6組  仁品  正

 

 ことば遣いが異様に映るかもわかりませんがご容赦ください。
 父を紹介させて頂きます。

 わたしは(以下たぬきとなる)明治二十四年(一八九一)五月一日、広島市の北二十五里、安芸と岩見の国境に近い村で、増田啓太郎の次男として出生しました。

 若い頃、隣村の仁品常太郎・千代夫妻の養子にならんかと話がありました。この人は、その村の開校間もない尋常小学校に、明治十六年から教師を勤めていた経歴もあり、特に漢学と算法に長けた人という評判があった。

 わしの生れた増田は、昔は見廻り役人を勤めた侍の家柄であったが、仁品は百姓家だから婿入りなら断るつもりだった。然し、金もあるそうだし、山や田畑は他村にも広くもっているそうで、近在では名の通った富限者といわれておったので、養子なら悪くないだろうと思い、行ってやろうと決めた。

 わしは、農学校を出て代用教員で小学校に勤め、本格訓導にもなっておったが、県視学の視察というのが苦手だった。来るたびに何だ彼だと威張るし、重箱の隅をつつくようなうるさいことを言う。これに比べれば、誰も文句を言う者のない百姓の仕事が楽だから学校はやめてやった。しかし百姓仕事をやると、ぶよにかまれるのには閉口したよ。

 遠縁から嫁を貰ったが子供もできんし、なんだかんだでかえした。そのあと日赤看護婦だった若いのを貰った。仲々のしっかり者で、子供も出来、長男には願をこめて「正」と命名。漸く養家仁品の跡目相続の目途もたって、わしの立場も根付いてきた。

 その頃、欧州大戦につづいて、シベリア出兵という一大事に係わる年だった。
 わしは見てのとおり、五尺二寸しかなかったから五分の違いで兵隊にはとられなんだ。
 こういう奥の田舎に住んでおるといかにも世間知らずになって了いそうな気持だった。
 うちには男手も二人、女手も二人を傭うておったから、百姓の仕事というてもわし自身は楽なもんだったから、世間の空気を吸うためちょいちょい広島の街へも泊りがけで出ておった。

 株成金の話がみんなの羨望の的だった。わしもやってみようと思い株屋へよく行った。その店の外交員もいろいろ教えてくれたのでだんだんその気になった。三千円持って大阪へ株を買いに行ってしばらく逗留してみたが、結果は草臥儲けで粟おこしを土産に奥へ引込んだ。儲かるもんじゃないとその時は思うた。このことで女房にも愚痴られたが、養母に白い眼で叱られたのが一番こたえた。もう二度と株を買いに大阪へは行くまいと思い、気晴らしに別府へ行ってきた。

 広島へは相変らず出掛けて、教訓を胸にし乍ら株の売買には手を出した。時には儲けたこともあった。
 子供達も成長し、つぎつぎと小学校へ通うようになった。奥の家から学校のある村のいちまでは約一里の峠越えで大人の脚でも小一時間かかったが、部落の六軒からいつも五・六人は通っておった。冬は雪の深いところで、子供の膝上まで積った日にはみんな学校は休ませた。そういう日が年に二度や三度はあったと思う。

 長男が六年生の春だったか、県優良健康児に推薦すると担任の先生から言づけがあって、その後、推薦されたことを賞すという県の表彰状を長男が貰うて来たが、その話はこれだけだった。
 やがて長男の中学受験の時が来た。担任の陸士中退の先生にも励ましてもらい、広島一の難関といわれた高等師範の附属中学を受けさせようと、長男を広島へつれて出た。
 第一次の学科試験に合格したので先ず奥の先生に電報で知らせた。数日後の口頭試問と身体検査の第二次試験にはまさかのことに篩い落とされて了った。この日体育館で待たされている間に、新しい仲間にうかれたか、喋るだけならまだしも、果ては追い駆けっこで走り廻り監督の先生には怒鳴られ、三人許りは並ばされて説教されておった。長男がその中にいた。あれが原因かも知れないとあとでうそぶいていた。これで気が楽になった。
 広島市内では県立一中は附中と試験日が重なったため、私立を除くと残るは二中だけだった。
 幸い二中に合格し、四月から寄宿舎から通わせることとした。広島市外出身者許り百余名収容で、各室に四・五年生が一名室長となり四名ずつの割当てであった。監督の独身先生が舎監をしておるだけで概ね生徒たちの自治生活であった。敷地内に校長先生の官舎があって睨みをきかせた配置であった。

