6組故中山幸治郎嫁  中山 夏子

 

 春が巡ってきた。いつでも、この季節は嬉しい。
 幼い頃の私は、新しい文房具や教科書に胸をときめかせたものだった。けれども、大人になってからの方が、もっと、待ち遠しく感じるのは何故?
 例えぱ、街を歩いている。すると、ふと、どこからか鼻をくすぐる梅の芳香。こんな小さな発見にも心踊るのが、春。陽差しが和らかになると、人の心もどんどん優しくなっていく。

 ・・・さて、そろそろ我が家のベゴニア・ゼラニウム達を、ベランダに並べて、春の空気をたくさん吸わせてあげましょう。それにしても、まあ随分鉢植えが増えてしまったこと・・と、ひとり言を言いながら、一寸手を休め、過ぎ去りし日々に想いを馳せる。花は大好きでも、嫁ぐ前は、およそ土いじりなどしなかった私が、「植物愛好家」になった。

・・今の私は、野の花でさえも、いとおしい・・
・・確かに私は、いつからか、変わった・・

 とりとめもなく、こんな事を考え始めるうちに、知らず知らず影響を受けた一人の姿が・・。ああ、きっと、そうなのだわ。
 それは父、つまり、中山幸治郎氏。

 父と私の初対面は、今思い起こすと愉快なもの。結婚前のことで、夫の母にはすでにお目にかかっていたのだが、父とはまだお会いする機会がなかった時のこと。海外から帰国する「未来の夫」を、私は成田空港で、父は箱崎ターミナルで、出迎えていたが、なにしろ、お互いに面識がないので、会えるかどうかという、緊張感より不安がつのった。
「あの方かしら、それとも、あの方かしら」と父らしき年代の男性を探す私。
「あの娘さんだろうか、それとも……」と、父も同様だったに違いない。後に父は恥ずかしそうに、
「通りがかる若い女性ばかりを、あまりじろじろ見ては、不審に思われるのではと、何気ない風を装いながら探すのに苦心した」と言い、一同大笑いした。そして、夫の紹介で、ようやくお会いすることができた。緊張気味の私に、少々ぎこちなく、しかし物柔らかな眼差しで、見つめ返して下さったのを、覚えている。

 ・・堅実そうな、良いお父様・・
 これが、私の第一印象だった。
 その夏の日以来、秋、冬と、夫の自宅に数回、足を運ぶようになったが、その都度びっくりしたのはどんな時季にも、お部屋・お庭に所狭しと栽培された季節ごとの、花、花、花。特に寒い冬でさえも暖かなお部屋に、静かに豪華に咲いている、シンビジウム等の花々には、うっとりしたものだった。「蘭」の花の類と言えば、花屋さんでも、ひときわ目をひく高貴な花。それらの鉢植えが、お部屋のあちらこちらに飾られ、しかも、どれも素晴らしい花をたくさんつけているのだから、観ている私までもすっかり優雅な気分に浸ってしまった。
 そう、これらはすべて父が手掛けたものだった。

 聞く所によると、父は、大分以前から園芸の趣味を持ち、庭に、四季を通じて絶やすことなく花を咲かせることが夢だったとか。だから、どんな炎天下でも、休日など時間がある時は庭に出て、植物と語り合い、手入れを怠ったことがなかったという。
「この季節は、これを、次の季節には、あれを」と計画しながら、次々と増やしていったのだという。初めてお会いした時の、「いかにも真面目なサラリーマン」といった背広姿の父、休日に作業着姿で一生懸命「花作り」をする父、別の父の一面を知った気がした。

 「花」と言えば「女性が好むもの」といった、私の固定観念は、根底から覆された。
 大正生まれの父、戦前・戦中・戦後と、様々な時代を生き、高度成長の歯車と共に歩んできた父である。しかし、心の中にはいつも、少年の頃に過ごした故郷「福島」の美しい山々、小川のせせらぎがあったのかもしれない。父の「庭作り」は、そんな郷愁からなのかもしれない。

