバコを四六時中吸っているサマは子供の教育上も大問題であり、全く非常識のソシリを免れまい。特に人を指導、教育する立場の人、健康管理に直接携わる医者などがタバコそのものの害を自覚しない、言い方を変えればニコチン中毒(一種の麻薬中毒そのものである)の象徴的症状が喫煙行為であることを認識しないでひたすらタバコの宣伝に一役も二役も買っていること自体が社会的に問題とされるべきである。

 米国では知性あり、教養あり、社会的に地位のある人たちは喫煙しないと聞いている。そして嫌煙権の擁護もきわめて進んでいるというが、日本の分煙対策はどうか?特にJR各線の対策はかっての仲間である日本煙草産業に気兼ねした全くの不埒千万なものと言うべきである。

 カナダでは小学校の教育課程においてタバコの害を教えこんでいるというが我が日本においても正にこのような方法でタバコそのものを絶対に手にしない人間を作りあげていくことが最重要課題である。

 喫煙は趣味嗜好の一つであると得意になってケムリをプカプカやっている輩は正に非喫煙者(乳幼児も含む)の迷惑を考えない情ない人間であると思うが、又同時に自分が病人(中毒患者)であるということを自覚出来ない哀れな人間であることも事実であり、「タバコのない社会」の実現に向けて具体策を推進しつつある世界の多くの国々同様日本においても一刻も早く政府や医学関係機関の積極的な取組みが切望される。

 喫煙者に知っておいてほしいことを列挙すると次の通り。

(1)  喫煙者は非喫煙者の健康を障害する加害者であること。自宅では吸わないが職場では吸うなどというのはもっともタチが悪い。
(2)  道路、駅のプラットホーム、線路上に投げ捨てられた無数の吸殻を何と見るか?誰が清掃するのか。
(3)  火事の原因にタバコの火の不仕末が何と多いことか。自分はタバコを吸うことより税金を納めているのだと威張っている連中はタバコが原因の火事による損害、後始末に要する出費の方がはるかに多いということを知るべし。タバコの投げすては時に放火にもなりかねない犯罪行為と思いなさい。
(4)  喫煙者のマナーが問題とされるが、他人に喫煙の了解を求めたからといって直ちに吸って良いものではない。「ダメです」といわれて快く吸うのを辞めることが出来るのか?多くの人は吸って貰いたくないと思っていても口に出すことが出来ないで「どうぞ」といっているのが真実であろう。非喫煙者のいる時は我慢し、後刻喫煙室で存分にタバコを吸うがよい。新幹線を始めJR各線はすべて禁煙車とすべきである。
(5)  乳幼児が呑みこむ異物のトップは「タバコ」であることを銘記すべし。
(6)  禁煙は決して不可能ではない。それは諸君自身の意志によるものだ。それには喫煙そのものが中毒症状であり自らも傷つき他人にも害を与えるものであることを強く自覚してほしい。

 一度禁煙に踏みきったら一定期間絶対に続けなければならない。一番悪いのはいつも決心だけで、禁.煙しようと思えばいつでもやれるさという決行の先きおくり(逆に言えば心の弱さ)が結局禁煙を不可能にするものであることを肝に銘じなさい。

 さあ今からでも遅くはない。今日から早速禁煙を開始しよう。麻薬中毒から一刻も早く解放されるために!

 むすび

 以上小生の過去の反省と共に説教めいた言辞を弄したが、「タバコ」のことだけは喫煙者諸兄並に家族の方々のことを思えばこその諫言として素直に受けとって欲しい。最後に家内の小生に対する現在までの、そしてこれから先も続くであろうあらゆる面での思いやりに心から感謝の念を捧げるものである。