 一年も無事終るかと思う頃、上級生の制裁が怖いから寄宿舎から出たいと長男が訴えた。然らば自宅通学にすれば済むことと、市内に土地を借りて家を建て家族全員を引きつれて出た。田畑日常の管理は小作に出した。山のことは時々わしが奥へ帰って見て廻ることにした。
 市内に住むと、株屋は近くなったが儲かる訳でもなく、先祖伝来の山や田畑は少しずつ減っていった。
 長男以下七人の子供の教育の為という大義名分はあったが、入籍当時健在だった養家の祖父母・父母も、養母を最後に既に亡く、悔恨の念はわしの身うちに深まる許りだった。それに酬いる唯一の道は、子供達を夫々他人に後指を差されぬ人間に育て上げることと肝に銘じ、子供達にもそう言い聞かせ仕付けてきた。(これこそ「喉元すぎれば」のたとえの如し)

 その間にも時代の流れで、農村では、米作一本の農家は衰退の一途、村では若い労働力が目に見えて少なくなっていった。
 長男が東京の大学入学後は、わしは奥へ帰って百姓を再開した。奥の人間が女房に問うたそうな、「息子さんを大学へ上げなさったそうな、大学を出なさったら校長さんにでもなりなさるのか?」村で一番偉いのは校長さんで、その次が村長さん。そのあとは駐在さんと相場が決まっておった。村会議長は自分で偉そうにやっとるだけで禄な男じゃなかった。(当時のはなし)

 田畑は矢張り自分の手で耕すもの。他人の手に委せておくと痩せ細って了う。
 一つには田や畑に対する感謝と愛情があり、次男もやがて大連の学校へ入ると、娘三人は広島の家から学校へ行かせることにして、女房と二人で奥で百姓三昧の日を送ることとした。
 新聞で相場を読んで株価の罫線を引く毎日も、その時間だけは世間に接する楽しみを味わう気持になったが、連戦連勝だったニュースも色褪せ、昭和七年に満州で起こした火種は漸く勢いずいて中支・北支に戦線が拡げられて、株どころではない世の中となった。

 漸く長男の卒業を迎えると、就職日が即入営日という慌しさ。下関の鎮台守備の伝統に輝く西部第七十四部隊(下関重砲兵聯隊)に入隊、五ヶ月もすると経理部甲種幹部候補生、と思うと二ヶ月後には新京の陸軍経理学校(満州八一五部隊)で将校教育だという。同校も速成六ヶ月で見習士官となったが、一ヶ月後には何処か南方へ行くといって最後の外泊で広島市の家へ帰って来た。在満の次男を除く全員が広島に集合、記念写真を撮って二泊して下関へ帰っていった。数日後の出発予定と聞いた日には、女房もつれて下関港に出掛けてみたが、船団には門司から乗船したそうで、いよいよ長男も文字通りお国の見えざる手に委ねることになった。次男も既に満州で現地入隊して同じ運命を走りだしていた。

 奥の家にはわしたち夫婦と三男の三人暮らし、娘達は広島の家で、長女は小学校に奉職、次女三女が学業半ばのあの年、八月の熱い日、ピカで広島市中心部は全滅した。爆心から二粁許り北寄りの広島の家は、爆風で傾き一週間後に力尽きて潰れ、広島市内の拠点も消滅の運命と相成った。

 その日、小学校に居る筈の長女は児童と共に市外に疎開中、次女は三原の女子師範学校受験の為市内から遠かったが、第二県女三年生だった三女は市内に居た。たまたまその時刻には似島へ学校から派遣の勤労奉仕(挺身隊)に参加の為の集合地宇品港近くにいた。本人が気付いた時は路傍にとめてあった大八車の下にいた。ピカッと光って飛ばされ、背中に軽い火傷を負っただけで、結局三人とも生命に別状は無かった。

 その直後から三人は夫々の工夫で、市内の惨状を踏み分けて北へ五〇粁余りの奥の家を目差したが、交通機関の跡絶えた一週間のウォークラリーは、十代の少女達にとっては心身ともに形容をこえた苛酷な試練であったろうと不憫であった。