 花の王様「蘭」の他に、父はとりわけ「バラ」の栽培にも力を注いでいた。
 バラは、花の女王。深紅のバラは、全女性のあこがれの象徴とも言えよう。私もまた同様、大好きな花の一つである。だが、詳しい種類は全く知らない。そんな私に、同じ「赤いバラ」と言っても、数多くの品種、名前があり、咲く時期も、手入れの仕方も香りも、それぞれ個性を持っている事を語ってくださったことがある。父は、庭師も入れずに、「ここは○○」「ここは××」と、赤やクリーム色、白等のバラの苗を買ってきては、次々と植え、咲くのを楽しみに、いつも手入れをしていたそうだ。

 後に知ったことだが、「バラ作り」というものは、草花の中でもとりわけ難しく、美しい大輪の花を咲かせるには、四季を通じて細心の注意を施さないといけないとのこと。そんな大切に育てあげたバラも春、秋と、開花すると、父は切り花にして、惜し気もなく、近所の方々にさしあげていた。私も幾度もその花束をいただいたことがある。それらはどれも花屋さんで売られている物より、ずっとかぐわしく、大きく大きく広がり、生き生きとしているから、長く咲き続けた。いただいた誰もが、父のバラのファンになり、花の咲く頃を心待ちにしていたらしい。今でもバラの花を見かけると、その美しい中に、父の手入れをしている姿を、想像の世界で思い描いてしまう。

 私と父、つまり嫁と舅なるものは、一般的にも、そうであろうが、親子関係とはいえ、一番ぎこちなさがつきまとう。話題も、共通項があまりない。母と話すような、女性同志の世間話をするでもなし、かと言って、政治・経済の難しい話をするでもなし。しかし、草花に関しては、私は、知らない花の名前や育て方を尋ね、会話が弾んだことを思い出す。又、それを嬉しそうに答えて下さる時の笑顔が、今は、なつかしい。

 私達が結婚してからすぐの頃、父は一度だけ、新居にいらしたことがあった。結婚後、間もなく、まだ閑散とした部屋を、少しでも華やいだ空気にしてあげたいという「親心」の為か、鮮やかなオレンジ色の「クンシラン」の鉢を持って現れたのだった。しかし、新婚カップルの家庭に、男親が一人で訪れたという照れの為だろうか、いそいそと帰ってしまわれた。この事は、今も悔やまれてならない。

 ・・せめてもう一度、今度はゆっくりと、来訪してほしかった・・

 それから一年後、突然、病床に臥し、「平成」を知ることもなく、大正・昭和の時代を、駆け足で走りぬけてしまった父。
 66才の春、病院を取り囲む見事な桜並木を賞でることもなく見送って、夏の始めに、生涯のピリオドを打ってしまわれた。

 あれから、また春が来て、夏が来て・・相変わらず母の庭には、いつもと同じ順番、見慣れた花を目にする。だが、私達は年ごとに、これらに深く興味を持って接するようになった。母も、夫も、私も、そして父をよく知っている人々までも。どうやら、父は最後に、人々の心の中に優しい種を、数多くの種を、蒔いていかれたよう。

 再び、春が巡ってきた。
 今年もきっと、色とりどりの花々が庭を飾ることだろう。そんな事を考えていたら、庭先で、いたずらっぽく笑っている父の姿を見つけたような気がした。私の思い出の中の父は、お顔も、お声も、初めてお会いした時のまま、今もなお、変わっていない。

  追 記

 父は、今年で七回忌を迎えます。嫁いで、その間約二年くらいの思い出しか、私にはありません。それ以上の長い年月を共にした母、夫の方が、もっと数多くのエピソードを語れるに違いありません。けれども、こうして私にペンを執るよう勧め、励まして下さったお二人に、改めて感謝の意を捧げたいと思います。

 最後に父へ

 皆、仲良く、健康に過ごしております。
 今年も、お父様が育てたバラもサツキも、その他多くの植物も、一斉に芽吹き始めました。