7組 野村 好夫 |
「苦しみ、死ぬ代償を支払っても人生は生きるに値する」とは或文豪の作品の一節である。これからをどう生きようかと考えた時、最小限ボケない事だと悟ってから何事にでも興味を持って追求する癖をつけて来た。暇があれば、あれはどうなっているかこれはどうしてだと、いろいろ思い巡らして見る事にしている。それがとんでもない結論になっても一向に気にしない。 一、暗号解読 昭和十八年七月ビルマ派遣軍に転属になり補充要員約千名と共に故郷四国を後にして広島県宇品港から出征することになっていた。出征兵士だから先ず広島駅で歓呼の声に迎えられると思っていたら意外に下りたのが通常の国鉄広島駅ではなく、ずっと手前の練兵場の中に臨時に作られた仮設のホームであった。それから宇品港までの間広島市の中を余り目立たないように、裏道を通り隠れるようにして目的地に着いた。一寸変だと思って警備のために来ていた憲兵隊の曹長に聞いたらスパイ対策だと言っていた。それはシンガポール陥落の後、昭和十七年五月頃南方開発の民間技術要員多数を送った時、広島市でどんちゃん騒ぎの歓送会をやって出したらその時の輸送船大洋丸は東支那海で敵の潜水艦の魚雷攻撃により全員海没という悲劇があり、これを警戒してそれ以来とって来た措置だと言う。我々も成程と納得して出征したが、後で聞いた話によるとこの大洋丸事件はスパイとは何の関係もない暗号解読によるものらしい。 昭和十六年十二月開戦当時アメリカの潜水艦は太平洋海域には全体で二十隻位しかいなかった。広い太平洋に二十隻では戦力としては問題にならない。所がこれが暗号解読によって案外効果を上げていたようである。 我々が乗船した輸送船団も航海途中では電波管制により通信電波を出さないから敵の電波探知器により発見される事はない筈である。所が出港する時、出港の日時、到着予定日等を目的地であるシンガポールに暗号送信するシステムになっていた。この暗号が解読されて出港時から計算した到達予定洋上で潜水艦が待伏せするという段取りになるらしい。この暗号解読の基地はハワイのホノルルであったと言う。洋上の電波発信は禁じられていたが魚雷攻撃により沈没する場合は我が軍は宇品の基地に海没の地点及び日時を連絡することになっていたから、敵は居ながらにして戦果の確認が出来るという二重の得点をかせいでいた。 二、軍 旗 歩兵と騎兵には天皇陛下から軍旗が下賜されており、それは我々が大切に取扱わねばならないもののトップにランクされていた。然しこれは歴史をたどると戦国時代のものでそれぞれの軍勢の旗印として紋所を入れ、福島、加藤、徳川などと各軍の戦陣にその偉容を誇って立てていた当時の流れをくむものである。これに意味があったのは立てていても敵から其所に「タマ」が届かないという時代背景があってこそ価値があった。然し旗を立てている処に「タマ」が届くようになれば、これは危険きわまりないものに成り下ってしまう。我々のビルマ戦線にも軍旗は奉じていたが、何時もカバーをして見えないように持って歩いていた。それだけでなく、それを護衛するための軍旗小隊というのがあり、ここに戦死者が出ると戦闘部隊から要員を引き抜いて行くので、これでは戦争が出来ない。ガダルカナルの戦闘で軍旗を後方の師団司令部で預かってくれないかという連隊長がいた話を聞いた事がある。勿論聞きとどけられなかったそうだけれど、この連隊長の気持ちはわかるような気がする。 三、軍 刀 我々将校になると皆軍刀を持っていたが、これは武器としては所謂欠陥商品らしい。それは長さに対して刀の厚みが薄い為に堅い物を切ると刀身が曲がって鞘に納まらなくなる。支那事変の初めに兵器修理の為に派遣されていた軍属の人が軍刀の曲がりが余りにも多いので「将校に軍刀の使い方を教えておいて欲しい」と要望書を出した話がある。我々のビルマ戦線では軍刀で切り合いをする戦闘は無かったため、欠陥商品には気が付かなかったが第二次上海事変の時、二人の将校が軍刀でどれ位人を切るか競争をしたという所謂人切り事件があって、それまでの内地の新聞にも武勇伝として報ぜられていたが終戦後、南京の中国戦犯軍事裁判でこの事が問題になり、中国側の弁護士が日本へ調査に来たらしい。軍刀が欠陥商品で百人切りなど不可能な事、そしてこれは作り話である事を立証してやる人が居なくて二人は処刑されたという記事が出ていた。 四、軍 馬 戦後フランスのジャーナリストが書いた記事に「日本の将校は戦場で動物に乗っている」というのを見て、初め何の事かと思ったが、松井支那派遣軍司令官の南京入城の写真が記事に合わせて載っていたので、ああ馬の事かとわかった。成るほど我々は天皇陛下が白馬にまたがってする観兵式から何となく馬を戦力の大きな部分に考えていたが、確かに戦力としての動物は第一次大戦(一九一四〜一八)の時の主要国の軍隊にはもう既になかった。アラビヤのラクダ部隊位である。 五、小銃の射撃訓練 我々も入隊して暫く小銃の射撃訓練に引っぱり出された。目標は一発必中である。寝打ちの姿勢で三百米位の距離から目標を狙うがなかなか一発必中という訳には行かない。側に立って見ている中隊付下士官に「何処を狙っているんだ」と腰の処を蹴飛ばされるとますます「タマ」はあらぬ方へ飛んで行く。然し戦力としての小銃の一発必中の効果が期待されたのは、せいぜい普仏戦争(一八七〇〜七一)までで、第一次世界大戦(一九一四〜一八)の時は戦法が変って、一分間に何発「タマ」が出るかが問題になり、自然に機関銃に移っていった。