 わしは奥の家から五里余り広島寄りで、村の幾人かと飛行場作りの勤労奉仕の仕事に出ておった。広島の方向でピカッと光り、しばらくして黒煙が立ち昇るのを望見した。

 戦後の通貨の改変、価値の下落などの追い討ちでしばらく株に目を向けることもなかったが、二十一年六月末にセレベスからひよっこりと復員してきた長男が「今のうちに株を買っておきなさいよ」と言ったが、負け犬の遠吠えとでもいうのだろう。
 幸いにも次男は、終戦の年の夏前に部隊が、首都防衛目的の配置転換により、ソ満国境から土浦に移っていたため、早々に復員し再就職しておった。
 我が家族は、家が潰れたり焼けたりを別にすれば、全員無傷で新しい時代を迎えることができたのは、不幸中の幸いであった。
 これも祖先から継がせて貰った財産を可成り減らし乍らも何とか守り、常日頃から、祖先の御恩を忘れてはならんぞと、お墓詣りごとに、仏壇の前に坐るたびに、子供たちに言い聞かせてきた功徳であろうか。(自画自讃。仏様のみぞ識る)

 ぼつぼつ八○才にも近づき、筋肉労働はわが身が受けつけなくなったと見極めて、二〇年ほど前にまた広島市内に戻って家を建てた。子供達も夫々独立したり嫁いだりで、もとの二人に戻ったわけだ。
 三原女子師範を卒業後、広島市内の小学校に奉職した次女は、二人の息子を社会に送り出し、今は大学教授となった御主人と二人の生活に戻っており、この一家が隣家となった新しい環境は、女房にも漸く楽ができるかと思わせたことだろう。一九才で嫁に来て以来わし以下八人の大家族を支えて、肉体的にも時に(?)精神的にも苦労の絶えない女の一生だったであろう。ええ女房だったよ。わしも気が楽になって毎日罫線を引き乍らぼつぼつ始めることにした。

 長男一家は戦後復職し呉から始めたサラリーマン暮らしで子供も二人かかえ、本社へ行ったかと思うとブラジルヘ単身二年、続いてニューヨークに二年余りで漸く家族を呼び寄せ、通算六年の海外勤務を終えて四十年に日本へ帰って来た。と思ったらまたまた名古屋、本社、福山、名古屋と七年のうち単身六年。全く忙しいことよ。
 そんな生活をみて、終戦直後にあった誘いに乗せて高校の先生でもやらせておけば良かったのだろうかと思い返し胸をいためたこともあった。

 次男は当時の大陸進出の波に乗り財閥系の商事会社に就職したが、戦後解体の憂き目にも会った様だが、その後の復興とともにもとの会社に復帰して無事に停年を迎えた。

 戦時中の数々の苦労も味わい、最後に少年航空兵の夢も優く消えた三男は、親の目からみても一番の親想いで、大学も地元の広島を選んだが、卒業後は希望の犬のマークの会社で近く停年を迎えようとしておる。

 毎年正月二日には、子供達が家族づれで集って新年を祝うてくれるが、近頃は年々頭数が増えておるようで、名前はおろか顔も覚えきれんよ。
 何にしても、七人の子供達が立派に家庭を持ち、その孫が十四人、ひ孫もそれを上廻る人数となり、その上やしゃごまで出来たが、文字通り糟糠の妻を三年前に亡くしたのが近来の痛恨事であった。然し女房は満九十才の誕生日に暇乞いをするとは、それなりの楽しみもあったろうが、何と几帳面な女であったことよと哀れであった。
 (長男注・小学校一年の頃のおバアちゃんの葬式以来、昭和六十三年七月三十日の母のそれは仁品家初めての葬儀であった)。

 わしは若い頃から日の出と共に起き日暮れまで精一杯働くのが毎日の生活だった。これが一番自然の理に叶うというもの。よく寝て腹八分食えばそれだけで充分。人間、勢いに乗って失敗した者は数限りが無い。どうぞみんな身体を大事にして下さい。

 わしは女房にも恵まれ子供運にも恵まれ、三代先の跡取りも出来たし、最高の果報者と思う。おまけにどこという痛いところも痒いところも無しで、とうとう百才の誕生日を送り百一才に足を踏み込んだ今はつくづく有難いことだと思うとる。
 世の中どんどん動きよる。子供達も次々と停年を迎えるというが、人生に停年なし。人並みの真似をしてバタバタせんことよ。人間一生のあいだ働けるだけ働かれれば良い。それがみんなの幸せにつながるはずだと思うて働くことぢゃ。
 わしの百年史には「大いなる失敗」は無かった。子供達がみんな夫々平隠な家庭を築いてくれたことがわしの自慢の種だよ。
 (長男曰く。この調子じゃ小さいときからの二十六年のハンディは永久に縮められそうにない。これ以上水をあけられないよう頑張りましょう、おのおのがたも!!)