3組 野口 光明 |
力ーン、力ーンと木の下部にくさびを入れる斧の音、メリメリッという幹の裂ける音、「危ないぞーっ」と叫ぶ大声、と、いっぱいの枝葉もろとも一抱えもある大木が、ゆっくりと崩れ落ちる。大きな地響きが初冬のシベリアのしじまを破り、やがてしーんとした沈黙が大地を支配する。木の両側に腰をおろして大鋸を挽いていた二人と、見張り兼倒れた木の枝を焼き払う役目の一人の三人一組は、大自然の明るさと清らかさを胸一杯に吸い込む。こうして私のシベリア抑留生活の第一歩が始まった。 当時、私は二十六歳の旧陸軍少尉。一九四四年八月に渡満して航空要員の地上教育に当っていたが、終戦で関東軍の命令系統が途絶えると、要員約百名中の半数が逃亡の途を選び、残る私たちは旧奉天で武装解除を受けて列車に詰め込まれた。十一月に入って漸く着いた先は、バイカル湖に遠くない、山腹の斜面に半ば埋もれて建てられた丸太小屋で、モンゴル系の顔立ちの人を多く見掛ける場所だった。 間もなく食糧不足による飢餓と栄養失調、それに加えて記録的な大寒波に襲われた。月を追って体力が衰えると共に、注意力も動作も散漫になって、木が倒れる時に逃げそこなって大怪我をする者や、命を失う者さえ出始めるようになった。 対独戦争のあとで、ソ連自身も厳しい食糧事情下にあったのであろう。収容所の食事は、黒パン一切れと高梁、ライ麦、稗など原穀のまざるスープだけで、塩も油も切れたことが多かった。誰もの胸が肋骨の読み取れるほど薄くなった頃、作業帰りの私たちに、「ヤポンスキー(日本人)」という声と共にキャベツが二個、すれ違うモンゴル人の馬橇から蹴落とされた。その晩の夕食は、塩気もなくただ茄でただけの一片のキャベツを、大事に黙々と賞味する男たちの静かな興奮で、狭い収容所は包まれた。飯盆の上に白く輝くキャベツを口に含んだ時の天然の甘み!それは生涯で忘れがたい"美味"であった。 伐採現場の私の所に、折にふれ話しに来る小柄なロシア人がいて、「クーシャイ(食べろ)、お前は顔色がよくない」と、黒パンを分けてくれたりした。粗い作業服をまとい、差し出されたパンをおし戴いて食べる私をにこにこと眺める彼は、近くで労役に服するドイツ人捕虜に対して露骨な敵愾心を示すのに、日本兵には同情の心をあらわにした。彼の素朴な語り口から、私は、プロレタリアートの国ソ連にも特権階級が厳然と存在し、その子弟は幼児期から特別の扱いを受けていることなどの知識を得た。彼は警戒兵やソ連の親方が通りかかると、すばやく話題を切り換えたから、製材所で強制労働に服している政治犯かもしれない。 伐採が進むにつれ私たちの作業地は山深くなり、麓の製材所まで木材運びのトロッコが敷かれるようになった。ある日のことである。ソ連の親方が、鉄道の枕木用の丸太を指差してこう言った。 寒さも酷いことだし、日本人たちは「それっ」とばかりに丸太を積み始め、昼過ぎには指定量を完遂して、はやばやと収容所へ引き上げてきた。ところがである。その所要時間と作業量から、翌日からの一日分のノルマが算出されてしまった。その後私たちは、"働かざるもの食うべからず"が国是のソ連人が、ただ時間稼ぎにだらだらと作業していることが多いのに、いやでも気付かざるを得なかった。 ある晩、戸外の便所で用を足して戻ろうとした時である。若い男性のみごとな混声合唱が、澄みきった大気をついて渡ってきた。収容所からさほど遠くない警戒兵の宿舎かららしい。歌詩は聞き取れなかったが、ロシアに古くから伝わる讃美歌が大地から沸き上がってくるみたいで、収容所の近くにある修道院で、修道士たちが神への賛歌テデウムを捧げている声かと錯覚に陥った私は、中天に掛かる満月のもと、祈りながらしばらく寒気も忘れて聴きほれた。 マイナス五十度の冬をなんとか越して三月に入ると、収容所でチフスと赤痢が伝染しだした。医務室では薬が不足し、絶食療法というのか、食べ物を絶って病原菌を体外に排出する方法がとられた。その後で少しずつ食事の量を増やして腸を馴らしていくのだが、恢復期の空腹感は耐えがたいものらしく、一気に水などを飲んで自らの生命を縮めた例も何件かあった。ぎりぎりの給食状況下でのこの闘病生活の辛さに思いをはせると、今も私は断腸の念にさいなまされる。 四月といっても零下十度。だがシベリアとしては暖くなった、とある日曜日、「収容所の庭に全員集合」という命令が出た。収容所長と並んで大きな肩章をつけた女性の軍医将校が、捕虜約二百名に裸の列を作らせて健康診断を始めた。私の番になって彼女の前に立つと、腰の肉をつまんで机上の名簿を見較べた軍医は、「アフィッエール?(これが将校か)」と叫んで、収容所長を叱っている様子だった。「これで命が助かるかも」という私の直感は的中して、翌日から作業を免ぜられた十数名と一緒に別室に隔離され、"栄養失調者"と位づけされて、肉や野菜のたっぷり入った油こい粥を日に五回、少しずつ支給されるようになった。 それから私のシベリア抑留生活は急旋回し、更に二冬を町に近い食肉缶詰工場その他で働いた。被服係をしていて、ソ連の主計少佐のお伴で馬車で地区管理本部に行った時のことである。 「俺はもう一つ用足しがある。先に帰ってくれ。ついでにこの人を町まで送って欲しい」 彼女は、御者台に先に乗った私に、両腕を伸ばして胸に抱いていた嬰児を渡した。生後十ヶ月ぐらいのその赤子は、黒いつぶらな瞳で私を見上げて、べつに泣き出しはしなかった。助手席に乗り込んだ婦人は、躰を斜めにして子供を受け取ると、自分の膝に前向きに座らせた。異性と隣合わせて座るなんて、何年ぶりのことだろう。私の方が少しドギマギした。二人は暫く無言で、馬車の揺れに身を任せて時を過した。 「このあたりには、もうお長いんですか?」 一九四八年の五月、ナホトカから帰国する船の中で、あの時の膝の嬰児の父親が、日本人の軍医であることを、同僚から聞かされた。「それであの子はあの時、ひとみしりもせず私の腕に抱かれたのか」と私は納得した。同時に、彼女の不思議なミカド観の背景も、やっと腑に落ちた。 船がゆっくり港に近づいた。四年ぶりに見る祖国、その海岸の崖上の色の濃さ、太陽にきらめく木々の緑の青さ、私は呆然と立ちすくんだ。なんとシベリアの緑は、人の心と同じように淡かったことか。 久しく鉄の力ーテンの彼方にあったソ連から、ペレストロイカの波に乗って、大統領が来日するまでになった。領土問題では、先々を念頭に置いて日本政府とつばぜり合いの交渉を重ねるゴルバチョフ氏、彼のタフさ、頭の回転の速さもさることながら、大きい領土を持つ国の地方への分権化の悩みもまた、日本人の目を見開らかせた。 せんだって、新潟行きの新幹線の中で、たまたまソ連の婦人と隣合わせに座った。今はもうすっかり忘れてしまったロシア語だが、思い切って |