第二次大戦当時のアメリカ海軍の機関砲は一地点に四千発/毎分の「タマ」を集中する事が出来るという話である。我々陸軍は一体何を考えていたかと一寸頭をかしげたくなる。 六、武士道 「生きて虜囚の恥かしめを受くることなかれ」という武士道の精神は軍隊の中に脈々と流れていた。この武士道の精神も具体的な捕虜の取扱いになって来ると、その事がこの戦争を大変悲惨なものにしたという感じを受ける。捕虜の取扱いを規定したジュネーブ条約には日本は署名はしていたが、批准をしていなかったという事で昭和十七年頃中立国のスイスを通じて連合軍から問い合わせがあって、日本としても捕虜の取扱いについてはジュネーブ条約を守るという返事をしたらしい。然し具体的には実行されなくて日本兵は捕虜にならないし、敵の捕虜を虐待するという構図が出来上ってしまった。敵側からやられた事件では、日本兵は捕虜にならないし、生かしておくと戦力になるという処からガダルカナルの戦闘では日本の負傷兵を全部戦車で踏み潰したとか、ラバウルからニューギニヤに向った陸軍部隊を載せた輸送船が魚雷攻撃を受け、船が沈没し浮遊物につかまって浮んでいる陸兵を敵のグラマンが空から機統掃射で皆殺しにしたとか。又やった方の事件では、敵の捕虜を銃剣術の稽古台にしたとか、B二九のパイロットを捕虜にしてその内臓を全部取り出してどれだけ生きられるかとか、血液を全部抜きとりその代りに海水を入れたらどれだけ生きられるか等、医学上は格別意味のない実験をやった九州大学医学部の生体解剖事件などの話を聞かされるにつけ、とんでもない悲惨な結果を生んだ武士道を悲しまざるを得ない。 七、無敵海軍 (1) 潜水艦攻撃 日米戦争開戦前に海軍は、この戦争は負けるからやめた方がよいと言うのと、いや大丈夫勝てると言う隠れた自信家も相当いたそうである。後者の場合は日本の特技である潜水艦攻撃の成果への期待がその基本になっていた。 (2) ミッドウェー海戦 日本海軍にとってミッドウェー海戦はその運命を決する戦いであった。それだけに海軍の精鋭をもって臨んだ訳であるが、アメリカ側はこの戦果を見て当時のノックス海軍長官は「日本海軍は近代戦のやり方を知らないのではないか」と肩の荷が下りたという言い方をしている。「遺恨十年一剣を磨く」という言葉通り猛烈な訓練とたゆまざる努力をこの一戦にかけて来たのに、敵の海軍長官からこんな言葉を浴びせられるとは暫し次の言葉が出なかった。細かい内容の説明がないから我々素人にはむずかしい事だが、其の一つは戦闘体形が問題にされている。ミッドウェー占領に向うのに第一線に南雲機動艦隊がいて、それから約五百海里(七百K米)後方に旗艦大和(山本五十六長官坐乗)を主力とする連合艦隊が続いている。この七百K米の間隔は艦隊の行動時間にして十三時間の距離に当り、又、電波管制のため戦艦大和は電波を出さないから日本式率先垂範で洋上に来たが、何も出来ず連合艦隊司令長官は南雲艦隊の損害を見て、これ以上の攻撃を諦めて帰ってしまうという結果になった。敵の海軍長官が言っているのは、日本の攻撃体形は前後が逆で戦艦を主とする艦隊が主役で敵を攻撃し、そのすぐ後に機動艦隊がいて主力艦隊の行動を援護するのがミッドウェー占領のための近代戦の攻撃体形ということのようである。又、敵の太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将はハワイから電波で指揮をしていて現地には来ていない。率先垂範のやり方が違うようだ。日本にも軍令部もあれば海軍大学だってあったのに、どうなっていただろうかと一寸考えさせられる話である。 (3) 連合艦隊司令長官 停年後中国を旅行した時に、たまたま支那派遣軍の参謀部の将校であった人と一緒になった。旅行中第二次大戦の裏話のようなものを話してくれて大変面白かった。彼の話の中で東京の多磨墓地にある古賀連合艦隊司令長官の墓が、其所に並んでいる東郷元帥、山本元帥の墓に比較して同じ広さでも墓石の大きさが極端に小さいのは古賀司令長官が敵の捕虜になったので、家族が世間をはばかって小さくしたんだと言っていた。これを彼は当時参謀本部から軍参謀長宛に来ていた極秘電報を見て知ったそうで、当時の軍内部の狼狽ぶりを話してくれた。我々は海軍のことは不案内なので、改めて所謂「海軍乙事件」について文庫本を読んでみた。 八、マルクス主義経済学 難解な資本論、経済学批判、労働者階級解放のための社会主義、唯物史観、社会主義革命の必然性などなど……内容はむずかしくて、到頭充分理解出来ないまま終ったが、マルクスの言うように「共産主義が達成出来た暁には、人々は自主的に社会に貢献し、警察も軍隊もいらない」となれば人間はそれに夢を託してなびいて行くだろう。又シュンペータが「私は社会主義は大嫌いだ、然し世界の動きは社会主義に向ってとうとうと進んでいる」等書いているところを見ると、そうかなあと感心したものだ。然し具体的にこれを実現しようとしたレーニン革命は反対する者にはテロで報い、秘密警察を組織し徹底して取り締まった。KGBの始まりである。やがて内戦は四年間に及び千万人以上の犠牲者を出した。それから七十年の今、最も問題とされる一党独裁体制である。その間に於けるスターリンの粛正、世界各地に輸出されていった社会主義革命の嵐は何千万の人を殺して二十世紀を駆け抜けて行った。 |