3組  二木 正治

 

 中学時代からテニスばかりやって入試に合格した時徳島中学の教員室では庭球部長の英語の先生が大袈裟な声で宣伝してくれたのを思い出す。英語のヒアリングと毛筆の作文のおかげで数学などがカバーされたのでしょう。

 予科には新しく寮が出来、田舎出身の者には大助かりで青春を謳歌していましたが、一年たった頃ストームの余波で殆ど全寮の窓ガラスをこわし、罰金をとられました。ストームが再々あり、気の弱い者は押入れに眠るものもあり、柔道部などの荒くれ男のストームなど気付いた時にはバケツに水を入れて置いて廊下に出て水をかけたこともあります。コンパ崩れでは、桜堤から津田塾の寮まで遠征してドラ声を上げること再々あり、新入生には大受けでした。

 徳島中学には川沿いに艇庫があり、八人制のボートがあり、毎年琵琶湖の大会に行っていることを知っていた寮のボート部の先輩が毎日勧誘に来るので、既にテニス部に入ったことで断りました。

 一橋大学のボートとテニスは代々強く、予科では隅田川の艇庫の辺りでHGSの三組に一年から三年まで分けて優勝を決めるので、我々の三組などはスポーッマンが多いので大抵優勝したのではないかと思います。

 上京した直後にポプラクラブの少年テニストナーメントがある事をきいて一人で出場しましたが、知人もなく心細い極みでしたが、早稲田の大将になった中原君に勝って優勝し、しまい頃になってクラブの婦人が拍手や声援をして下さったので助かりました。そんな事で新入生ながら皆の目に止ったので、リーグ戦が始まる前に三年上の先輩と組んで正選手になり、猛烈な練習が始まりました。

 予科の二年生には目蒲線の洗足の叔父の家、三年生には青山南町の叔母の家、と親類筋に置いて頂けたのですが、乗換駅が四つで一時間以上かかるので、大学になってからは、西荻窪、荻窪に新築の下宿を探し、三年生になった時、弟二人と三人の県人ばかりで賑わった年もありました。

 雨が降らぬと盛り場に遊びに行けぬ生活でしたので、三年生の夏休みには同窓の瀬戸山君が北海道へ帰る時に一週間、下田君、城所君をさそって、学生時代の最後の遊びを楽しみました。

 戦争になって最初の繰り上げ卒業(昭和十六年十二月卒業)になり、翌十七年二月一日に徳島の歩兵聯隊へ入営になりますので、年の暮に帰郷して正月を迎え、一月の初めに大阪ガス営業部に顔を出しますと、入営までに間に合うよう男百人女二十人の対外ゲームの出来る選手を選び、強化して呉れと社長から依頼がありました。「体位向上課」という課を作ったのは心身共に健やかな身体を銃後で育てようと云うことと理解しました。戦争になって毎朝六時に自動車運転手を幸町の私の宿(母方の祖父宅)へ派遣して下さり、八時までには御堂筋本社へ帰れるようにして頂け、それから本社全員を御堂筋の御陵神社まで駈け足をしました。

 早朝の甲子園野球場の隣のアンツーカーコート百面は私が復員した頃は芋畑になっていました。
 早朝から日没までプロ以上でしたが、全社員に顔が売れ、多数の人から長春の経理学校や、広島の高射砲隊、博多の軍司令等へ通信があり、大阪のことがよく判りました。特に大阪ガスのテニスがCクラスからBとA、優勝は三年でタッタニ十日位の強化練習の成果をうれしく思いました。入営の三日ばかり前に帰郷して入営し敗戦まで次の通り点々と移動しました。

 @徳島歩兵聯隊(S17・3)、A丸亀歩兵聯隊"見習士官経理部要員・善通寺師団通学(S17・9・1)、B新京(長春)経理学校(S18・1)、C丸亀、D徳島原隊、E戦闘高射砲部隊本部11広島城山御便殿(ごへんでん)下。見習士官で約一年の勤務で「福山」乗換で「鞆の浦」へ五、六回往復しましたが、新兵を教育するのはプロペラ機に五百米の吹流しを実弾で打つ演習ですが、この演習後宇品から戦地へ送ることが私の仕事でした。偶々同級の石原君が郷里の浜田聯隊が宇品で新編成をして出征する連絡があったので、一日で初対面で大変な事と思い手伝い、翌日南下の船をお母さんと妹さんと一しょに見送りました。後日台湾辺りで泳いだとの便りがありましたが、次に戦死の報があり、学生時代の健康な顔を偲びました。

 広島では片山君の家が近かったのでお母さんや妹さんによく御馳走頂きましたが、徳島で一度会った丈でこのタクマシイ学友も故人になりました。

 原子爆弾投下の時は九州へ移動していましたので、原隊は若干の傷害があった様ですが私は助かりました。

 F広島-福岡城内西部軍司令部経理部主計見習士官、一週間後、陸軍主計少尉に昇格(S18.12)。

 西部軍から経理部長(中将)の経理検査のついでに二木少尉等を所望された由で部署は「材料班」。飛行場、病院、兵舎その他戦争に関する仕事が手詰りになった為、福岡空港だけでも広い土地の買上げ其他新設工事はてんてこ舞いでした。おかげで福岡空港は私が毎朝の勤労奉仕の老人や中学生の挨拶そこそこに埋立用の石材を熊本と宮崎(美々津)、門司の貨物車を毎日25輌宛往復させ運搬用トラックの修理をどうするかと云うことで私のあとから大勢の補充がありました。飛行場が現在の三分の一にも当らない完成の時飛行機は赤トンボ一機で毎日二百以上の敵機に一瞬にして打ち落された時は泣くに泣けない思いでした。石油が少なかったので九州各県の大会社の社長工場長に古トラックの百台提供のついでに立派な外車を貰ったのも面白い思い出でした。修理は善通寺師団の収容から百名位適任者(俘虜)を引取って飛行場の中に作りました。

 敗戦になると若者はどんどん帰郷するので跡始末が大変であって、残るのは高齢の職業軍人丈けになるので二年位残ってくれと頼まれても、家人が疎開した処にも迷惑をかけるからとのことで、私も自分で半年後辞令を書きました。兵役についた男兄弟三人も元気で帰り二年の内で結婚式をすませ百才の祖父はよろこびました。私も祖父のように元気で長生きをし楽しい生涯を作りたいと思います。