7組  野崎 義之

 

 四年程前に近所の公民館で「男性も楽しく出来る料理教室」の講座が開設され受講生の募集があった。一年間の定期講座で毎月第三土曜日(午前十時から十二時半迄)に開催とのこと。料理に殆ど関心がなかった私も友人の誘いに応じ暇つぶしのつもりで応募したところ、参加者は十二名に過ぎず、募集人員の二十名には達しなかった。中には女性対象の料理教室に黒一点参加したことがあるという人もいたが大半は初めて包丁を持ったという初心者で、せめて老後は自分で料理が作れるようになっておきたいという淡い希望を持った人達で、平均年齢も六十二才と高かった。

 授業は講師がプリントの献立(三品乃至四品)について調理のポイントを説明した後、二班に分かれた受講生が約一時間かけて調理の実習を行った。第一回の献立は、(1)魚の衣揚げ野菜のあんかけ、(2)鍋田楽、(3)わかめのみそ汁であった。

 最初は何もわからずまごつくことが多く、計量のカップやスプーン等初めてみかけたのもあったし、野菜の切り方についても、「せん切り」「いちょう切り」「乱切り」等何のことかわからず、講師、助手の先生に文字通り手を取って教えてもらった。講師も初めての男性相手の講座で何かとご苦労があったようである。男性には聞きなれない料理用語が出ると早速無遠慮な質問が集中するので講師がまごつく場面もあった。

 調理が終ると試食が始まる。料理の出来具合も批評しながら和気藹々と過ごす一番楽しい一刻である。時には調味材料を間違えて一風変った味を賞味?させられたこともあった。
 手先の不器用な私も手を切りそうな危なかしい手つきで野菜や肉を切ったり、理科の実験さながらの調味料の調合等、結構初めての体験を楽しんだが、あなた作る人、わたし食べる人のどちらかといえば食ぺる方を受持つことが多かった。講師からは帰宅後せいぜい復習するようにと言い渡されたが、励行したのは二、三回で、怠けぐせが出たため上達は望むべくもなかった。

 一年が過ぎ修了証書を授与されたが受講生間の親密度が増し、雰囲気も楽しかったので、一同留年を申し出で二年目の講座も引続き参加させて貰った。二年修了した段階で一応卒業ということになったが、料理講座に参加してよかったと思う点は料理に関心を抱くようになったことである。卒業後二年になるが、新聞の家庭欄やテレビの料理番組に興味を持ち、たまに気の向いた時には台所に立つようになった。

 料理に余り関心のない私も全然料理に無縁というわけではなかった。家庭料理とは異なるが、大勢の人を対象にした調理に関係したことがあった。それは軍隊時代の経験で、昭和十八年三月東満国境の野戦貨物廠に配属になった時、金銭、物品の外に給養関係も担当し、数百名の給食責任者となった。実際に調理に手を染めたわけではないが、数名の炊事係の長として給食の難しさを体験した。将校集会所の昼食時は給食責任者として、毎日来客を招いている感じであった。部隊長以下主計将校が多いので、専門的な質問を受けて閉口したことがある。献立についても二度程文句をくらったことがある。一度は鮪のさしみ、二度目は盛夏に冷しソーメンの献立を作った時である。軍隊の献立にはさしみや冷しソーメンはないぞと気合を入れられたが、軍隊の調理は煮たり焼いたりが原則で、生ものや冷たいものは衛生上避けねばならぬものだった。

 料理講習で今一つ思い出に残っていることは、牡丹江の軍経理部で炊事関係の集合教育があった時である。当時米の補給が減じ、現地調達の雑穀類の混入率が高くなっていたので、満州産の高梁の炊き方が課題となった。米にくらべて水を多めにするのがコツであるが、自分の炊いた高梁飯を試食して腹具合を悪くした思い出がある。

 五十年前の軍隊時代のことまで話がそれたが、最近は男子の料理がトレンディになって来たように思う。「男子厨房に入るべからず」の大正生れの世代も料理の必要を身近に感ずるようになった。朝日新聞社編「男子七十にして厨房に立つ」を参考書にして、時折台所に立つ今日この頃である。